一
「随分遠いね。
元来どこから登るのだ」
と
一人が
手巾で
額を拭きながら立ち
留った。
「どこか
己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も
体躯も四角に出来上った男が
無雑作に答えた。
反を打った中折れの茶の
廂の下から、深き
眉を動かしながら、見上げる頭の上には、
微茫なる春の空の、底までも
藍を漂わして、吹けば
揺くかと怪しまるるほど柔らかき中に
屹然として、どうする気かと
云わぬばかりに
叡山が
聳えている。
「恐ろしい
頑固な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の
杖に身を
倚たせていたが、
「あんなに見えるんだから、
訳はない」と今度は
叡山を
軽蔑したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは
今朝宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに
歩行いていれば自然と山の上へ出るさ」
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを
煽いでいる。
日頃からなる
廂に
遮ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き
額だけは目立って
蒼白い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に
曝して、
粘り着いた黒髪の、
逆に飛ばぬを
恨むごとくに、
手巾を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、
頸窩の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに
掻き廻した。
促がされた事には
頓着する
気色もなく、
「君はあの山を
頑固だと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような
按排じゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、
空いた方の手に
栄螺の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の
角から
斜めに相手を
見下した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の
洋杖を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや
否や、
歩行き出した。
瘠せた男も
手巾を
袂に収めて歩行き出す。
「今日は
山端の
平八茶屋で
一日遊んだ方がよかった。今から登ったって中途
半端になるばかりだ。
元来頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
瘠せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく
喋舌り続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも
見損ってしまう。
連こそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか
見当がつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。
瘠せた男は無言のままあとに
後れてしまう。
春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に
貫ぬいて、
煙る柳の間から、
温き水打つ白き
布を、
高野川の
磧に数え尽くして、長々と北にうねる
路を、おおかたは二里余りも来たら、山は
自から左右に
逼って、脚下に
奔る
潺湲の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は
更けたるを、山を
極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の
裾を
縫うて、暗き陰に走る
一条の路に、
爪上りなる向うから
大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の
尿の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち
留りながら、
先きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり
閑と行き尽して、
萱ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く
伸して、返れ返れと二度ほど
揺って見せる。桜の
杖が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う
間もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな
丸木橋を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに
歩行いていると
若狭の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に
聴いて見た。この橋を渡って、あの細い道を
向へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「
叡山の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、
仰せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、
歩行けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると
一人前だがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから
尾いて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
渓川に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、
辛うじて
一縷の細き力に
頂きへ抜ける
小径のなかに隠れた。草は
固より去年の
霜を持ち越したまま
立枯の姿であるが、薄く溶けた雲を
透して真上から射し込む日影に
蒸し返されて、
両頬のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、
甲野さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い
体躯を
真直に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
振り廻した杖の先の尽くる、
遥か向うには、
白銀の一筋に眼を射る高野川を
閃めかして、左右は燃え
崩るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと
擦り着けた背景には
薄紫の
遠山を
縹緲のあなたに
描き出してある。
「なるほど好い
景色だ」と甲野さんは例の長身を
捩じ向けて、
際どく六十度の
勾配に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの
間に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と
宗近君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも
疾くに心得ている」
「ハハハハそれで君は
幾歳だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す
了見だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は
雑作もなく言って
退ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「
冗談を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと
退いてやれ」
百折れ
千折れ、五間とは
直に続かぬ坂道を、
呑気な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の
丈に余る
粗朶の大束を、
緑り
洩る濃き髪の上に
圧え付けて、手も
懸けずに
戴きながら、宗近君の横を
擦り抜ける。
生い
茂る立ち枯れの
萱をごそつかせた
後ろ姿の
眼につくは、
目暗縞の黒きが中を
斜に抜けた
赤襷である。一里を
隔てても、そこと
指す
指の先に、引っ着いて見えるほどの
藁葺は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、
棚引く
霞は
長しえに
八瀬の山里を封じて
長閑である。
「この辺の女はみんな
奇麗だな。感心だ。何だか
画のようだ」と宗近君が云う。
「あれが
大原女なんだろう」
「なに
八瀬女だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度
逢ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく
雅でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、
悌、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、
蕎麦屋に
藪がたくさん出来て、牛肉屋がみんな
いろはになるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は
廃せばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう
後足で石を
転がしてはいかん。
後から
尾いて行くものが
剣呑だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて
枯薄の中へ
仰向けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を
唱えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の
杖で、甲野さんの
寝ている頭の先をこつこつ
敲く。敲くたびに杖の先が薄を
薙ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「
反吐が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも
一と
休息仕ろう」
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も
傘も坂道に転がしたまま、
仰向けに空を
眺めている。
蒼白く
面高に
削り
成せる彼の顔と、
無辺際に浮き出す薄き雲の
然と消えて入る大いなる
天上界の間には、一塵の眼を
遮ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
宗近君は
米沢絣の羽織を脱いで、
袖畳みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う
間に
諸肌を脱いだ。下から
袖無が
露われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした
狐の皮が
食み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。
千羊の皮は
一狐の
腋にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は
斑にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど
性の悪い
野良狐に違ない。
「
御山へ
御登りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ
妙な
所に寝ていやはる」とまた
目暗縞が下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として
天を
眺めている。
「そう泰然と尻を
据えちゃ困るな。まだ
反吐を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「
厄介だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界
万斛の反吐皆
動の一字より
来る」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を
担いで
麓まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々
辟易していたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は
愛嬌のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、
一分でも余計動かずにいようと云う算段だな。
怪しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを
斃す
柔かい武器だよ」
「それじゃ
無愛想は自分より弱いものを、
扱き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに
詭弁を
弄するね。そんなら僕は御先へ
御免蒙るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、
毛脛に
纏わる
竪縞の
裾をぐいと
端折って、同じく
白縮緬の
周囲に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き
懸けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる
岨路を
飄然として左へ折れたぎり見えなくなった。
あとは静である。静かなる事
定って、静かなるうちに、わが
一脈の命を
託すると知った時、この
大乾坤のいずくにか
通う、わが血潮は、
粛々と動くにもかかわらず、音なくして
寂定裏に
形骸を
土木視して、しかも
依稀たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき
有耶無耶の
累を捨てたるは、雲の
岫を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての
拘泥を超絶したる活気である。
古今来を
空しゅうして、
東西位を
尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ
化石になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も
紫も吸い尽くして、元の五彩に
還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、
詮ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の
此方側なるすべてのいさくさは、肉
一重の垣に
隔てられた
因果に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ
情けの油を
注して、要なき
屍に
長夜の踊をおどらしむる
滑稽である。
遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また
歩行かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の
痕迹を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて
髄にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に
膨れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に
半ば掛けたる編み上げの
踵を見下ろす
途端、石はきりりと
面を
更えて、乗せかけた足をすわと云う
間に二尺ほど
滑べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に
吟じながら、
傘を力に、
岨路を登り詰めると、急に折れた
胸突坂が、下から来る人を天に
誘う
風情で帽に
逼って立っている。甲野さんは
真廂を
煽って坂の下から真一文字に坂の尽きる
頂きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を
漲ぎらしたる
果もなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、
雑木の間を四五段
上ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、
湿っぽく思われる。路は山の
背を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。
近江の空を深く色どるこの森の、動かねば、その
上の幹と、その上の枝が、
幾重幾里に
連なりて、
昔しながらの
翠りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を
埋め、三百の
神輿を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、
三藐三菩提の仏達を埋め尽くして、
森々と半空に
聳ゆるは、
伝教大師以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
右よりし左よりして、行く人を両手に
遮ぎる杉の根は、土を
穿ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、
跳ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする
岩の
梯子に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の
階を、
山霊の
賜と甲野さんは息を切らして
上って行く。
行く路の杉に
逼って、暗きより
洩るるがごとく
這い出ずる
日影蔓の、足に
纏わるほどに繁きを越せば、引かれたる
蔓の長きを伝わって、手も届かぬに、
朽ちかかる
歯朶の、風なき昼をふらふらと
揺く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で
天狗のような声を出す。
朽草の土となるまで積み
古るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、
蝙蝠傘を力に、
天狗の
座まで、登って行く。
「
善哉善哉、われ
汝を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を
放り出すと、その上へどさりと
尻持を突いた。
「また
反吐か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の
杖で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ
隙間に、
的と
近江の
湖が光った。
「なるほど」と甲野さんは
眸を
凝らす。
鏡を延べたとばかりでは
飽き足らぬ。
琵琶の銘ある鏡の明かなるを
忌んで、叡山の天狗共が、
宵に
偸んだ
神酒の
酔に乗じて、曇れる
気息を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる
陽炎を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ
一刷に
抹り付けた、
瀲たる春色が、十里のほかに
糢糊と
棚引いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても
嬉しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、
日々人間と
御無沙汰になって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を
背にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって
懐手をしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に
将門が
気を吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を
瞰下したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気
を吐くより、
反吐でも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで
達磨だね」
「あの
煙るような島は何だろう」
「あの島か、いやに
縹緲としているね。おおかた
竹生島だろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、
質さえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが
真だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の
浮気はなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのは
真っ
平御免だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「
小刀細工の
好な人間がさ」
山を下りて
近江の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに
眺めているのが甲野さんの世界である。
二
紅を
弥生に包む昼
酣なるに、春を
抽んずる
紫の濃き一点を、
天地の眠れるなかに、
鮮やかに
滴たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも
艶に
眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める
鬢の上には、
玉虫貝を
冴々と
菫に刻んで、細き
金脚にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き
眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。
半滴のひろがりに、一瞬の短かきを
偸んで、疾風の
威を
作すは、春にいて春を制する深き
眼である。この
瞳を
遡って、魔力の
境を
窮むるとき、
桃源に骨を白うして、再び
塵寰に帰るを得ず。ただの夢ではない。
糢糊たる夢の大いなるうちに、
燦たる一点の
妖星が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、
眉近く
逼るのである。女は紫色の着物を着ている。
静かなる昼を、静かに
栞を
抽いて、
箔に重き一巻を、女は膝の上に読む。
「墓の前に跪ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃い、この手にて香を焚くべき折々の、長しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶も我らを割き難きに、死こそ無惨なれ。羅馬の君は埃及に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂きわれに拒める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱に、市に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫に隠したまえ。」
女は顔を上げた。
蒼白き
頬の
締れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、
一重の底に、余れる何物かを
蔵せるがごとく、蔵せるものを
見極わめんとあせる男はことごとく
虜となる。男は
眩げに
半ば口元を動かした。口の
居住の
崩るる時、この人の意志はすでに相手の
餌食とならねばならぬ。
下唇のわざとらしく色めいて、しかも
判然と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
女はただ
隼の空を
搏つがごとくちらと
眸を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を
頭に飛ばして、泡吹く
蟹と、
烏鷺を争うは策のもっとも
拙なきものである。
風励鼓行して、やむなく
城下の
誓をなさしむるは策のもっとも
凡なるものである。
蜜を含んで針を吹き、酒を
強いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。
拈華の
一拶は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ
躊躇する事
刹那なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに
迷と書き、
惑と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う
間に引き上げる。
下界万丈の
鬼火に、
腥さき
青燐を筆の穂に吹いて、
会釈もなく
描き
出せる文字は、
白髪を
たわしにして洗っても
容易くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す
訳には行くまい。
「
小野さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、
崩れた口元を立て直す
暇もない。唇に
笑を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、
手持無沙汰に草書に
崩したまでであって、崩したものの尽きんとする
間際に、崩すべき第二の波の来ぬのを
煩っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く
咽喉を
滑り出たのである。女は
固より
曲者である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を
継いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも
映らぬ男の眼には、二の句は
固より愚かである。
女はまだ
何にも言わぬ。
床に
懸けた
容斎の、小松に
交る
稚子髷の、
太刀持こそ、
昔しから
長閑である。
狩衣に、
鹿毛なる
駒の
主人は、事なきに
慣れし
殿上人の常か、動く
景色も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが
外れれば、また継がねばならぬ。男は
気息を
凝らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ
細面に予期の
情を
漲らして、重きに過ぐる唇の、
奇か
偶かを疑がいつつも、
手答のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って
彎ける弓の、危うくも
吾が頭の上に、
瓢箪羽を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き
反えて、女は始めより、わが前に
坐われる人の存在を、
膝に
開ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、
箔美しと見つけた時、今
携えたる男の手から
ぎ取るようにして、読み始めたのである。
男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は
羅馬へ行くつもりなんでしょうか」
女は
腑に落ちぬ不快の
面持で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく
納得する。小野さんは暗い
隧道を
辛うじて抜け出した。
「
沙翁の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って
馳け出そうとする。魚は
淵に
躍る、
鳶は空に舞う。小野さんは詩の
郷に住む人である。
稜錐塔の空を
燬く所、
獅身女の砂を抱く所、
長河の
鰐魚を蔵する所、二千年の昔
妖姫クレオパトラの
安図尼と相擁して、
駝鳥の
に軽く
玉肌を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁の
描いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、
紫色のクレオパトラが眼の前に
鮮やかに映って来ます。
剥げかかった
錦絵のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き
袖を、さっと
捌いて、小野さんの鼻の先に
翻えす。小野さんの
眉間の奥で、急にクレオパトラの
臭がぷんとした。
「え?」と小野さんは
俄然として我に帰る。空を
掠める
子規の、
駟も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける
異しき色は、
疾く収まって、美くしい手は
膝頭に乗っている。
脈打つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、
恋々と遠のく
後を追うて、小野さんの心は
杳窕の境に
誘われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、
嘆息の恋じゃありません。
暴風雨の恋、
暦にも
録っていない
大暴雨の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を
斬ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が
怒ると九寸五分が紫色に
閃ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「
沙翁が
描いた所を
私が評したのです。――
安図尼が
羅馬でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の
報道を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が
嫉妬で濃く染まったんでしょう」
「紫が
埃及の日で
焦げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う
間もなく長い
袖が再び
閃いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を
眺めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と
抑えた女は再び
手綱を
緩める。小野さんは
馳け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、
詰り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように
背が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を
追窮します。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ
御婆さんね」
女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき
靨のなかに
捲き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば
偽りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。
皓い歯に交る一筋の金の
耀いてまた消えんとする
間際まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を
疾うから知っている。
美しき女の
二十を越えて
夫なく、
空しく一二三を数えて、二十四の
今日まで
嫁がぬは不思議である。
春院いたずらに
更けて、
花影欄にたけなわなるを、
遅日早く尽きんとする
風情と見て、
琴を
抱いて
恨み顔なるは、嫁ぎ
後れたる世の常の女の
習なるに、
麈尾に払う折々の
空音に、
琵琶らしき響を
琴柱に聴いて、本来ならぬ
音色を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。
仔細は
固より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に
覗き込んで、いらざる
臆測に、うやむやなる恋の
八卦をひそかに
占なうばかりである。
「年を取ると
嫉妬が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
小野さんはまた
面喰う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる
訳がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に
堪能なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に
因るでしょう」
角を立てない代りに
挨拶は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに
嫉妬なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
女の声は静かなる
春風をひやりと
斬った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を
外して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い
崖の上から、こちらを
見下している。自分をこんな所に
蹴落したのは誰だと考える暇もない。
「
清姫が
蛇になったのは
何歳でしょう」
「
左様、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「
安珍は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは
御何歳でしたかね」
「
私ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と
御同い
年でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど
老けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か
奢りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「
可愛想に」
「可愛らしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の
極まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは
固より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは
必ず女である。男は必ず負ける。
具象の
籠の中に
飼われて、個体の
粟を
喙んでは嬉しげに
羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く
音を競うものは必ず
斃れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き
損ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど
安珍のようなの」
「安珍は
苛い」
許せと云わぬばかりに、今度は受け
留めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が
御厭なの」
「
私は安珍のように逃げやしません」
これを逃げ損ねの
受太刀と云う。坊っちゃんは
機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように
追っ
懸けますよ」
男は黙っている。
「
蛇になるには、少し年が
老け過ぎていますかしら」
時ならぬ春の
稲妻は、女を出でて男の胸をするりと
透した。色は紫である。
「
藤尾さん」
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は
緑り濃き植込に
隔てられて、往来に鳴る車の響さえ
幽かである。
寂寞たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。
茶縁の畳を境に、二尺を
隔てて互に顔を見合した時、社会は彼らの
傍を遠く立ち
退いた。救世軍はこの時太鼓を
敲いて市中を練り
歩るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の
気息を引き取ろうとしている。
露西亜では
虚無党が爆裂弾を投げている。
停車場では
掏摸が
捕まっている。火事がある。
赤子が生れかかっている。
練兵場で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の
兄さんと宗近君は
叡山に登っている。
花の
香さえ重きに過ぐる深き
巷に、呼び
交わしたる男と女の姿が、死の底に
滅り込む春の影の上に、明らかに
躍りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ
来る心臓の
扉は、恋と開き恋と閉じて、動かざる
男女を、躍然と
大空裏に
描き出している。二人の運命はこの危うき
刹那に
定まる。東か西か、
微塵だに
体を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、
羃然たる爆発物が
抛げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の
身体は
二塊の
である。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、
砂利を
軋る車輪がはたと行き留まった。
襖を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は
崩れた。
「母が帰って来たのです」と女は
坐ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を
判然と外に
露わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく
謎は、
法庭の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。
何人も
後指を
指す事は出来ぬ。出来れば向うが
悪るい。天下はあくまでも太平である。
「
御母さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち
懸ける前に
居住をちょっと
繕ろい直す。
洋袴の
襞の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、
突っかい
棒に、尻を挙げるための、
膝頭に
揃えた両手は、雪のようなカフスに
甲まで
蔽われて、くすんだ
鼠縞の袖の下から、
七宝の
夫婦釦が、きらりと顔を出している。
「まあ
御緩くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える
気色もない。男はもとより尻を上げるのは
厭である。
「しかし」と云いながら、
隠袋の中を
捜ぐって、太い
巻煙草を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを
紛らす。いわんやこれは金の吸口の着いた
埃及産である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を
据え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも
詰める
便が出来んとも限らぬ。
薄い煙りの、黒い
口髭を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と
叮嚀な命令を下した。
男は無言のまま再び
膝を
崩す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで
淋しくっていけません」
「甲野君はいつ
頃御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「
御音信が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに
御出になればよかったのに」
「
私は……」と小野さんは後を
暈かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い
御馴染じゃありませんか」
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的
真面目になって、
埃及煙草を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「
御母さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「
私はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が
御在りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと
御免蒙ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。
平床に据えた
古薩摩の
香炉に、いつ
焼き残したる煙の
迹か、こぼれた灰の、灰のままに
崩れもせず、藤尾の部屋は
昨日も今日も静かである。敷き棄てた
八反の
座布団に、
主を待つ
間の
温気は、軽く払う春風に、ひっそり
閑と吹かれている。
小野さんは
黙然と
香炉を見て、また黙然と布団を見た。
崩し
格子の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に
挟まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは
頓と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、
絹障のしなやかに、
布団が
擦れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を
覗いて見た。
松葉形に
繋ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる
七子の
縁が
幽かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
金は色の純にして濃きものである。
富貴を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を
冀うものは必ずこの色を
撰む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。
磁石の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき
護謨である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
折柄向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、
曲がり
椽を伝わって近づいて来る。小野さんは
覗き込んだ眼を急に
外らして、素知らぬ顔で、
容斎の
軸を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
黒縮緬の三つ紋を
撫で
肩に着こなして、くすんだ
半襟に、
髷ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と
御母さんは軽く
会釈して、椽に近く座を占める。
鶯も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が
始終御厄介になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ
御楽に――いつも
御挨拶を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に
赤児で、困り切ります、駄々ばかり
捏ねまして――でも英語だけは
御蔭さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は
行かんものと見えまして――」
御母さんの弁舌は
滾々としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を
挟む
遑まなく、
口車に乗って
馳けて行く。行く先は
固より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて
続を読んでいる。
「花を墓に、墓に口を
接吻して、
憂きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、
浴湯をこそと召す。
浴みしたる
後は
夕餉をこそと召す。この時
賤しき
厠卒ありて小さき
籃に
無花果を盛りて参らす。女王の
該撒に送れる
文に云う。願わくは
安図尼と同じ墓にわれを
埋めたまえと。
無花果の繁れる青き葉陰にはナイルの
泥の
の
舌を冷やしたる
毒蛇を、そっと忍ばせたり。
該撒の使は走る。
闥を排して
眼を射れば――
黄金の寝台に、位高き
装を今日と
凝らして、女王の
屍は是非なく
横わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の
頭のあたりに、月黒き
夜の露をあつめて、
千顆の
珠を鋳たる
冠の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。
埃及の
御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を
瞑る」
埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、
焚き
罩むる
錬香の尽きなんとして
幽かなる尾を
虚冥に
曳くごとく、
全き
頁が淡く
霞んで見える。
「藤尾」と知らぬ
御母さんは呼ぶ。
男はやっと
寛容だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は
俯向ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ
廂髪の、白い額に
接く下から、骨張らぬ細い鼻を
承けて、
紅を
寸に織る唇が――唇をそと
滑って、
頬の末としっくり落ち合う
が――
を
棄ててなよやかに
退いて行く
咽喉が――しだいと現実世界に
競り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変
奇麗な――
汚さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を
開いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま
者の寄り合いだもんでござんすから、
始終、小供のように
喧嘩ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある
恐喝手段は
長者の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。
玩具の九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へ
抛げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの
眉間へ向けて
抛げつけた。御母さんは
苦笑いをする。小野さんは口を
開く。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と
御母さんは遠廻しに
棄鉢になった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、
始終身体が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして
判然したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を
捏ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して
貰いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の
呑気屋で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、
御前さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く
諸膝を
斜めに立てて、青畳の上に、
八反の
座布団をさらりと
滑べらせる。
富貴の色は
蜷局を三重に巻いた鎖の中に、
堆く
七子の
蓋を盛り上げている。
右手を
伸べて、輝くものを
戛然と鳴らすよと思う
間に、
掌より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに
喰い
留められると、余る力を横に抜いて、
端につけた
柘榴石の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は
紅の
珠に女の白き
腕を打つ。第二の波は
観世に動いて、軽く
袖口にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は
衝と立ち上がった。
奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、
疾く動く
景色を、
茫然と
眺めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
「
御母さん」と
後を
顧みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云って
故の席に返る。小野さんの
胴衣の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、
釦の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に
燦爛と
耀やいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど
善く似合いますね」と
御母さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは
煙に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、
止しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を
外してしまった。
三
柳れて
条々の煙を
欄に吹き込むほどの雨の日である。
衣桁に
懸けた
紺の背広の暗く下がるしたに、黒い
靴足袋が
三分一裏返しに丸く
蹲踞っている。
違棚の
狭い上に、偉大な
頭陀袋を
据えて、
締括りのない
紐をだらだらと
嬾も垂らした
傍らに、
錬歯粉と
白楊子が御早うと
挨拶している。立て切った
障子の
硝子を通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と
宗近君は
貸浴衣の上に
銘仙の丹前を重ねて、
床柱の松の木を
背負て、
傲然と
箕坐をかいたまま、外を
覗きながら、
甲野さんに話しかけた。
甲野さんは
駱駝の
膝掛を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の
向を換えると、
櫛を入れたての
濡れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた
靴足袋といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ
寝に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。
御母さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの
額の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。
※雨※風[#「にんべん+孱」、51-3][#「にんべん+愁」、51-3]か。見た事がないな。何でも
人扁だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの
襖が面白いよ。一面に
金紙を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに
皺が寄ってるには驚ろいたね。まるで
緞帳芝居の
道具立見たようだ。そこへ持って来て、
筍を三本、景気に
描いたのは、どう云う
了見だろう。なあ甲野さん、これは
謎だぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが
描いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。
気狂の発明した
詰将棋の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の
画工が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい
事理が分ったら
煩悶もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、
昔話しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない
執念深い人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を
奉納したところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の
轅と横木を
蔓で
結いた結び目を誰がどうしても
解く事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その
結目をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の
帝たらんと云う
神託を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う
了見がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど
卑怯なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに
豪いと思ってるのか」
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は
箕坐のまま旅行案内をひろげる。雨は
斜めに降る。
古い京をいやが上に
寂びよと降る
糠雨が、赤い腹を空に見せて
衝いと行く
乙鳥の
背に
応えるほど繁くなったとき、
下京も
上京もしめやかに
濡れて、
三十六峰の
翠りの底に、音は
友禅の
紅を溶いて、菜の花に
注ぐ流のみである。「
御前川上、わしゃ川下で……」と
芹を洗う
門口に、
眉をかくす
手拭の重きを脱げば、「
大文字」が見える。「
松虫」も「
鈴虫」も
幾代の春を
苔蒸して、
鶯の鳴くべき
藪に、墓ばかりは残っている。鬼の出る
羅生門に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り
毀たれた。
綱が
ぎとった腕の
行末は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの
春雨が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、
祇園では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
甲野さんは寝ながら日記を
記けだした。
横綴の茶の
表布の少しは汗に
汚ごれた
角を、折るようにあけて、二三枚めくると、一
頁の
三が
一ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を
執って景気よく、
「
一奩楼角雨、
閑殺古今人」
と書いてしばらく考えている。
転結を添えて絶句にする気と見える。
旅行案内を
放り出して宗近君はずしんと畳を
威嚇して
椽側へ出る。椽側には
御誂向に一脚の
籐の
椅子が、人待ち顔に、しめっぽく
据えてある。
連の
疎なる花の間から
隣り
家の座敷が見える。
障子は立て切ってある。
中では琴の
音がする。
「
忽※[#「耳+吾」、56-1]弾琴響、
垂楊惹恨新」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は
謎である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、
白頭に
し、
中夜に
煩悶するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
宗近君は
籐の
椅子に
横平な腰を据えてさっきから隣りの
琴を聴いている。
御室の
御所の
春寒に、
銘をたまわる
琵琶の風流は知るはずがない。
十三絃を南部の
菖蒲形に張って、
象牙に置いた
蒔絵の
舌を
気高しと思う
数奇も
有たぬ。宗近君はただ漫然と
聴いているばかりである。
滴々と垣を
蔽う
連の
黄な向うは
業平竹の
一叢に、
苔の多い御影の
突く
這いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に
叡山苔を
這わしている。琴の
音はこの庭から出る。
雨は一つである。冬は
合羽が
凍る。秋は灯心が細る。夏は
褌を洗う。春は――
平打の
銀簪を畳の上に落したまま、
貝合せの貝の裏が朱と金と
藍に光る
傍に、ころりんと
掻き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に
聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に
捕えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは
本来空の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
琴の手は次第に繁くなる。
雨滴の
絶間を
縫うて、白い爪が幾度か
駒の上を飛ぶと見えて、
濃かなる調べは、太き糸の
音と細き音を
綯り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「
無絃の琴を
聴いて始めて
序破急の意義を悟る」と書き終った時、
椅子に
靠れて
隣家ばかりを
瞰下していた宗近君は
「おい、甲野さん、
理窟ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか
旨いぜ」
と
椽側から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと
椽まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる
景色がない。
「おい、どうも東山が
奇麗に見えるぜ」
「そうか」
「おや、
鴨川を
渉る
奴がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、
布団着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の
水嵩が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても
差し
支えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の
金襖の
筍を横に
眺め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう
我を折って部屋の中へ
這入って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「
幾何だと思う」
「
幾歳だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと
判然云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、
島田だよ」
「座敷でも
開いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り
好加減な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら
聴きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの
筍を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、
背が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の
唐紙に三本
描いたのは、どう云う
因縁だろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の
真青なのはなぜだろう」
「食うと
中毒ると云う
謎なんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎を
釈くじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、
後から頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。
昨日ね、僕が湯から上がって、
椽側で肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく
鴨東の
景色を見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が
障子を半分開けて、開けた障子に
靠たれかかって庭を見ていたのさ」
「
別嬪かね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが
糸公より好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、
余まり
他愛が無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから
椽側まで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうち
開くかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものは
霞に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を
披いて本体を見つけようとしないから
性根がないよ」
「霞の
酔っ
払か。哲学者は余計な事を考え込んで
苦い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように
叡山へ登るのに、
若狭まで突き
貫ける男は
白雨の酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。
光沢のある髪で
湿っぽく
圧し付けられていた空気が、弾力で
膨れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に
駱駝の
膝掛が
擦り落ちながら、裏を返して
半分に折れる。下から、だらしなく腰に
捲き付けた
平絎の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に
畏まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は
痩せた
体躯を持ち上げた
肱を二段に
伸して、手の平に胴を
支えたまま、自分で自分の腰のあたりを
睨め廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく
畏まってるじゃないか」と
一重瞼の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
「
居住だけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「
どてらを着て
跪坐てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは
酔払らしくするがいい」
「そうか、それじゃ
御免蒙ろう」と宗近君はすぐさま
胡坐をかく。
「君は感心に
愚を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど
片腹痛い事はないものだ」
「
諫に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは
淋し気に笑った。
勢込んで
喋舌って来た宗近君は急に
真面目になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の
肺腑に入る。面上の筋肉が
我勝ちに
躍るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに
稲妻を起すためでもない。
涙管の関が切れて
滂沱の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして
床を
斬るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
毛筋ほどな細い管を通して、
捕えがたい
情けの波が、心の底から
辛うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に
転がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、
捕まえた人が勝ちである。捕まえ
損なえば
生涯甲野さんを知る事は出来ぬ。
甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その
速かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は
明かに
描き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の
知己である。
斬った
張ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと
合点するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を
描き出すのは
野暮な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
春の旅は
長閑である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は
駱駝の
膝掛の
馬簾をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、
独語のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、
阿爺が生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君は
なあを引っ張った。
「つまり、
家を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を
襲いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一
叔母さんが困るだろう」
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえば
己にさえ
欺むかれる。まして己以外の人間の、利害の
衢に、損失の
塵除と
被る、
面の厚さは、容易には
度られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う
了見か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか
潜んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、
迂濶には天機を
洩らしがたい。宗近の
言は継母に対するわが心の底を見んための
鎌か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を
懸けるほどの男ならば、思う通りを引き出した
後で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は
真率なる彼の、裏表の
見界なく、母の
口占を
一図にそれと信じたる反響か。
平生のかれこれから
推して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき
淵の底に、
詮索の
錘を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、
見損なった母の意を
承けて、御互に面白からぬ結果を、必然の
期程以前に、家庭のなかに
打ち
開ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は
発くまい。
二人はしばらく無言である。
隣家ではまだ
琴を
弾いている。
「あの琴は
生田流かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の
袖無でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
丹前の胸を開いて、
違棚の上から、例の異様な
胴衣を取り下ろして、
体を
斜めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その
袖無は手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。
旨いもんだ。
御糸さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。
彼奴が嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと
御叔父さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから
御母さんの云う通りに君が
家を
襲いで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は
厭なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また
鱧を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に
愚な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の
嗅覚は非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると
阿爺も外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の
佐伯と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。
倫敦で買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の
玩具になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あの
鏈に着いている
柘榴石が気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの
片身に僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の
眉の間を、長い事見ていた。御昼の
膳の上には宗近君の予言通り
鱧が出た。
四
甲野さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「
生死因縁無了期、
色相世界現狂癡」
小野さんは
色相世界に住する男である。
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。
筒袖を着て学校へ通う時から友達に
苛められていた。行く所で犬に
吠えられた。父は死んだ。外で
辛い目に
遇った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
水底の
藻は、暗い所に
漂うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に
揺こうが、
左りに
靡こうが
嬲るは波である。ただその時々に
逆らわなければ済む。
馴れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える
暇もない。なぜ波がつらく
己れにあたるかは無論問題には
上らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に
生えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
京都では
孤堂先生の世話になった。先生から
絣の着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。
祇園の桜をぐるぐる
周る事を知った。
知恩院の
勅額を見上げて高いものだと悟った。御飯も
一人前は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
東京は目の
眩む所である。
元禄の昔に百年の
寿を保ったものは、明治の
代に三日住んだものよりも短命である。
余所では人が
蹠であるいている。東京では
爪先であるく。
逆立をする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
きりきりと回った
後で、眼を開けて見ると世界が変っている。眼を
擦すっても変っている。変だと考えるのは
悪るく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を
賜わった。浮かび出した
藻は水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
世界は色の世界である。ただこの色を
味えば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれて
鮮やかに眼に
映る。鮮やかなる事錦を
欺くに至って生きて
甲斐ある命は
貴とい。小野さんの
手巾には時々ヘリオトロープの
香がする。
世界は色の世界である、形は色の
残骸である。残骸を
論って中味の
旨きを解せぬものは、方円の
器に
拘わって、盛り上る酒の
泡をどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに
見極めても皿は食われぬ。
唇を着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の
巵を
抱いて、路頭に
跼蹐している。
世界は色の世界である。いたずらに
空華と云い
鏡花と云う。
真如の実相とは、世に
容れられぬ
畸形の徒が、容れられぬ
恨を、
黒※郷裏[#「甘+舌」、72-14]に晴らすための
妄想である。盲人は
鼎を
撫でる。色が見えねばこそ形が
究めたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の
所作である。小野さんの机の上には花が
活けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の
眼鏡が掛かっている。
絢爛の域を
超えて平淡に
入るは自然の順序である。我らは
昔し赤ん坊と呼ばれて赤い
べべを着せられた。
大抵のものは
絵画のなかに生い立って、
四条派の淡彩から、
雲谷流の
墨画に老いて、ついに
棺桶のはかなきに親しむ。
顧みると母がある、姉がある、菓子がある、
鯉の
幟がある。顧みれば顧みるほど
華麗である。小野さんは
趣が違う。自然の
径路を
逆しまにして、暗い土から、根を振り切って、日の
透る波の、明るい
渚へ
漂うて来た。――
坑の底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の
節穴から
覗いて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点の
紅がほのかに
揺いている。東京へ
来たてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのも
厭わず、たびたび過去の節穴を覗いては、長き
夜を、永き日を、あるは
時雨るるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ
遠退いた。その上、色もよほど
褪めた。小野さんは節穴を覗く事を
怠たるようになった。
過去の節穴を
塞ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は
薔薇である。薔薇の
蕾である。小野さんは未来を製造する必要はない。
蕾んだ薔薇を一面に開かせればそれが
自からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の
管から
眺めると、薔薇はもう開いている。手を出せば
捕まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の
傍で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、
必ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が
金色に燃えている。博士の傍には金時計が天から
懸っている。時計の下には赤い
柘榴石が心臓の
焔となって揺れている。その
側に黒い眼の藤尾さんが
繊い腕を出して
手招ぎをしている。すべてが美くしい
画である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
昔しタンタラスと云う人があった。わるい事をした
罰で、
苛い目に
逢うたと書いてある。
身体は肩深く水に
浸っている。頭の上には
旨そうな
菓物が
累々と枝をたわわに
結実っている。タンタラスは
咽喉が
渇く。水を飲もうとすると水が
退いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺
前むと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っ
懸けて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長い
眉を押しつけたように短かくして、
屹と
睨めている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、
のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって
剥げながら暗くなる事がある。時計が
遥かな天から
隕石のように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を
描き出す。
机の前に
頬杖を突いて、
色硝子の
一輪挿をぱっと
蔽う
椿の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと
平手でたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですと
向をむいて、すたすた歩き出す」
小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り
残刻なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた
を持ち上げると、
障子が、すうと
開いて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と
子昂流にかいた
名宛を見た時、小野さんは、急に
両肱に力を入れて、机に持たした
体を
跳ねるように
後へ引いた。未来を覗く
椿の
管が、同時に揺れて、
唐紅の
一片がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。
完き未来は、はや
崩れかけた。
小野さんは机に添えて
左りの手を
伸したまま、顔を
斜めに、受け取った封書を
掌の上に遠くから
眺めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの
見当はついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて
亀に聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと
甲羅の中に立て
籠る。打たれる運命を眼前に控えた
間際でも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を
一寸に
逃れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
良しばらく眺めていると今度は掌がむず
痒ゆくなる。一刻の安きを
貪った
後は、安き
思を、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上に
逆に置いた。裏から
井上孤堂の四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した
草字は、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
小野さんは
障らぬ神に
祟なしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机と
膝とは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を
抛げて見ないうちはどうも柔術家たる
所以を自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は
呑気で
羨しいと思う。――椿の
花片がまた一つ落ちた。
一輪挿を持ったまま障子を
開けて
椽側へ出る。花は庭へ
棄てた。水もついでにあけた。
花活は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。
檜がある。
塀がある。
向に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が
干してある。
蛇の目の黒い
縁に
落花が
二片貼ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引き
擦ってまた部屋のなかへ
這入って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の
節穴がすうと
開いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を
屈めて手を伸ばすや否や封を切った。
「拝啓柳暗花明の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀候。小生も不相変頑強、小夜も息災に候えば、乍憚御休神可被下候。さて旧臘中一寸申上候東京表へ転住の義、其後色々の事情にて捗どりかね候所、此程に至り諸事好都合に埓あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度候。二十年前に其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留の外は、全く故郷の消息に疎く、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住み古るしたる住宅は隣家蔦屋にて譲り受け度旨申込有之、其他にも相談の口はかかり候えども、此方に取り極め申候。荷物其他嵩張り候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持の琴一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。故きを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下候。
「御承知の通小夜は五年前当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速かなる事を希望致し居候。同人行末の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述。追て其地にて御面会の上篤と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致候。まずは右当用迄匆々不一」
読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいた
端が青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行き
留った時、やむを得ず、
睛を転じてロゼッチの詩集を
眺めた。詩集の表紙の上に散った
二片の
紅も眺めた。紅に誘われて、右の
角に在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。
一昨日挿した
椿は影も形もない。うつくしい未来を覗く
管が無くなった。
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち
上る。一種古ぼけた
黴臭いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして
躊躇する毛筋の末を引いて、細い
縁に、絶えるほどにつながるる今と昔を、
面のあたりに結び合わす
香である。
半世の歴史を長き穂の心細きまで
逆しまに尋ぬれば、
溯るほどに
暗澹となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ
枝の末に、
錐の力の
尖れるを
幸と、記憶の命を突き
透すは要なしと云わんよりむしろ
無惨である。ジェーナスの神は二つの顔に、
後ろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。
背を過去に向けた上は、眼に映るは
煕々たる前程のみである。
後を向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた
昨日今日、寒い所から、寒いものが追っ
懸けて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖く
鮮やかなるうちに、
己れを
捲き込んで、一歩でも過去を
遠退けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに
鏤られて、動くかとは
掛念しながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち
退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を
撫でていた。ところが、昔しながらとたかを
括って、過去の
管を今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。
逼って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り
超えて、
暗夜を照らす
提灯の火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
自然は自然を用い尽さぬ。
極まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて
半分と立たぬうちに、
障子から下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て
妄りに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに
愛嬌があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると
半文の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。
今日まで下女の人望を
繋いだのも全くこの自覚に
基づく。小野さんは下女の人望をさえ
妄りに落す事を好まぬほどの人物である。
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事
能わずと
昔しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が
退いて不安が
這入る。下女は
悪るいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が
附焼刃で不安が本体だと思うのは偽哲学者である。
家主が這入るについて、愛嬌が
示談の上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「
逢おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、
好い。
好し好し」
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり
後ろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと
体を
交わせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへ
避ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気を
換えて反対へ出る。反対と反対が
鉢合せをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の
振子のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの
悪るい野郎だと
悪口が云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
そこへ浅井君が
這入ってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手で
圧し
潰すように握って、畳の上へ
抛り出すや否や
「ええ天気だな」と
胡坐をかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。
昨日行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は
露西亜料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く
露西亜料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し
先刻だった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって
緩っくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら
緩くり話そうと思うんだね。そう向うだけで
一人ぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分
昔堅気だからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。
一徹なんだ」
「近頃は
家計の方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に
何時かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「
旨い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
門口で分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。
五
山門を入る事一歩にして、古き世の
緑りが、急に左右から肩を襲う。
自然石の
形状乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、
錯落と平らかに敷き詰めたる
径に落つる足音は、
甲野さんと
宗近君の足音だけである。
一条の径の細く
直なるを行き尽さざる
此方から、石に眼を添えて
遥かなる向うを
極むる行き当りに、
仰げば
伽藍がある。
木賊葺の厚板が左右から内輪にうねって、
大なる両の翼を、
険しき一本の
背筋にあつめたる上に、今一つ小さき
家根が小さき翼を
伸して乗っかっている。
風抜きか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの
精舎を、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんは
杖を
停めた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり
恰好が
旨くそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる
理形に
適ってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「
舟板塀趣味や
御神灯趣味とは違うさ。
夢窓国師が建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を
逍遥する価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も
家根になって明治まで生きていれば結構だ。
安直な銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、
一目瞭然だ」
「何が」
「何がって、この
境内の
景色がさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ
這入ると好い気持ちになるんだろう」
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは
蓮池に渡した
石橋の
欄干に尻をかける。欄干の腰には大きな
三階松が三寸の厚さを
透かして水に臨んでいる。石には
苔の
斑が薄青く吹き出して、灰を交えた
紫の質に深く食い込む下に、
枯蓮の
黄な
軸がすいすいと、去年の
霜を
弥生の中に突き出している。
宗近君は
燐寸を出して、
煙草を出して、しゅっと云わせた燃え残りを池の水に棄てる。
「夢窓国師はそんな
悪戯はしなかった」と甲野さんは、
の先に、両手で
杖の
頭を丁寧に抑えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の
真似をするが好い」
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と
北京へ駐在する事にするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の
阿爺ぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は
我儘過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
今までは真面目の上に
冗談の雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し
後ろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま
風邪が
癒れば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と
露西亜の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
「
亜米利加を見ろ、
印度を見ろ、
亜弗利加を見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ
間に殺されているんだ」
すべてを
爪弾きした甲野さんは杖の先で、とんと
石橋を
敲いて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。
峩山と云う坊主は一椀の
托鉢だけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横に
寝た
箸を
竪にする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に
颯と
開いた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。
嵯峨の春を傾けて、京の人は
繽紛絡繹と
嵐山に行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
天竜寺の門前を左へ折れれば
釈迦堂で右へ曲れば
渡月橋である。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、
停車場の方へ
旅衣七日余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。
二条から
半時ごとに花時を
空にするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の
大勢を忘れている。京ほどに女の
綺羅を飾る所はない。天下の大勢も、
京女の色には
叶わぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
「
悪るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど
異性の感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに
厭味がない」
「どうも
淡粧して、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。
至極御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあ
善かったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから
厭になっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた
了見を洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代りに、売店に
陳べてある、
抹茶茶碗を見始めた。土を
捏ねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとく
とぼけている。
「そんな
とぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて
眺めている
袖を、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れた
片を土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居を
跨ぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの
琴の主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は
無残な事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ
追つかない。壊してしまわなけりゃ直らない
厄介物だ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく
敲き壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、
停車場へ来る。
浮かれ人を花に送る京の汽車は
嵯峨より
二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて
丹波へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、
亀岡に降りた。
保津川の
急湍はこの駅より
下る
掟である。下るべき水は眼の前にまだ
緩く流れて
碧油の
趣をなす。岸は開いて、里の子の
摘む
土筆も生える。
舟子は舟を
渚に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、
舷は尺と水を離れぬ。赤い
毛布に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の
数は四人である。真っ先なるは、二間の
竹竿、
続づく二人は右側に
櫂、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいと
櫂が鳴る。
粗削りに
平げたる
樫の
頸筋を、太い
藤蔓に
捲いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の
節の
隆きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと
掻く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に
頸根を抑えられた櫂が、
掻くごとに
撓りでもする事か、
強き
項を
真直に立てたまま、藤蔓と
擦れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、
停まる暇なきに、前へ前へと送る。
重なる水の
蹙って行く、
頭の上には、
山城を
屏風と囲う春の山が
聳えている。
逼りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも
山峡に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の
体を
透かして岩と岩の
逼る間を半丁の
向に見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、
舷から首を出した時、船ははや瀬の中に
滑り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を
緩める。
櫂は流れて舷に着く。
舳に立つは
竿を
横えたままである。
傾むいて矢のごとく下る船は、どどどと
刻み足に、船底に据えた尻に響く。
壊われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が
指す
後ろを見ると、白い
泡が一町ばかり、
逆か落しに
噛み合って、谷を
洩る
微かな日影を
万顆の
珠と
我勝に奪い合っている。
「
壮んなものだ」と宗近君は大いに
御意に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は
至極冷淡である。松を抱く
巌の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、
棹を
操り去る。通る瀬はさまざまに
廻る。廻るごとに新たなる山は当面に
躍り出す。石山、松山、
雑木山と数うる
遑を
行客に許さざる
疾き流れは、船を
駆ってまた
奔湍に躍り込む。
大きな丸い岩である。
苔を畳む
煩わしさを避けて、
紫の
裸身に、
撃ちつけて散る
水沫を、春寒く腰から浴びて、緑り
崩るる真中に、舟こそ来れと待つ。舟は
矢も
楯も物かは。
一図にこの大岩を目懸けて突きかかる。
渦捲いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。
削られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の
行末である。岩に突き当って砕けるか、
捲き込まれて、見えぬ
彼方にどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を
呑む岩の太腹に
潜り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が
揚がると共に舟はぐうと廻った。この
獣奴と突き離す竿の先から、岩の
裾を尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
急灘を落ち尽すと
向から
空舟が
上ってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命の
拳を収めて、肩から斜めに
目暗縞を
掠めた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟を
牽いて来る。水行くほかに
尺寸の余地だに
見出しがたき岸辺を、石に飛び、岩に
這うて、
穿く
草鞋の
滅り込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手は
塞かれて
注ぐ渦の中に指先を
浸すばかりである。うんと踏ん張る
幾世の金剛力に、岩は
自然と
擦り減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、
牽綱をわが勢に
逆わぬほどに、
疾く
滑らすための
策と云う。
「少しは
穏かになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山の
遥かの上に、
鉈の音が
丁々とする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は
咽喉仏を突き出して峰を見上げた。
「
慣れると何でもするもんだね」と相手も手を
翳して見る。
「あれで一日働いて
若干になるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いて
見ようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに
駛っている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。
願くは船頭の
棹を借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に
成仏している時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち
遣った。
「そう困った日にゃ
方が付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「
肝胆相照らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものに
違ない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは
黙然として、船の底を見詰めた。言うものは知らずと
昔し老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は
保津川と肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手を
敲く。
乱れ起る岩石を左右に
る流は、
抱くがごとくそと割れて、半ば
碧りを透明に含む
光琳波が、
早蕨に似たる曲線を
描いて
巌角をゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると
嵐山どす」と長い
棹を
舷のうちへ
挿し込んだ船頭が云う。鳴る
櫂に送られて、深い
淵を
滑るように抜け出すと、左右の岩が
自ら開いて、舟は
大悲閣の
下に着いた。
二人は松と桜と京人形の
群がるなかに
這い上がる。幕と
連なる
袖の下を
掻い
潜ぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
赤松の
二抱を
楯に、
大堰の波に、花の影の明かなるを誇る、橋の
袂の
葭簀茶屋に、高島田が休んでいる。昔しの
髷を今の世にしばし許せと
被る
瓜実顔は、花に臨んで風に
堪えず、
俯目に人を避けて、名物の団子を
眺めている。薄く染めた
綸子の
被布に、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねる
衣の色は見えぬ。ただ
襟元より燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが
琴を
弾いた女だよ。あの黒い羽織は
阿爺に違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
瓢箪に
酔を飾る三五の
癡漢が、天下の
高笑に、腕を振って
後ろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、
体を斜めにえらがる人を通した。色の世界は今が
真っ
盛りである。
六
丸顔に
愁少し、
颯と
映る
襟地の中から
薄鶯の
蘭の花が、
幽なる
香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。
糸子はこんな女である。
人に示すときは指を用いる。四つを
掌に折って、余る第二指のありたけにあれぞと
指す時、指す手はただ一筋の
紛れなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは
指点す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは
指点す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
人に
指点す指の、
細そりと
爪先に肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって
焼点を
構成る。
藤尾の指は爪先の
紅を抜け出でて縫針の
尖がれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは
欄干を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目に
懸りませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云う。
「父一人で忙がしいものですから、つい
御無沙汰をして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「
向島は」
「まだどこへも行かないの」
宅にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影が
翳す。
「そんなに御用が
御在りなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く
路である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の
向側へ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、この
袖は、この詩とこの歌は、
鍋、炭取の
類ではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字を
冠らせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
「
一さんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは
上滑をして前へ進む。糸子は返事をする前に顔を
揚げて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子を
眤と見る。針は
真逆の用意に、なかなか
瞳の
中には出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ
絡まってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。
一さんが貰うときまれば本気に
捜がしますよ」
黐竿は届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子は
際どいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる
捜索の綱を、ぷつりと切って、
逆さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの
不手際である。あたったのに
手答もなく
装わるるは
不器量である。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇を
噛んだ。ここまで
推して来て
停まるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたは
私の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬に
吾を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心の
中で
冷笑って引き上げる。
甲野さんと
宗近君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。
両人の妹は肝胆の
外廓で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い
懸けられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものを
取っ
押える勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んで
馳け込んで来た。
袞竜の袖に隠れると云う
諺がある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
小野さんは
蹌々踉々として来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に
被せる
従容の紋付を、まだ
誂えていない。二十世紀の人は皆この
紋付を二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。
便る未来が
戈を
逆まにして、過去をほじり出そうとするのは
情けない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。
大抵の
嘘は
渡頭の舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの
欽吾さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ
呑気よ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでも
家の兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って
退けたが、急に気がついて、
羽二重の
手巾を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯の
角を
彩どる金の筋がすっと外界に
映る。敵は首尾よくわが術中に
陥った。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から
御音信はないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって
端書ぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが?
御叔母さんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると
顫える。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、
手巾を出して、薄い
口髭をちょっと
撫でる。
幽かな
香がぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の
方を
一さんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
小野さんの手巾はちょっと
勢を失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな
奇麗だと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「
無精に似合わない事ね。何と」
「
隣家の琴は御前より
旨いって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より
別嬪だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに
逢っちゃ
叶わない」
「でも、あなたの事は
褒めてありますよ」
「おや、何と」
「御前より
別嬪だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を
交えたる眼を輝かして、すらりと首を
後ろに引く。
鬣に比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝の
菫のみが星のごとく
可憐の光を放つ。
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん
三条に
蔦屋と云う宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、
縋る未来に全く吸い込まれたる人は、
刹那の
戸板返しにずどんと過去へ落ちた。
追い懸けて来る過去を
逃がるるは
雲紫に立ち
騰る
袖香炉の
煙る影に、
縹緲の楽しみをこれぞと
見極むるひまもなく、
貪ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる
一拶に、結ばぬ夢は
醒めて、
逆しまに、われは過去に向って投げ返される。
草間蛇あり、容易に
青を踏む事を許さずとある。
「
蔦屋がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが
宿ってるんですって。だから、どんな
所かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な
旅屋じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が
聴えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の
隣家で美人が琴を
弾いてるのを、気楽に
寝転んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、
床の山吹を無意味に
眺めている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子から
いいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の
音も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白い
画が出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を
解しかねる。
要らぬ事と黙って
控えているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――
廻り
椽で、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに
煙るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗な
丸い山は――あの山が、青い
御供のように、こんもりと
霞んでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を
傾げる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
女詩人の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもする
訳はない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
御機嫌に
逆った時は、必ず人をもって
詫を入れるのが世間である。女王の
逆鱗は
鍋、
釜、
味噌漉の
御供物では直せない。役にも立たぬ五重の塔を
霞のうちに
腫物のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾の
眉はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気に
障ったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
針鼠は
撫でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
五重の塔を持ち出せばなお
怒られる。琴の
音は自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に
軽蔑を招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるようだ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取り
除けられた。女二人を調停するのは眼の前に
快からぬ言葉の果し合を見るのが
厭だからである。
文錦やさしき
眉に切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。
取除者を仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさく
絡ってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ
調子を合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を
軽蔑する
料簡ではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いものの
頭に
耀かず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸が
隙く。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
人を
呪わば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり
筋違に見えて、その先に
井桁があって、
小米桜が
擦れ擦れに咲いていて、
釣瓶が触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん
擦り落ちて来る。重い雲がかさなり合って、
弥生をどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、
袖垣のはずれに
幣辛夷の花が怪しい色を
併べて立っている。木立に
透かしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れに
映る。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
居は気を移す。藤尾の想像は空と共に
濃かになる。
「小米桜を二階の
欄干から御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の
後ろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴の
音がするんです」
琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと
隣家の庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりと
掠める。
「ホホホホ
御厭なの――何だか暗くなって来た事。花曇りが
化け出しそうね」
そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとから
直すいと
追懸けて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや
本降になりそうだ事」
「
私失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
糸子は立ち上がる。話しは春雨と共に
崩れた。
七
燐寸を
擦る事
一寸にして火は
闇に入る。幾段の
彩錦を
捲り終れば無地の
境をなす。春興は
二人の青年に尽きた。狐の
袖無を着て天下を行くものは、日記を
懐にして百年の
憂を
抱くものと共に
帰程に
上る。
古き寺、古き
社、神の森、仏の丘を
掩うて、いそぐ事を
解せぬ京の日はようやく暮れた。
倦怠るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも
判然とは映らぬ。
瞬くも
嬾き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
一人の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に
腥き雨を浴びる。一人の世界を方寸に
纏めたる
団子と、他の清濁を混じたる団子と、層々
相連って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を
因果の交叉点に据えて分相応の円周を右に
劃し左に劃す。
怒の中心より
画き去る円は飛ぶがごとくに
速かに、恋の中心より振り
来る円周は
の
痕を
空裏に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは
奸譎の
圜をほのめかして
回る。縦横に、前後に、
上下四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき
秦越の客ここに舟を同じゅうす。
甲野さんと
宗近君は、
三春行楽の興尽きて東に帰る。
孤堂先生と
小夜子は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で
端なくも喰い違った。
わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と
他の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。
破けて飛ぶ事がある。あるいは
発矢と熱を
曳いて無極のうちに物別れとなる事がある。
凄まじき喰い違い方が
生涯に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして
自からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ
逢うてただ別れる
袖だけの
縁ならば、星深き春の夜を、名さえ
寂びたる
七条に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を
彫琢する。自然その物は小説にはならぬ。
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく
幻のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東の
方に
搬び去ろうか、さらに
無頓着である。世を
畏れぬ
鉄輪をごとりと
転す。あとは
驀地に
闇を
衝く。離れて合うを待ち
佗び顔なるを、
行いて帰るを快からぬを、旅に馴れて
徂徠を意とせざるを、一様に
束ねて、ことごとく
土偶のごとくに
遇待うとする。
夜こそ見えね、
熾んに
黒煙を吐きつつある。
眠る夜を、生けるものは、
提灯の火に、皆七条に向って動いて来る。
梶棒が下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で
埋まってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、
十把一束に夜明までに、あかるい東京へ
推し出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらに
解れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて
車輛の戸をはたはたと締めて行く。
忽然としてプラットフォームは、
在る人を
掃いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると
口笛が
遥かの
後ろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ
気に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は
淋しいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。
蔦屋の
隣家に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、
家を畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは
独り
言のように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は
頭陀袋を
棚へ上げた腰を
卸しながら笑う。相手は半分顔を
背けて
硝子越に窓の外を
透して見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。
轟と云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何
哩くらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ
胡坐をかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。
向の
棚に載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高の
頂を
顫わせている。
給仕が時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を
眠っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
汽車は
轟と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――
余りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは
賞める時の言葉なんだがな」
「千里の
江陵一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口を
緘じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって
轟と走る。二人の世界はしばらく
闇の中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い
夜を糸のごとく照らして動く電灯の
下にあらわれて来る。
色白く、傾く月の影に生れて
小夜と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の
住居に、
盂蘭盆の
灯籠を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の
精霊を、東京の
苧殻で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。
乗し
掛る
怒は、
撫で
下す絹しなやかに
情の
裾に
滑り込む。
紫に
驕るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に
連なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる
丈長を
顫わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ
滴たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて
赫と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に
透って、
当時を裏返す折々にさえ
鮮かに
煮染んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、
春寒の
懐に暖めつつ、黒く動く一条の車に
載せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを
抱きしめて行く。車は無二無三に走る。野には
緑りを
衝き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を
抱く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を
暗闇の遠きより切り放して、現実の前に
抛げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き
逢うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに
の下に白くなる
疎髯を握っては
昔しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き
籠って容易には出て来ない。
漠々たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。
恋々たるわれを、つれなく見捨て去る
当時に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は
胡麻塩交りの
髯をぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは
幾歳の時だったかな」
「学校を
廃めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に
嵐山へ連れていっていただいたでしょう。
御母さんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の
団子もまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら
三軒茶屋の
傍で
喫べたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。
御母さんも丈夫だったがな。ああ早く
亡くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分
蒼い顔をしてね、そうして何だか
始終おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が
柔和いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う
性質の好い男でも、あのまま
放って置けばそれぎり、どこへどう
這入ってしまうか分らない」
「本当にね」
明かなる夢は輪を
描いて胸のうちに
回り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き
刻りの深き記憶を離れて、
咫尺に飛び上がって来る。女はただ
眸を
凝らして眼前に
逼る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の
髯を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで
迎にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び
躍る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを
駛ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を
眠る。人も犬も草も木も
判然と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、
転りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を
抱いて眠についた。
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと
逆う風を打つ。追い懸くる
冥府の神を、力ある尾に
敲いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く
煙る向うが一面に
競り上がって来る。
茫々たる原野の
自から尽きず、しだいに天に
逼って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、
眼を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
神の
代を空に鳴く
金鶏の、
翼五百里なるを一時に
搏して、
漲ぎる雲を下界に
披く大虚の
真中に、
朗に浮き出す
万古の雪は、末広になだれて、八州の
野を圧する勢を、左右に展開しつつ、
蒼茫の
裡に、腰から下を
埋めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、
紫の
襞と
藍の襞とを
斜めに畳んで、白き
地を不規則なる
幾条に裂いて行く。見上ぐる人は
這う雲の影を沿うて、
蒼暗き
裾野から、藍、紫の深きを
稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、
豁然として眼が
醒める。白きものは明るき世界にすべての乗客を
誘う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を
滑り下りながら、窓をはたりと
卸す。広い
裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは
駱駝の
毛布を頭から
被ったまま、存外冷淡である。
「そうか、
寝なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「
叡山よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変
軽蔑するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い
退けて動いた」と宗近君は
頭陀袋を
棚から取り
卸す。
室のなかはざわついてくる。明かるい世界へ
馳け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
窓から肉の落ちた顔が半分出る。
疎髯を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に
若干の銀貨を握って、
へぎ折を取る左と
引き
換に出す。御茶は部屋のなかで娘が
注いでいる。
「どうだね」と折の
蓋を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには
長芋の
白茶に寝転んでいる
傍らに、
一片の玉子焼が黄色く
圧し
潰されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は
箸を
執らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた
箸を
眺めながら、ぐっと飲む。
「もう
直ですね」
「ああ、もう訳はない」と
長芋が髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が
奇麗に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ
這入る。
「小野さんは宿を
捜がして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、
喫飯と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で
米沢絣の
襟を掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている
手提革鞄を
跨いだ時、甲野さんは振り返って
「おい、
蹴爪ずくと危ない」と注意した。
硝子戸を押し
開けて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、
真直に抜ける気で、中途まで来た時、宗近君が
後ろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、
硬過ぎてね。――
阿爺のように年を取ると、どうも
硬いのは胸に
痞えていけないよ」
「御茶でも上がったら……
注ぎましょうか」
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、
尽十方に飛び
交わす小世界の、
普ねく
天涯を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを
厭わず植えつけし
蚕の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く
夜半を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は
掃き落されて、大空の皮を奇麗に
剥ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち
上る窓の
中に、四人の小宇宙は
偶を作って、ここぞと互に
擦れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い
卓布を挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは
献立表を
眺めながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。
昨夕京都の
停車場では逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで
膏ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は
肉刺を
逆にして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々
情けなさそうに白い
膏味を
頬張る。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「
猶太人は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
「
猶太人はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――
給仕紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を
外してしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に
懸想して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で
顎を
支えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に
据えたままぼんやり向うを見ている。
「
蜜柑が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と
毫も心配にならない
気色で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と
挨拶も聞く
料簡はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を
真面目に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から
赤児だね。しかし兄思いだよ。狐の
袖無を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ
肱突でも
造えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に
拡げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに
擦れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる
明日の世界を擁して新橋の
停車場に着く。
「さっき
馳けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、
停車場に突き当って、しばらく、ばらばらとなる。
八
一本の
浅葱桜が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ
椽は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の
長火鉢に
手取形の
鉄瓶を
沸らして前には
絞り
羽二重の
座布団を敷く。布団の上には
甲野の母が
品よく
座っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、
疳の
筋が裏を通って額へ突き抜けているらしい
上部を、浅黒く
膚理の細かい皮が包んで、外見だけは
至極穏やかである。――針を海綿に
蔵して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に
膏薬を
貼って
創口を快よく慰めよ。出来得べくんば
唇を血の出る局所に
接けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を
露わすものは
亡ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
静かな椽に足音がする。今
卸したかと思われるほどの
白足袋を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い
の椽に引き擦るを軽く
蹴返しながら、
障子をすうと開ける。
居住をそのままの母は、濃い
眉を半分ほど入口に傾けて、
「おや
御這入」と云う。
藤尾は無言で
後を締める。母の
向に火鉢を隔ててすらりと坐った時、
鉄瓶はしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を
俯目に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時に
真少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は
逝きつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は
一瞥に
籠る。熱に
堪えざる時は骨を
露わす。
「ふん」
長煙管に
煙草の殻を
丁とはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、
彼人の
料簡ばかりは
御母さんにも分らないね」
雲井の煙は
会釈なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても
同じ事ですね」
「同じ事さ。
生涯あれなんだよ」
御母さんの
疳の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「
家を
襲ぐのがあんなに
厭なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから
悪いんだよ。あんな事を云って
私達に
当付けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから
今日までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。
煮え切らないっちゃありゃしない。
彼人の顔を見るたんびに
阿母は
疳癪が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、
不知を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を
孕む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが
滅多にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、
御廃しなさい、
阿母さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ
閉じ
籠って寝転んでるしさ。――そうして
他人には財産を藤尾にやって自分は
流浪するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「
宗近の
阿爺の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない
性質ですね。それより早く
糸子さんでも
貰ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの
料簡はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る
鉄瓶を
卸して、炭取を取り上げた。
隙間なく
渋の
洩れた
劈痕焼に、二筋三筋
藍を流す波を
描いて、
真白な桜を気ままに散らした、
薩摩の
急須の中には、緑りを細く
綯り込んだ
宇治の葉が、
午の湯に
腐やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は
疾く抜け出した
香のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を
敲くほどは、さほどとも思えぬが、
縁に近くようやく色を増して、濃き水は
泡を
面に片寄せて動かずなる。
母は
掻き
馴らしたる灰の盛り上りたるなかに、
佐倉炭の白き
残骸の
完きを
毀ちて、
心に潜む赤きものを片寄せる。
温もる穴の
崩れたる中には、黒く輪切の正しきを
択んで、ぴちぴちと
活ける。――室内の春光は
飽くまでも
二人の
母子に穏かである。
この作者は趣なき会話を嫌う。
猜疑不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。
閑花素琴の春を
司どる人の歌めく
天が
下に住まずして、
半滴の
気韻だに帯びざる野卑の言語を
臚列するとき、
毫端に泥を含んで双手に筆を
運らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の
急須と、佐倉の切り炭を
描くは瞬時の
閑を
偸んで、
一弾指頭に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は
昔しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。
嬉しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の
切なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、
一もよっぽど
剽軽者だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
厩と
鳥屋といっしょにあった。
牝鶏の馬を評する語に、――あれは
鶏鳴をつくる事も、
鶏卵を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。
普通のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は
滑らかな
頬に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。
砲兵工廠の鉄砲玉は鉛を
鎔かして
鋳る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は
飽くまでも
真面目である。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、
端なくも母の疑問を起す。子を知るは親に
若かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども
唐、
天竺である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どき
眉の下から、娘を
屹と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための
下拵と見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。
筍を輪切りにすると、こんな風になる。
張のある
眉に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお
籠る何物かがちょっと
閃いてすぐ消えた。母は
相槌を打つ。
「あんな見込のない人は、
私も好かない」
趣味のないのと見込のないのとは別物である。
鍛冶の
頭は
かんと打ち、相槌は
とんと打つ。されども打たるるは同じ
剣である。
「いっそ、ここで、
判然断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども
阿爺が、あの金時計を
一にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を
玩具にして、赤い
珠ばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって
繰っ
着いて行くかも知れないが、それでも好いかって、
冗談半分に
皆の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに
謎だと思ってるんですか」
「宗近の
阿爺の
口占ではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢の
角に
敲きつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える
柘榴石は、
蒔絵の
蘆雁を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。
朧とも化けぬ
浅葱桜が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今
少時と
護る
椽に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、
瘠面の影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。
障子のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
同時に豊かな
灯が宗近家の座敷に
点る。静かなる夜を陽に返す
洋灯の笠に白き光りをゆかしく
罩めて、
唐草を一面に高く
敲き出した白銅の
油壺が晴がましくも
宵に曇らぬ色を誇る。
灯火の照らす限りは顔ごとに
賑やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この
灯火の
周囲に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを
恰好と思う。
「それじゃ
相輪も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた
顎はやむを得ず
二重に折れている。頭はだいぶ
禿げかかった。これを時々
撫でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪
た何ですか」と宗近君は
阿爺の前で変則の
胡坐をかいている。
「アハハハハそれじゃ
叡山へ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、
甲野さん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の
襟を正しく坐っている。甲野さんが問い
懸けられた時、
然な糸子の顔は
揺いた。
「相輪
はなかったようだね」と甲野さんは手を
膝の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「
阿爺何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと
若狭の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは
冗談さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に
二重瞼の波を寄せた。
「一体御前方はただ
歩行くばかりで
飛脚同然だからいけない。――叡山には
東塔、
西塔、
横川とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。
灯火は明かに揺れる。糸子は
袖を口へ当てて、
崩しかかった笑顔の収まり
際に
頭を上げながら、
眸を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな
作略はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「
御叔父さん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり
延暦寺の区域だね。広い山の中に、あすこに
一と
塊まり、ここに一と塊まりと坊が
集まっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「
東は
修羅、
西は都に近ければ
横川の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番
淋しい、学問でもするに好い所となっている。――今話した
相輪から五十丁も
這入らなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の
船弁慶にもあるだろう。――かように
候ものは、
西塔の
傍に
住居する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――
阿爺さん
叡山の総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「
開基かい。開基は
伝教大師さ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体
昔しの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は
御前、叡山の
麓で生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う
棒杭が坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔しの人は
想こそ
無上なれと説いた。
逝く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今
載せて
杳然と去るを思わぬが世の常である。堂に
法華と云い、石に
仏足と云い、
に
相輪と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を
記して
吾事畢ると思うは
屍を
抱いて活ける人を
髣髴するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。
太上は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが
叡山に登って叡山を知らぬはこの故である。
過去は死んでいる。
大法鼓を鳴らし、
大法螺を吹き、
大法幢を
樹てて王城の鬼門を
護りし
昔しは知らず、中堂に仏眠りて
天蓋に
蜘蛛の糸引く
古伽藍を、
今さらのように
桓武天皇の
御宇から堀り起して、無用の
詮議に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある
閑人の
所作である。現在は
刻をきざんで
吾を待つ。
有為の天下は眼前に落ち
来る。双の
腕は風を
截って
乾坤に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山
一刹の指揮によって、
夜来、
日来に面目を新たにするものじゃと思い
籠めたように、
々として叡山を説く。説くは
固より青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を
択んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな
贅沢になって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外
真面目である。
「
阿爺叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで
蕎麦を食いに行くそうですよ」
「アハハハ
真逆」
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それは
のらくら坊主だろう」
「すると僕らは
のらくら書生かな」
「御前達は
のらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「
到底のらくらじゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹を
競り出して笑った。
洋灯の
蓋が
喫驚するくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、
僧侶にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは
一乗止観院と云って、延暦寺となったのはだいぶ
後の事だ。その時分から妙な
行があって、十二年間山へ
籠り切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする
了見かな」
と宗近君が今度は
独語のように云う。
「修業するのさ。御前達もそう
のらくらしないでちとそんな
真似でもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に
背く訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ
籠ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
一座はどっと
噴き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を
逆に撫でる。垂れ懸った頬の肉が
顫え落ちそうだ。糸子は
俯向いて声を殺したため
二重瞼が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから
億劫だ。――
欽吾さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも
籠る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし
阿母さんが心配するだろう」
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは
一人もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは
眇然として天地の
間に
懸っている。世界滅却の日をただ
一人生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「
一にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
老人は自分の心で、わが母の心を
推している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱり
のらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
今夕の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。
九
真葛が
原に
女郎花が咲いた。すらすらと
薄を抜けて、
悔ある高き身に、秋風を
品よく
避けて通す心細さを、秋は
時雨て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る
霜に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を
朝夕に頼み少なく
繋なぐ。冬は五年の長きを
厭わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に
貧を知らぬ春の天下に
紛れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って
富貴に色づくを、ひそかなる黄を、
一本の細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭く
憚かりの
呼吸を吹くようである。
今までは
珠よりも
鮮やかなる夢を
抱いていた。
真黒闇に
据えた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気に
懸ける
暇もなかった。
懐に抱く珠の光りを
夜に抜いて、二百里の道を
遥々と闇の袋より取り出した時、珠は現実の
明海に幾分か
往昔の輝きを失った。
小夜子は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔てて
逢う瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬が
吠える。
自からも、わが
来る所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷に
蔵してなおさらに
疑を路上に受くるような気がする。
過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ
一雫の油は容易に
油壺の中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が
各自に働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意に
描く。小夜子の世界は新橋の
停車場へぶつかった時、
劈痕が入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
小野さんも同じ事である。打ち
遣った過去は、夢の
塵をむくむくと
掻き分けて、古ぼけた頭を歴史の
芥溜から出す。おやと思う
間に、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、
生息の根を
留めて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなく
向で吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が
気紛の時節を誤って、暖たかき
陽炎のちらつくなかに
甦えるのは
情けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれれば
労らねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来の
袖に隠れて見た。
紫の匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を
据えかける
途端に小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
「
阿父は」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす
翌日より、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、
蒸れやすき髪に
櫛の歯を入れる暇もない。不断着の
綿入さえ見すぼらしく詩人の眼に
映る。――
粧は鏡に向って
凝らす、
玻璃瓶裏に
薔薇の
香を浮かして、軽く
雲鬟を
浸し去る時、
琥珀の櫛は
条々の
翠を解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
「
御忙しいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、
昨日も
一昨日も会がありまして……」
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ
己れよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は
俯向いて、
膝に
載せた右手の中指に光る金の指輪を見た。――
藤尾の指輪とは無論比較にはならぬ。
小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い
天井の白茶けた板の、二た所まで
節穴の
歴然と見える上、
雨漏の
染みを
侵して、ここかしこと
蜘蛛の
囲を
欺く
煤がかたまって黒く釣りを
懸けている。左から四本目の桟の中ほどを、
杉箸が一本横に貫ぬいて、長い方の
端が、思うほど下に曲がっているのは、立ち
退いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす
氷嚢でもぶら下げたものだろう。次の
間を立て切る二枚の
唐紙は、洋紙に
箔を置いて
英吉利めいた
葵の
幾何模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしい
縁の黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬく
椽に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は
茶献上ほどもない。
丈に足らぬ
檜が春に用なき、去年の葉を
硬く
尖らして、
瘠せこけて立つ
後ろは、
腰高塀に
隣家の話が手に取るように聞える。
家は小野さんが
孤堂先生のために周旋したに相違ない。しかし
極めて
下卑ている。小野さんは心のうちに
厭な
住居だと思った。どうせ家を持つならばと思った。
袖垣に
辛夷を添わせて、
松苔を
葉蘭の影に畳む上に、切り立ての
手拭が春風に
揺らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
「
御蔭さまで、好い
家が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら
情けない。ある人に
奴鰻を
奢ったら、御蔭様で始めて
旨い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を
軽蔑したそうである。
いじらしいのと
見縊るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露
いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が
祟ったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好い
家でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく
恰好なのがなくって……」
と云い
懸けると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは
吝嗇な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
細い
面をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。
久留米絣は背広に変っている。
五分刈は
光沢のある毛に変っている。――
髭は一躍して紳士の域に
上る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。
襟は
卸し立てである。飾りには
留針さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った
品の好い
胴衣の
隠袋には――恩賜の時計が
這入っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
五年の間
一日一夜も
懐に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。
西東長短の
袂を分かって、
離愁を
鎖す
暮雲に
相思の
関を
塞かれては、
逢う事の
疎くなりまさるこの
年月を、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、
健気に生い立った
阿蒙の変りかたではない。色の
褪めた過去を
逆に
捩じ伏せて、
目醒しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に
拵らえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分が
恨めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
新橋へは
迎に来てくれた。車を
傭って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、
蝸牛親子して寝る
庵を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も
左様に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。
小さい
手提の荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、
膝掛といっしょに先へ行った、
刻み足の
後ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、
遥々と来た二人を案内するためではなく、時候
後れの親子を追い越して
馳け抜けるためのように見える。
割符とは
瓜二つを取ってつけて
較べるための
証拠である。天に
懸る日よりも
貴しと
護るわが夢を、
五年の長き
香洩る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち
退いている。握る割符は通用しない。
始めは穴を出でて
眩き故と思う。少し
慣れたらばと、
逝く日を
杖に、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
やさしく
咽喉に
滑べり込む長い
顎を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を
眺めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る
髭を見た。変る髪の
風と変る
装とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと
嘆息を
吐いた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の
綯を
逆に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと
嵐山へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、
嵐山は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
花を
看る人は星月夜のごとく
夥しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり
阿父とですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか
情けない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。
大悲閣の温泉などは立派に
普請が出来て……」
「そうですか」
「
小督の
局の墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
「
彼所いらは
皆掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
「
毎年俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに
雑沓しませんでしたね」
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと
真向に返る。金縁の
眼鏡と薄黒い
口髭がすぐ
眸に
映る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の
緒の、するすると抜け出しそうな
咽喉を
抑えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて
角を曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。
品のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは
始終突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは
歳ばかりで、いたずらに育った
縞柄と、用い古るした
琴が
恨めしい。琴は
蔽のまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子は何と答えていいか分らない。
膝に手を置いたまま、下を向いている。小さい
耳朶が、行儀よく、
鬢の末を
潜り抜けて、
頬と
頸の
続目が、
暈したように曲線を陰に
曳いて去る。見事な
画である。惜しい事に
真向に
座った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の
退き具合、これほどの
光線に、これほどの色の付き具合は
滅多に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの
踵を、地に
滅り込むほどに
回らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは
真向に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に
翻える
袖の
香が、濃き
紫の
眉間を
掠めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と
背広の胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ
宜しく」
「あの……」と
口籠っている。
相手は腰を浮かしながら、
あののあとを待ち兼ねる。早くと
急き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し
悪くなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは
没義道に離れて行く。未練も
会釈もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は
惘然として、
椽に近く坐った。
降らんとして降り
損ねた空の奥から
幽かな春の光りが、淡き雲に
遮ぎられながら一面に照り渡る。
長閑かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく
欝陶しい。どこやらで琴の
音がする。わが
弾くべきは
塵も払わず、
更紗の小包を二つ並べた間に、袋のままで
淋しく壁に持たれている。いつ
欝金の
掩を
除ける事やら。あの曲はだいぶ
熟れた手に違ない。片々に抑えて片々に
弾く爪の、安らかに
幾関の
柱を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は
甲斐甲斐しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい
昨日のように思う。ちらちらに昼の
蛍と竹垣に
滴る
連に、朝から降って退屈だと
阿父様がおっしゃる。
繻子の袖口は
手頸に
滑りやすい。絹糸を細長く目に
貫いたまま、針差の
紅をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、
鮮かに眼を
醒ませと、
への字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か
撥ねた。曲はたしか
小督であった。狂う指の、
憂き昼を、くちゃくちゃに
揉みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、
琴の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の
好な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、
闇を破る
烏の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに
洋琴でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。
阿父は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、
今日を
明日と、その日に
数る命は、
文も
理も
危い。……
格子ががらりと
開く。
古の人は帰った。
「今帰ったよ。どうも
苛い
埃でね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は
厭な所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で
足袋をはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、
提げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。
座布団を買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目に
逢った」
「おやおや」と気の毒そうに
微笑んだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、
御蔭で大変遅れてしまったよ」と包みのなかから
八丈まがいの黄な
縞を取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
「
阿父も敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――
価が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗り
損なってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。
忌々しいから帰りには歩いて来た」
「
御草臥なすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で
髯も何も
埃だらけになっちまった。こら」と
右手の指を四本
并べて
櫛の代りに
顎の下を
梳くと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に
御這入んなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分
苛くってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と
廂の外を下から
覗いて見る。空は曇る心持ちを
透かして春の日があやふやに流れている。琴の
音がまだ
聴える。
「おや琴を弾いているね。――なかなか
旨い。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ
阿父には分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような
烈しい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に
笑を浮べて見せる。老人は世に
疎いわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ
冗談を……」
娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
「
阿父様」
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で
逢った時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
後の句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。
水車を踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が
欝ぐものでね。今日なぞは
阿父などにもよくない天気だ」
気が
欝ぐのは秋である。
餅と知って、酒の
咎だと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっと
琴でも
弾いちゃどうだい。
気晴に」
娘は浮かぬ顔を、
愛嬌に傾けて、床の間を見る。
軸は
空しく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、
竪に
截って、
欝金の
蔽が春を隠さず明らかである。
「まあ
廃しましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。
近々博士論文を出すんだそうで……」
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の
己れには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問に
凝ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なに
緩くりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから
一日都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を
利かなくっちゃいけない」
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。
阿父が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに
御菜はいらないよ。――頼んで置いた婆さんは
明日くるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。
十
謎の女は
宗近家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり
炭団が水晶と光る。禅家では柳は緑花は
紅と云う。あるいは雀はちゅちゅで
烏はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を
鍋の中へ入れて、
方寸の
杉箸に
交ぜ繰り返す。芋をもって
自からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は
金剛石のようなものである。いやに光る。そしてその光りの
出所が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。
神楽の
面には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
真率なる快活なる宗近家の
大和尚は、かく物騒な女が
天が
下に生を
享けて、しきりに鍋の底を
攪き廻しているとは思いも寄らぬ。
唐木の机に唐刻の
法帖を乗せて、厚い坐布団の上に、
信濃の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から
鉢の
木を
謡っている。謎の女はしだいに近づいてくる。
悲劇マクベスの
妖婆は
鍋の中に天下の
雑物を
攫い込んだ。石の影に
三十日の毒を人知れず吹く
夜の
蟇と、燃ゆる腹を黒き
背に
蔵す
蠑の
胆と、蛇の
眼と
蝙蝠の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果てて
尖れる爪は、世を
咀う
幾代の
錆に
瘠せ尽くしたる
鉄の
火箸を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を
泡と共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは
真昼間である。鍋の底からは
愛嬌が
湧いて出る。
漾うは笑の波だと云う。
攪き
淆ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが
品よく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ
能掛である。
大和尚の
怖がらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ
御暖になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな
掌を出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「その
後は……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい
無人だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう
御無沙汰になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ
後をつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々
欽吾や
藤尾が出まして、
御厄介にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
頭はここでようやく上がる。
阿父はほっと
気息をつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく
暖かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど
盛でしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日
前がちょうど
観頃でございましたが、
一昨日の風で、だいぶ
傷められまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え?
浅葱桜。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは
凄いような心持が致します」
「そうですか、アハハハハ。
荒川には
緋桜と云うのがあるが、
浅葱桜は珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も
好事家に云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も
一が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは
呑気なものでアハハハハ。――どうです
粗菓だが一つ
御撮みなさい。
岐阜の
柿羊羹」
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、
旨いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は
箸を上げて皿の中から
剥ぎ取った羊羹の
一片を手に受けて、
独りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と
甲野の母は切り出した。
「せんだって
中は
欽吾がまた、いろいろ御厄介になりまして、
御蔭様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の
我儘者でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして
朋友と申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに
附合が出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だか
欝いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。
家にさえいるとあなた、
妹にばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で
淡泊してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな
彼人の病気のせいだから、今さら
愚癡をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は
真面目に答えたが、ついでに
灰吹をぽんと
敲いて、銀の
延打の
煙管を畳の上にころりと落す。
雁首から、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだって
家へ見えた時などは
皆と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは
仔細らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
「
彼人の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
謎の女は自分の思う事を
他に云わせる。手を
下しては落度になる。向うで
滑って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような
泥海を知らぬ
間に用意するばかりである。
「その結婚の事を
朝暮申すのでございますが――どう
在っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で
亡くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか
一日も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から
撥ねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは
阿母だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人
背負い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。
何歳になっても心配は絶えませんね」
「
此方様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で
配偶に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、
阿母私はこんな
身体で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に
聟を貰って、
阿母さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
謎の女は
和尚をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。
紫檀の
蓋を丁寧に
被せる。
煙管は転がった。
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して
生の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を
利きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
和尚は
手提の煙草盆の浅い
抽出から
欝金木綿の
布巾を取り出して、
鯨の
蔓を
鄭重に拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い
悪ければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に
障らないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ
後が大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、
疳が高くなってちゃあ」
「まるで
腫物へ
障るようで……」
「ふうん」と
和尚は腕組を始めた。
裄が短かいので太い
肘が
無作法に見える。
謎の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は
疾言と
遽色である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を
揃えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の
鄭重なのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし
彼人が断然
家を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
「
聟かね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
「
左様さね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは
幾歳ですい」
「もう、明けて
四になります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた
掌を下から
覗き込むようにする。
「いえもう、
身体ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
話は
放って置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、
一さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない
呑気な女だと
覚し召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実は
私の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――
一も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、
今日明日と云う訳にも行かないですが、
晩かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あの
方なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、
阿母の御考は」
「あの
通行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり
叶ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ
彼人に困りますので。一さんは宗近家を
御襲ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、
阿父がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば
亡くなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに
配偶さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても
宜しい――のでございますが」
謎の女の云う事はしだいに
湿気を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。
辛うじて謎の女の謎をここまで叙し
来った時、筆は、一歩も前へ進む事が
厭だと云う。日を作り夜を作り、海と
陸とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
日のあたる別世界には二人の
兄妹が活動する。六畳の
中二階の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が
信楽の
鉢に、
蟠まる根を盛りあげて、くの字の影を
椽に伏せる。
一間の
唐紙は白地に
秦漢瓦鐺の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の
床は、軸を嫌って、
籠花活に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
糸子は床の間に縫物の五色を、
彩と乱して、
糸屑のこぼるるほどの
抽出を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の
行方は、一針ごとに春を
刻む
幽かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
腹這は
弥生の姿、寝ながらにして天下の春を領す。
物指の先でしきりに敷居を
敲いている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで
余り
儲かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか
阿父が
苔盛園で二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。
転覆でもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる
阿爺も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら
担ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ
私は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、
今度こっちの大発明だ。ハハハハ。
嫌なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
「
阿父さまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日が
中って二階の方が松のために好いって」
「
阿爺も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。
発句?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは
伊勢崎でしょう」
「いやに
光つくじゃないか。兄さんのかい」
「
阿爺のよ」
「
阿爺のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の
袖無以後
御見限りだね」
「あらいやだ。あんな
嘘ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい
襟垢だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは
膏が多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの
親父の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには
御古ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある
陣笠をかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。
可哀想に」
「まだ、あるのよ」
宗近君は返事をやめて、
欄干の
隙間から
庭前の植込を
頬杖に見下している。
「まだあるのよ。
一寸」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと
撮んだ合せ目を、見る
間に
括けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の
針孔を
障子へ向けて、
可愛らしい
二重瞼を細くする。宗近君は依然として
長閑な心を頬杖に託して庭を
眺めている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
下顎は頬杖で動かす事が出来ない。返事は
咽喉から鼻へ抜ける。
「
あし。分ったでしょう」
「う。うん」
紺の糸を
唇に
湿して、指先に
尖らすは、
射損なった針孔を通す女の
計である。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の
阿母が
御出よ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい
叶わない」
「でも
品がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが
嫌じゃ、世話の
仕栄がない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の
袖無の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や
向島は駄目だが
荒川は今が
盛だよ。荒川から
萱野へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に
沢山はないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を
借してちょうだい」
「そうして
裁縫を勉強すると、今に御嫁に行くときに
金剛石の
指環を買ってやる」
「
旨いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに
鋏はなくって」
「その
蒲団の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。
洒落かい」
「これ?
奇麗でしょう。
縮緬の
御申さん」
「御前がこしらえたのかい。感心に
旨く出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな
椽側へ煙草の灰を捨てるのは
御廃しなさいよ。――これを
借して上げるから」
「なんだいこれは。へええ。
板目紙の上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。
閑人だなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸の
屑をかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのような
方が好きなんでしょう」
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
「
嫌でもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の
叔母はしきりに密談をしているね」
「ことに
因ると藤尾さんの事かも知れなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、
火熨がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分の
家で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも
剣呑だね。それじゃこっちも
気息を殺して
寝転んでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
裁縫の手を
休めて、火熨に
逡巡っていた糸子は、
入子菱に
縢った指抜を
抽いて、
色に
銀の雨を刺す
針差を裏に、
如鱗木の塗美くしき
蓋をはたと落した。やがて
日永の窓に赤くなった
耳朶のあたりを、
平手で支えて、右の
肘を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた
膝を斜めに
崩した。
襦袢の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく
滑って、くっきりと
普通よりは明かなる肉の柱が、
蝶と傾く
絹紐の下に
鮮かである。
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか
無躾に聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで
巫女だね。――御前がそう
頬杖を突いて針箱へ
靠たれているところは天下の絶景だよ。妹ながら
天晴な姿勢だハハハハ」
「
沢山御冷やかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」
云いながら糸子は首を
支えた白い腕をぱたりと倒した。
揃った指が針箱の角を
抑えるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、
圧し付けられた手の
痕を
耳朶共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う
二重の
瞼は、涼しい
眸を、長い
睫に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を
肘に
撥ねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。
派出な色の
絹紐がちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と
俯目になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
「
今度の試験の結果はまだ分らないの」
「もう
直だろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
「
好かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある
方が好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ
例に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の
至だ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも
苦にならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ
廃そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子を
透して糸子の頬を暖かに射る。
俯向いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と
翻える
襦袢の
袖のほのめくうちを、二本の指に、ここと
抑えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、
旨く手が届くね。
盲目にすると
疳の好い
按摩さんが出来るよ」
「だって
慣れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に
琴を引く
別嬪がいてね」
「
端書に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと
嵐山へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に
見惚れて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「
嘘よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの
因縁だよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら
廃そう」
「その女の
方は何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう
真面目にならなくっても好い。実は
嘘だ。全く兄さんの作り事さ」
「
悪らしい」
糸子はめでたく笑った。
十一
蟻は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる
生存のうちに
無聊をかこつ。立ちながら三度の食につくの
忙きに
堪えて、路上に
昏睡の病を
憂う。生を縦横に託して、縦横に死を
貪るは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を
髪剃に
削って、人の精神を
擂木と鈍くする。刺激に
麻痺して、しかも刺激に
渇くものは
数を尽くして新らしき博覧会に集まる。
狗は
香を
恋い、人は色に
趁る。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。
紫衣と云い、
黄袍と云い、
青衿と云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。
土堤を走る
弥次馬は必ずいろいろの旗を
担ぐ。担がれて懸命に
櫂を
操るものは色に担がれるのである。天下、
天狗の鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより
赫奕として赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
蛾は
灯に集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下を
牽く。金銀、
、
瑪瑙、
琉璃、
閻浮檀金、の属を挙げて、ことごとく退屈の
眸を見張らして、疲れたる頭を
我破と
跳ね起させるために光るのである。昼を短かしとする文明の民の夜会には、あらわなる肌に
鏤たる宝石が
独り幅を
利かす。
金剛石は人の心を奪うが
故に人の心よりも高価である。
泥海に落つる星の影は、影ながら
瓦よりも
鮮に、見るものの胸に
閃く。閃く影に
躍る
善男子、
善女子は家を
空しゅうしてイルミネーションに集まる。
文明を刺激の袋の底に
篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き
夜の砂に
漉せば
燦たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。
花電車が風を
截って来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を
山下雁鍋の
辺で
卸す。雁鍋はとくの昔に
亡くなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森の
方にぞろぞろ行く。
岡は
夜を
掠めて本郷から起る。高き台を
朧に浮かして幅十町を東へなだれる
下り
口は、根津に、
弥生に、切り通しに、驚ろかんとするものを
枡で
料って
下谷へ通す。踏み合う黒い影はことごとく
池の
端にあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
松高くして花を隠さず、枝の
隙間に夜を照らす
宵重なりて、雨も降り風も吹く。始めは
一片と落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この
間中は見るからに、
万紅を大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、
梢から後を追うて落ちて来た。忙がしい
吹雪はいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやく
収った。星ならずして夜を
護る花の影は見えぬ。同時にイルミネーションは
点いた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
薄の穂を丸く曲げて、左右から重なる金の
閃く中に織り出した
半月の数は分からず。幅広に腰を
蔽う藤尾の帯を一尺隔てて
宗近君と
甲野さんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
「
糸子さん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子を
眉深く
被って立つ。
糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人の
衣の色は黄に似て夜を
欺くを、黒いものが幾筋も
竪に刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「
貴所方は」と糸子を差し置いて
藤尾が振り返る。黒い髪の陰から
颯と白い顔が
映す。頬の端は遠い
火光を受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちは
楽があるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い
体躯を
真直に立てたまま藤尾を
見下した。
黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を
点す。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ
但書を附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容は
旨く
中ると俗になるのが通例だ」
「
中ると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際に
外れる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると
旨く中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん
無味くって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。
聴いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼の
角から
欽吾を見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。
「あの横にあるのは何」と糸子が
無邪気に聞く。
の線を
闇に渡して空を横に切るは屋根である。
竪に切るは柱である。斜めに切るは
甍である。
朧の奥に星を
埋めて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、
稲妻の穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。
卍を
描いて花火のごとく地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して
帝座の真中を貫けとばかり
抛げ上げた。かくして塔は
棟に入り、棟は
床に
連なって、
不忍の
池の、
此方から見渡す
向を、右から左へ
隙間なく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
藍を含む黒塗に、金を惜まぬ
高蒔絵は堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、
曲欄を描き、
円塔方柱の数々を描き尽して、なお余りあるを是非に用い切らんために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横に
空を走る
の線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形を
崩す
気色が見えぬ。
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの
恰好が好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと
躊躇した。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「
冠に
紅玉を
嵌めたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って
仰向いた。
空は低い。薄黒く大地に
逼る夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って
放下がっている。柱と
連なり、甍と積む万点の
は
逆しまに天を
浸して、寝とぼけた星の
眼を射る。星の眼は熱い。
「空が
焦げるようだ。――
羅馬法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は
谷中から上野の森へかけて大いなる
圜を
画いた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも
差支なしか。とにかく
女王の冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が
奇麗よ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に
圧し付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる
水底から、腐った
蓮の根がそろそろ青い
芽を吹きかけている。泥から生れた
鯉と
鮒が、
闇を忍んで
緩やかに
を働かしている。イルミネーションは高い影を
逆まにして、二丁
余の岸を、尺も残さず
真赤になってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色を
作す。泥に
潜む魚の
鰭は燃える。
湿える
は、
一抹に岸を
伸して、明かに
向側へ渡る。行く道に
横わるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりと
截って長い橋を西から東へ
懸ける。白い石に
野羽玉の波を
跨ぐアーチの数は二十、欄に盛る
擬宝珠はことごとく夜を照らす白光の
珠である。
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とに
聚った。一間ごとに高く石欄干を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列に
空に懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人で
埋っている」
と宗近君が大きな声を出した。
小野さんは
孤堂先生と
小夜子を連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天の
祠を抜けて
圧して来る。
向が
岡を下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の
周囲を捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただ
揉まれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を
尺寸に見出して、安々と
踵を着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もう
後ろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧し
潰すために
皆が揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。
多勢の間に立って、多数より
優れたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に
生存の自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したる
後家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで
背負って、幅の
利かぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、
見咎められるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋の
大さが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
「
阿爺、大丈夫」と
後から呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに
自然に押して行けば世話はない」と
挟まった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い
片頬に
笑を見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の
提灯が孤堂先生の黒い帽子を
掠めて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元で
指す。手を出せば人の肩で
遮ぎられる。
「どこに」と孤堂先生は足を
揃える暇もなく、そのまま
日和下駄の前歯を傾けて
背延をする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民が
押しかかる。先生は
のめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人を
援ける事を拒まぬ親切な人間である。
文明の波は
自から動いて
頼のない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へ
崩れ出す。二人はようやく胸が広くなったような心持になる。
暗い底に
藍を含む
逝く春の夜を
透かして見ると、花が見える。雨に風に散り
後れて、八重に咲く遅き
香を、夜に
懸けん花の願を、人の世の
灯が下から朗かに照らしている。
朧に
薄紅の
螺鈿を
鐫る。鐫ると云うと
硬過る。浮くと云えば空を離れる。この
宵とこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合せている。
「どうも
怖ろしい人だね」と追いついた孤堂先生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「随分出ます」
「早く
家へ帰りたくなった。どうも
怖しい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」
小野さんはにやにやと笑った。
蜘蛛の子のように暗い森を
蔽うて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
数は
勢である。勢を生む所は怖しい。一坪に足らぬ腐れた水でも
御玉杓子のうじょうじょ
湧く所は怖しい。いわんや高等なる文明の御玉杓子を苦もなく
ひり出す東京が怖しいのは無論の事である。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しで
紛れるところだった。京都じゃこんな事はないね」
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だって
怖くって……」
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池を
回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海の
湧き返る薄黒い
倫敦で、朝な夕なに回り合わんと心掛ける
甲斐もなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ
一重の壁に
遮られて隣りの家に
煤けた空を
眺めている。それでも
逢えぬ、一生逢えぬ、骨が
舎利になって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を
終古に隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の
周囲を回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。
「どうだい
女連はだいぶ疲れたろう。ここで御茶でも飲むかね」と宗近君が云う。
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶は
廃しにするかね」
「でも
欽吾さんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなか
旨い事を云う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女には
敵わない」と甲野さんは断案を
下した。
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた
仮普請の入口を
跨ぐと、
小い卓に
椅子を添えてここ、かしこに
併べた大広間に、三人四人ずつの
群がおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四五十人の一座をずっと見廻した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんの
袂をぐいと引いた。
後の藤尾はすぐおやと思う。しかし
仰山に何事かと聞くのは不見識である。甲野さんは別段相図を返した様子もなく
「あすこが
空いている」とずんずん奥へ
這入って行く。あとを
跟けながら藤尾の眼は大きな部屋の隅から隅までを残りなく腹の中へ畳み込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。
後ろを見て御覧」と宗近君がまた云う。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しい
輝を帯びて、頬の色は電気灯のもとでは少し熱過ぎる。
「どこに」と
何気なき糸子は、
優しい肩を
斜めに
捩じ向けた。
入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰を
卸した三人は突き当りの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の眼は、広い部屋に
所択ばず散らついている群衆を端から端へ貫ぬいて、
遥か隔たった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は
真向に見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋しく交る白い糸を、
顎の下に抜くも
嬾うく、世のままに、人のままに、また取る年の積るままに捨てて吹かるる
憂き
髯は小夜子の方に向いている。
「あら
御連があるのね」と糸子は
頸をもとへ返す。返すとき前に坐っている甲野さんと眼を見合せた。甲野さんは何にも云わない。灰皿の上に
竪に挟んだ
燐寸箱の横側をしゅっと
擦った。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合せのままでわかれるつもりかも知れない。
「どうだい、
別嬪だろう」と宗近君は糸子に
調戯かける。
俯目に卓布を
眺めていた藤尾の眼は見えぬ、濃い眉だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしい
方ね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は眼を上げない。
「ええ」と
素気なく云い放つ。
極めて低い声である。答を与うるに
価せぬ事を聞かれた時に、――相手に
合槌を打つ事を
屑とせざる時に――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と
巻煙草の灰を皿の中にはたき落す。
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も
下向になって
燐寸を
擦る。
刹那に藤尾の
眸は宗近君の額を射た。宗近君は知らない。
啣えた巻煙草に火を移して顔を
真向に起した時、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の
由緒を」と云いながら角砂糖を茶碗の中へ
抛り込む。
蟹の眼のような
泡が
幽かな音を立てて浮き上がる。
「そんな事知らないわ」と糸子は
匙でぐるぐる
攪き廻している。
「そら
阿爺が云ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのは
のらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子が
嫌だよ。
柿羊羹か
味噌松風、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラの
傍へ持って行くとすぐ
軽蔑されてしまう」
「そう
阿爺の悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」
「もう叱られる
気遣はないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ
御上り。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。
阿爺のような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った
卵糖を口いっぱいに
頬張る。
「ホホホホ一人で
饒舌って……」と藤尾の方を見る。藤尾は応じない。
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
甲野さんは静かに茶碗を
卸して、首を心持藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、
瞬もせず窓を通して
映る、イルミネーションの
片割を専念に見ている。兄の首はしだいに
故の位地に帰る。
四人が席を立った時、藤尾は
傍目も触らず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく
昂然として入口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は
洒落に女の肩を
敲く。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚ろくうちは
楽がある。女は仕合せなものだ」と再び
人込へ出た時、何を思ったか甲野さんは
復前言を繰り返した。
驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
家へ帰って寝床へ
這入るまで藤尾の耳にこの二句が
嘲の
鈴のごとく鳴った。
十二
貧乏を十七字に
標榜して、馬の糞、馬の
尿を得意気に
咏ずる
発句と云うがある。
芭蕉が古池に
蛙を飛び込ますと、
蕪村が
傘を
担いで
紅葉を見に行く。明治になっては
子規と云う男が
脊髄病を
煩って
糸瓜の水を取った。貧に誇る風流は
今日に至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれを
卑しとする。
仙人は
流霞を
餐し、
朝を吸う。詩人の食物は想像である。美くしき想像に
耽るためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元禄の風流とは別物である。
文明の詩は
金剛石より成る。
紫より成る。
薔薇の
香と、
葡萄の酒と、
琥珀の
盃より成る。冬は
斑入の大理石を四角に組んで、
漆に似たる石炭に
絹足袋の底を
煖めるところにある。夏は
氷盤に
莓を盛って、
旨き血を、クリームの白きなかに
溶し込むところにある。あるときは熱帯の
奇蘭を見よがしに匂わする温室にある。
野路や空、月のなかなる
花野を
惜気も無く織り込んだ
綴の丸帯にある。
唐錦小袖振袖の
擦れ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分を
完うするために金を得ねばならぬ。
詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人の
行を愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に
富貴の実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
詩人ほど金にならん
商買はない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共
他の金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する
藤尾に
頼たくなるのは自然の
数である。あすこには中以上の
恒産があると聞く。腹違の妹を片づけるにただの
箪笥と長持で承知するような母親ではない。ことに
欽吾は多病である。実の娘に
婿を取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ
辻占があたればいつも
吉である。
急いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、
自ら開くべき
優曇華の未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような
相撲をとらぬ、またとれぬ男である。
天地はこの有望の青年に対して
悠久であった。春は九十日の
東風を限りなく得意の
額に吹くように思われた。小野さんは
優しい、物に
逆わぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢と
背を向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の
墨汁にも
較ぶべきほどの暗い
小い点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりと
留っている。仰ぐとぐるぐる
旋転しそうに見える。ぱっと散れば
白雨が一度にくる。小野さんは首を縮めて
馳け出したくなる。
四五日は
孤堂先生の世話やら用事やらで
甲野の方へ足を向ける事も出来なかった。
昨夜は出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と
小夜子を博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。
一飯漂母を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、
濃やかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも
恰好な優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の
考に間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の
明暸な男である。
ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を
開けた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見える
栞があらわれる。小野さんは左の手に栞を
滑らして、細かい活字を金縁の
眼鏡の奥から読み始める。
五分ばかりは無事であったが、しばらくすると、いつの
間にやら、黒い眼は
頁を離れて、
筋違に
日脚の伸びた
障子の
桟を見詰めている。――四五日藤尾に
逢わぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が
十日でもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身には
梳る間も千金である。逢えば逢うたびに願の
的は近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まる
縁はない。のみならず、魔は
節穴の
隙にも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、
籠る
一夜に月は
入る。
等閑のこの四五日に藤尾の
眉にいかな
稲妻が差しているかは夢
測りがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
芭蕉布の
襖を開けると、押入の上段は夜具、下には
柳行李が見える。小野さんは行李の上に畳んである
背広を出して手早く
着換え終る。帽子は壁に
主を待つ。がらりと障子を明けて、赤い
鼻緒の
上草履に、カシミヤの
靴足袋を無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。
冗談か」と行こうとすると、
卸し立ての草履が
片方足を離れて、拭き込んだ廊下を
洋灯部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホ
余まり
周章るもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変
真面目ですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは
気掛な顔をして障子の
傍に上草履を
揃えたまま廊下の突き当りを
眺めている。何が出てくるかと思う。
焦茶の中折が
鴨居を越すほどの高い背を
伸して、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、
胸開の狭い
胴衣から白い
襯衣と白い
襟が著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした
衣裳を、
見栄のせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を
洋袴の
隠袋に
挿し込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこを
曲ると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下の
端にあらわれた。
海老茶色の
緞子の片側が
竜紋の所だけ異様に光線を射返して見える。
在来りの
銘仙の
袷を、
白足袋の甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、
長襦袢らしいものがちらと色めいた。同時に
遮ぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、
男女の視線は御互の顔の上に落ちる。
男はおやと思う。姿勢だけは
崩さない。女ははっと
躊躇う。やがて頬に差す
紅を一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油を
注さぬ黒髪に、
漣の
琥珀に寄る幅広の絹の色が
鮮な翼を
片鬢に張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような
挨拶をする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ
御這入んなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま
擦足に廊下を
滑って来る。
男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて
這入る。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話を
促がす。
「昨夜は
御忙しいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、
御蔭さまで」と云う顔は何となく
窶れている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな
人込へは
滅多に出つけた事がないもんですから」
文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいて
怖がるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
小夜子は返事を控えて
淋しく笑った。
「先生も
雑沓する所が
嫌でしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼を
外して、畳の上に置いてある
埋木の茶托を
眺める。京焼の
染付茶碗はさっきから
膝頭に
載っている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは
隠袋から煙草入を取り出す。
闇を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。
派出を好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の
鍍金に、
銀の
冴えたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
忙しがる小野を無理に都合させて、
好かぬ人込へわざわざ出掛けるのも
皆自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、
袖振り交わして、
長閑な
歩を、春の
宵に
併んで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか
躊躇った。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う
世態染みた
料簡からではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味が
籠っている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った
気色をどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み
馴れた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の
中ではそれほど
性に合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
小夜子はまた
口籠る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の
臭のする煙草を
燻らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも
嫌も御前の
舵の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の
好悪を支配する人間から、素知らぬ顔で
すきか
きらいかを尋ねられるのは
恨めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう
豁達せぬのかと思う。
胴衣の
隠袋から時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と
旨い具合に渡し込む。
女はまた口籠る。男は少し
焦慮くなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、
御閑ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて
勧工場ででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、
私が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び
水泡に帰した。小夜子は
悄然として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ
載せて手早く表へ出る。――同時に
逝く春の舞台は廻る。
紫を
辛夷の
弁に洗う雨重なりて、花はようやく茶に
朽ちかかる
椽に、
干す髪の帯を隠して、動かせば背に
陽炎が立つ。黒きを外に、風が
嬲り、日が嬲り、つい今しがたは黄な
蝶がひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、
後ろからさす日の影に、耳を
蔽うて肩に流す
鬢の影に、しっとりとして
仄である。
千筋にぎらついて深き
菫を一面に浴せる肩を通り越して、向う側はと
覗き込むとき、
眩ゆき眼はしんと静まる。夕暮にそれかと思う
蓼の花の、白きを人は潜むと云った。髪多く余る光を椽にこぼすこなたの影に、有るか無きかの
細りした顔のなかを、濃く引き残したる眉の尾のみがたしかである。眉の下なる切長の黒い眼は何を語るか分らない。藤尾は
寄木の小机に
肱を持たせて
俯向いている。
心臓の扉を
黄金の
鎚に
敲いて、青春の
盃に恋の血潮を盛る。飲まずと口を
背けるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いて
妄りに道を説く。若き空には星の乱れ、若き
地には
花吹雪、一年を重ねて二十に至って愛の神は今が
盛である。緑濃き黒髪を
婆娑とさばいて
春風に織る
羅を、
蜘蛛の
囲と五彩の軒に懸けて、
自と引き
掛る男を待つ。引き掛った男は夜光の
璧を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂を
逆にして、
後の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。
耶蘇教の牧師は救われよという。
臨済、
黄檗は悟れと云う。この女は迷えとのみ黒い
眸を動かす。迷わぬものはすべてこの女の
敵である。迷うて、苦しんで、狂うて、
躍る時、始めて女の御意はめでたい。
欄干に
繊い手を出して
わんと云えという。
わんと云えばまた
わんと云えと云う。犬は続け様に
わんと云う。女は
片頬に
笑を含む。犬は
わんと云い、
わんと云いながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾を
逆にして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
石仏に愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に
基いて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を
標榜して
憚からぬものは、いかなる犠牲をも相手に
逼る。相手を愛するの資格を
具えざるがためである。
たる
美目に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは
危い。
倩たる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は
丙午である。藤尾は
己れのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
愛の対象は
玩具である。神聖なる玩具である。普通の玩具は
弄ばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。
一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を
外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、
春風の吹き回しで、
旨い潮の
満干で、はたりと天地の前に行き
逢った時、この変則の愛は成就する。
我を立てて恋をするのは、
火事頭巾を
被って、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてを
溶かす。
角張った
絵紙鳶も
飴細工であるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きに
渉っても
ふやける気色を見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
沙翁は女を評して
脆きは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通す
昂れる恋は、
炊ぎたる飯の柔らかきに
御影の砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。
噛み締めるものに
護謨の弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんを
択んだ。蜘蛛の囲にかかる
油蝉はかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。
宗近君を
捕るは容易である。宗近君を
馴らすは藤尾といえども困難である。
我の女は
顋で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず
詩歌の
璧を
懐に
抱いて来る。夢にだもわれを
弄ぶの意思なくして、
満腔の誠を捧げてわが
玩具となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わが
眉に、わが
唇に、さてはわが才に認めてひたすらに
渇仰する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
唯々として
来るべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄き
粧を日ごとにして
我の
角を鏡の
裡に隠していた。その五日目の
昨夕! 驚くうちは
楽がある! 女は仕合せなものだ!
嘲の
鈴はいまだに耳の底に鳴っている。小机に
肱を持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動もせぬ。背を
椽に、顔を影なる
居住は、考え事に
明海を
忌む、昔からの
掟である。
縄なくて
十重に
括る
虜は、捕われたるを
誇顔に、
麾けば来り、
指せば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、奇麗な葉を裏返せば毛虫がいる。思う人と
併んで姿見に向った時、大丈夫写るは君と我のみと、神
懸けて疑わぬを、見れば間違った。男はそのままの男に、寄り添うは見た事もない他人である。驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
冴えぬ白さに青味を含む
憂顔を、三五の卓を隔てて電灯の
下に眺めた時は、――わが
傍ならでは、若き美くしき女に近づくまじきはずの男が、
気遣わし
気に、また親し気に、この人と半々に
洋卓の角を回って向き合っていた時は、――
撞木で心臓をすぽりと
敲かれたような気がした。
拍子に胸の血はことごとく頬に
潮す。
紅は云う、
赫としてここに
躍り上がると。
我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。
有ども無きがごとくに
装え。
昂然として水準以下に取り扱え。――気がついた男は面目を失うに違ない。これが
復讐である。
我の女はいざと云う
間際まで心細い顔をせぬ。
恨むと云うは頼る人に見替られた時に云う。
侮に対する適当な言葉は
怒である。無念と
嫉妬を
交ぜ合せた怒である。文明の淑女は人を馬鹿にするを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死に
優る不面目と思う。小野さんはたしかに淑女を
辱しめた。
愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、
帰依の
頭を下げながら、
二心の背を軽薄の
街に向けて、何の
社の鈴を鳴らす。
牛頭、
馬骨、祭るは人の勝手である。ただ小野さんは勝手な神に恋の
御賽銭を投げて、波か字かの
辻占を見てはならぬ。小野さんは、この黒い眼から
早速に放つ、見えぬ光りに、空かけて織りなした無紋の網に引き掛った
餌食である。外へはやられぬ。神聖なる玩具として
生涯大事にせねばならぬ。
神聖とは自分一人が
玩具にして、外の人には指もささせぬと云う意味である。
昨夕から小野さんは神聖でなくなった。それのみか向うでこっちを玩具にしているかも知れぬ。――
肱を持たして、
俯向くままの藤尾の眉が活きて来る。
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。
我は愛を
八つ
裂にする。
面当はいくらもある。貧乏は恋を
乾干にする。
富貴は恋を
贅沢にする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。
尖る
錐に自分の
股を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっとも
価ありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえ
屠る。
逆しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は
我!
我! と叫ぶ。――藤尾は
俯向ながら下唇を
噛んだ。
逢わぬ四五日は手紙でも出そうかと思っていた。
昨夕帰ってからすぐ書きかけて見たが、五六行かいた後で何をとずたずたに引き裂いた。けっして書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば
謝罪らせる。出て来なければ? 我はちょっと困った。手の届かぬところに我を立てようがない。――なに来る、きっと来る、と藤尾は口の
中で云う。知らぬ小野さんははたして我に引かれつつある。来つつある。
よし来ても
昨夜の女の事は聞くまい。聞けばあの女を眼中に置く事になる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞えよがしに、自分を
焦らす
料簡だろう。頭を下げて聞き出しては我が折れる。二人で寄ってたかって人を馬鹿にするつもりならそれでよい。二人が
仄かした事実の反証を挙げて鼻をあかしてやる。
小野はどうしても
詫らせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、
調戯面にあてつけた二人の
悪戯は何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字で
貫こうと、
洗髪の
後に顔を
埋めて考えている。
静かな
椽に足音がする。背の高い影がのっと現われた。
絣の
袷の前が開いて、肌につけた
鼠色の毛織の
襯衣が、長い三角を
逆様にして胸に
映る上に、長い
頸がある、長い顔がある。顔の色は
蒼い。髪は
渦を
捲いて、二三ヵ月は刈らぬと見える。四五日は
櫛を入れないとも思われる。美くしいのは濃い
眉と
口髭である。髭の
質は
極めて黒く、極めて細い。手を入れぬままに自然の趣を
具えて何となく人柄に見える。腰は
汚れた
白縮緬を
二重に
周して、長過ぎる
端を、だらりと、猫じゃらしに、右の
袂の下で結んでいる。
裾は
固より合わない。引き掛けた
法衣のようにふわついた下から
黒足袋が見える。足袋だけは新らしい。
嗅げば
紺の匂がしそうである。古い頭に新らしい足の
欽吾は、世を逆様に歩いて、ふらりと
椽側へ出た。
拭き込んだ細かい
柾目の板が、
雲斎底の影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に
背負った黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に
這入る。足袋の主は見なくても知れている。
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声は
後でする。雨戸の
溝をすっくと仕切った
栂の柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない
洗髪を
見下した。
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。
赤棟蛇の首を
擡げた時のようである。黒い髪に
陽炎を砕く。
男は、眼さえ動かさない。
蒼い顔で
見下している。向き直った女の額をじっと見下している。
「
昨夕は面白かったかい」
女は答える前に熱い団子をぐいと
嚥み
下した。
「ええ」と極めて冷淡な
挨拶をする。
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
女は
急いて来る。勝気な女は受太刀だなと気がつけば、すぐ急いて来る。相手が落ちついていればなお急いて来る。汗を流して斬り込むならまだしも、斬り込んで置きながら
悠々として柱に
倚って人を見下しているのは、酒を飲みつつ
胡坐をかいて
追剥をすると同様、ちと虫がよすぎる。
「驚くうちは
楽があるんでしょう」
女は
逆に寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下している。意味が通じた
気色さえ見えぬ。欽吾の日記に云う。――ある人は十銭をもって一円の
十分一と解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人に依って高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾の間にはこれだけの差がある。段が違うものが
喧嘩をすると妙な現象が起る。
姿勢を変えるさえ
嬾うく見えた男はただ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
「
楽?」と聞いた。楽の意味が分ってるのかと云わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて云う。
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する
気遣がない」
藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のように
楽の多いものは危ないよ」
藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり
見下している。何事とも知らず「
埃及の
御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」と云う句を明かに思い出す。
「小野は相変らず来るかい」
藤尾の眼は火打石を
金槌の先で
敲いたような火花を射る。構わぬ兄は
「来ないかい」と云う。
藤尾はぎりぎりと歯を
噛んだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱に
倚っている。
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分
私があずかって置きます」
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と
寄木の机に
凭せた
肘を
跳ねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、
木賊と
海老茶の
棒縞が、棒のごとく
揃って立ち上がる。
裾だけが
四色の波のうねりを打って白足袋の
鞐を隠す。
「そうか」
と兄は
雲斎底の
踵を見せて、
向へ行ってしまった。
甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土に
籠る青味を
蒸し返して、
湿りながらに暖かき大地を踏んで近づいて来る。
磨き上げた
山羊の皮に
被る
埃さえ目につかぬほどの
奇麗な靴を、刻み足に運ばして甲野家の門に近づいて来る。
世を
投げ
遣りのだらりとした姿の上に、義理に着る羽織の
紐を丸打に結んで、細い杖に
本来空の
手持無沙汰を
紛らす甲野さんと、近づいてくる小野さんは
塀の
側でぱたりと逢った。自然は対照を好む。
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受け
応があった。そのまま
洋杖は動かなくなる。本来は洋杖さえ手持無沙汰なものである。
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは
躊躇する。
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下から
覗き
込んだ。
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――
昨夕見た」
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
小野さんは
ああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。
時鳥は一声で雲に入ったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたして
連があった。小野さんはもう少し進んで見なければ済まないようになる。
「そうかい、奇麗だったろう」とまず
繋ぎに出して置いて、そのうちに次の問を考える事にする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「
何時頃?」の方が
便宜ではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようか知ら、そうしたら先方の答次第で万事が
明暸になる。しかしそれもいらぬ事だ。――小野さんは胸の上、
咽喉の奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪の
垢ほど
先を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では
翻えす事の出来ぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと
指図をしたらしく感じた時、
後から押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから
遠退いた。一歩門へ近寄った小野さんの靴は同時に一歩杖に
牽かれて
故へ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。我らの魂は時あって靴の
踵に宿り、時あって杖の先に潜む。魂を
描く事を知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
一歩の空間を行き尽した靴は、光る
頭を
回らして、
棄身に細い体を大地に托した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
棒のごとく
真直に立ち上がった杖は答える。
「ああ、藤尾も行った。――ことに
因ると今日は下読が出来ていないかも知れない」
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるく
被ったまま、遠慮勝に門内の砂利を踏んで玄関に
掛かる。
小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱に
倚りながら、席に返らぬ
爪先を、雨戸引く溝の上に
翳して、手広く囲い込んだ庭の面を
眺めている。藤尾が椽の柱に倚りかかるよほど前から、
謎の女は立て切った
一間のうちで、鳴る
鉄瓶を相手に、行く春の行き尽さぬ
間を、
根限り考えている。
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の
考は、すべてこの一句から出立する。この一句を
布衍すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観が出来る。謎の女は毎日鉄瓶の
音を聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは
閑のある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
居住は心を正す。
端然と恋に
焦れたもう
雛は、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
老いて
夫なきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細い上に
忌わしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬ
掟は忌わしいのみか
情けない。謎の女は
自を情ない不幸の人と信じている。
他人でも合わぬとは限らぬ。
醤油と
味淋は昔から交っている。しかし酒と煙草をいっしょに
呑めば咳が出る。親の
器の方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日を
経れば日を重ねて
隔りの関が出来る。この頃は江戸の
敵に長崎で
巡り
逢ったような心持がする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌に
逆って、
師走正月の
拍子をはずすための修業ではあるまい。金を掛けてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。
嗣子としては不都合と思う。こんなものに
死水を取って貰う気もないし、また取るほどの働のあるはずがない。
幸と藤尾がいる。冬を
凌ぐ
女竹の、吹き寄せて
夜を積る
粉雪をぴんと
撥ねる力もある。
十目を街頭に集むる春の姿に、
蝶を縫い花を浮かした
派出な
衣裳も着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の
婿と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、
焦らしてこそ、育て上げた母の面目は
揚る。
海鼠の氷ったような他人にかかるよりは、
羨しがられて
華麗に暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。
蘭は
幽谷に生じ、剣は烈士に帰す。美くしき娘には、名ある
聟を取らねばならぬ。申込はたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大き過ぎても小さ過ぎても聟には出来ぬ。したがって聟は
今日まで出来ずにいた。
燦として群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんは大変学問のできる人だと云う。恩賜の時計をいただいたと云う。もう少し立つと博士になると云う。のみならず
愛嬌があって親切である。上品で調子がいい。藤尾の聟として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持がよかろう。
小野さんは
申分のない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が
利かぬ。無一物の
某を入れて、おとなしく
嫁姑を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。
夫が外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有に
帰してしまった。魂胆はここから始まる。
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の
赤裸になれるものなら、降って
湧いた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気にもなる。しかし体裁に着る
衣裳はそう
無雑作に
剥ぎ取れるものではない。降りそうだから
傘をやろうと投げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、見す見すくれる人が
濡れるのを構わずにわがままな手を出すのは人の
思わくもある。そこに
謎が出来る。くれると云うのは本気で云う
嘘で、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾に譲るのを、
厭々ながら受取った顔つきに、文明の手前を
繕わねばならぬ。そこで謎が
解ける。くれると云うのを、くれたくない意味と解いて、貰う
料簡で貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものを
飽くまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見の出来ぬ方法である。謎の女が苦し
紛れの屈託顔に六畳敷を出たのは、
焦慮いが
高じて、布団の上に
坐たたまれないからである。出て見ると春の日は存外
長閑で、平気に
鬢を
嬲る温風はいやに人を馬鹿にする。謎の女はいよいよ
気色が悪くなった。
椽を左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右は
鍵の手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
菱餅の底を渡る気で
真直な向う角を見ると藤尾が立っている。
濡色に
捌いた濃き
鬢のあたりを、
栂の柱に
圧しつけて、斜めに持たした
艶な姿の中ほどに、帯深く差し込んだ
手頸だけが白く見える。萩に伏し
薄に
靡く
故里を
流離人はこんな風に
眺める事がある。故里を離れぬ藤尾は何を眺めているか分らない。母は椽を曲って近寄った。
「何を考えているの」
「おや、
御母さん」と
斜めな身体を柱から離す。振り返った眼つきには
愁の影さえもない。
我の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」と
我が聞き返す。
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の
緋鯉が
跳ねますよ」と我は飽くまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりと云う音がした。
「おやおや。――
御母さんの部屋では少しも聞えないよ」
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう
蓮の葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今
始て」と謎が云う。謎ばかり考えているものは
迂濶である。欽吾と藤尾の事を引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには
蚊帳を畳んで蔵へ入れる。それから
蟋蟀が鳴く。
時雨れる。
木枯が吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。それでも謎の女は一つ所に
坐って謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂濶だなどとは夢にも考えない。
緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。
薄濁のする水に、泥は沈んで、上皮だけは軽く
温む底から、
朦朧と
朱い影が静かな土を動かして、浮いて来る。
滑らかな波にきらりと射す日影を
崩さぬほどに、尾を
揺っているかと思うと、思い切ってぽんと水を
敲いて飛びあがる。一面に
揚る泥の濃きうちに、
幽かなる朱いものが影を潜めて行く。温い水を背に押し分けて去る
痕は、一筋のうねりを見せて、去年の
蘆を風なきに
嬲る。甲野さんの日記には
鳥入雲無迹、
魚行水有紋と云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま
楷書でかいてある。春光は天地を
蔽わず、任意に人の心を
悦ばしむ。ただ謎の女には
幸せぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。
酔狂と云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は
青銭を畳むと云った。
銭のような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日の
嫩い命を托して、
娑婆の風に薄い顔を
曝すうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。
美濃紙の薄きに過ぎて、重苦しと
碧を
厭う柔らかき茶に、日ごとに
冒す
緑青を交ぜた葉の上には、鯉の
躍った、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ
珠となって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色を
眺める。鯉はまた躍った。
母は無意味に池の上を
ていたが、やがて気を換えて
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
藤尾は
屹と向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へ
眸を
反らす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は
疳走るほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃ
ないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
清水の舞台から飛び降りたような語勢は鼻の先でふふんと留った。母はまたおやと思う。
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
「
御前――あの人と
喧嘩でもしたのかい」
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
昨夕の事を打ち明けてこれこれであったと話してしまえばそれまでである。母は無論
躍起になって、こっちに同情するに違ない。打ち明けて都合が悪いとは露思わぬが、進んで同情を求めるのは、
餓に
逼って、知らぬ人の
門口に、一銭二銭の
憐を乞うのと大した相違はない。同情は
我の敵である。
昨日まで舞台に躍る
操人形のように、物云うも
懶きわが小指の先で、意のごとく立たしたり、寝かしたり、
果は笑わしたり、
焦らしたり、
どぎまぎさして、面白く興じていた手柄顔を、母も
天晴れと、うごめかす鼻の先に、得意の
見栄をぴくつかせていたものを、――あれは、ほんの表向で、内実の
昨夕を見たら、招く
薄は
向へ
靡く。知らぬ顔の美しい人と、
睦じく御茶を飲んでいたと、心外な
蓋をとれば、母の手前で器量が下がる。我が承知が出来ぬと云う。
外れた
鷹なら
見限をつけてもういらぬと話す。あとを
跟けて鼻を鳴らさぬような犬ならば打ちやった後で、捨てて来たと公言する。小野さんの不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰るかも知れない。いや帰るに違ないと、小夜子と自分を比較した我が証言してくれる。帰って来た時に
辛い目に
逢わせる。辛い目に逢わせた後で、立たしたり、寝かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、
どぎまぎさしたりする。そうして、面白そうな
手柄顔を、母に見せれば母への面目は立つ。兄と
一に見せれば、
両人への
意趣返しになる。――それまでは話すまい。藤尾は返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に失った。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉は
躍る。
蓮は
芽を吹く、芝生はしだいに青くなる、
辛夷は
朽ちた。謎の女はそんな事に
頓着はない。日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書斎におれば何をしているかと思い、考えておれば何を考えているかと思い、藤尾の所へ来れば、どんな話をしに来たのかと思う。欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断は出来ぬ。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見すると共に謎の女は神経衰弱に
罹った。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を
濫用すると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困り切りますと云う。感染したものこそいい迷惑である。困り切るのはどっちの云い分か分らない。ただ謎の女の方では、飽くまでも欽吾に困り切っている。
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物の
挟ったような皮肉ばかり云うんですよ」
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない
囈語を云うにゃ困るじゃないか。何でもこの頃は様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。
一にやろうがやるまいが余計な御世話じゃないか」
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
椽側を曲って母の影が
障子のうちに消えたとき、小野さんは
内玄関の方から、茶の間の横を通って、次の六畳を、廊下へ廻らず抜けて来る。
磬を打って
入室相見の時、足音を聞いただけで、公案の
工夫が出来たか、出来ないか、手に取るようにわかるものじゃと云った
和尚がある。気の引けるときは歩き方にも現われる。
獣にさえ
屠所のあゆみと云う
諺がある。
参禅の
衲子に限った現象とは認められぬ。応用は才人小野さんの上にも
利く。小野さんは常から世の中に気兼をし過ぎる。今日は
一入変である。
落人は
戦ぐ
芒に安からず、小野さんは軽く踏む青畳に、そと落す
靴足袋の黒き
爪先に
憚り気を置いて
這入って来た。
一睛を
暗所に点ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もう
舐められている。
「
今日は……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの
眸はぐらついた。
「
御無沙汰をしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女は
遮った。ただしそれぎりである。
男は出鼻を
挫かれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶ
暖かになりました」
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、
後は
故のごとく静になる。ところへ
鯉がぽちゃりとまた
跳る。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて
鯉がと云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の
辛夷に
注いている。――
壺のごとく長い
弁から、濃い
紫が春を追うて抜け出した後は、
残骸に
空しき茶の
汚染を
皺立てて、あるものはぽきりと絶えた
萼のみあらわである。
鯉がと云おうとした小野さんはまた
廃めた。女の顔は前よりも寄りつけない。――女は御無沙汰をした男から、御無沙汰をした訳を云わせる気で、ただ
いいえと受けた。男は
仕損ったと心得て、だいぶ
暖になりましたと気を換えて見たが、それでも
験が見えぬので、
鯉がの方へ移ろうとしたのである。男は踏み
留まれるところまで
滑って行く気で、気を
揉んでいるのに、女は依然として故の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。
昨夕博覧会で見つかったなら少し面倒である。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶間なく入れ代るうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌を脱いで
汚い
腫物を知らぬ人の鼻の
前に
臭わせると同じ事になる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも
瑕疵とは云わせぬ。
今宵限の
朧だものと、即興にそそのかされて、
他生の縁の
袖と
袂を、今宵限り
擦り合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を
埋めて、あかの他人と化けてしまう。それならば
差支ない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく
併べられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き
年月を、
向では離れじと、
日の
間とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き
縁の色に、細くともこれまで
繋ぎ
留められた仲である。
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ
嘘となる。嘘は
河豚汁である。その場限りで
祟がなければこれほど
旨いものはない。しかし
中毒たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘は
実を
手繰寄せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける
便もあるに、隠そうとする
身繕、名繕、さては
素性繕に、
疑の
眸の
征矢はてっきり
的と集りやすい。繕は
綻びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身の
は
生涯洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ
利巧者である。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思の糸に
括られているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新らしい血に
通うこの頃の恋の脈が、調子を合せて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の
手頸に暖たかく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と
不知を切る当座の嘘は
吐きたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子の事は名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
「
昨夕博覧会へ
御出に……」とまで思い切った小野さんは、
御出になりましたかにしようか、
御出になったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
迷っている男の
鼻面を
掠めて、黒い影が
颯と横切って過ぎた。男はあっと思う
間に
先を越されてしまう。仕方がないから、
「
奇麗でしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は
明確受け留める。
後から
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し
見当がつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。
当り
障りのない答は大抵の場合において
愚な答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ
見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を
緘んだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。
宗盛と云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静を
審にする必要がある。
「誰か
御伴がありましたか」と何気なく聴いて見る。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと
拗ねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の
外にですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか
渦の中を
漕ぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつの
間にやら
平地へ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その
隙に
「そんなに
忙しいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を
後へ引く。長い髪が一筋ごとに
活きているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに
疳高く笑う。女は自由自在に笑う事が出来る。男は
茫然としている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。
燦たる
金剛石がぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは
竹箆でぴしゃりと
頬辺を
叩かれた。同時に頭の底で
見られたと云う音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は
総崩となる。
「実は一週間前に京都から
故の先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と
嘯きながら頭を
低れた。緑の髪がまた動く。
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。
昨夕兄と
一さんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の
辺に
亀屋の出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで
皆して御茶を飲んだんです」
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、
飽くまでも
粧う。
「大変
旨い御茶でした事。あなた、まだ
御這入になった事はないの」
小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、
今度是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから」
藤尾は
一さんと云う名前を妙に響かした。
春の影は
傾く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句に
ちんと切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その
夜の夢に藤尾は、驚くうちは
楽がある! 女は
仕合なものだ! と云う
嘲の
鈴を聴かなかった。
十三
太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。
夜中郵便と書いて
板塀に穴があいているところを見ると夜は
締りをするらしい。正面に
芝生を
土饅頭に盛り上げて
市を
遮ぎる
翠を
傘と張る松を
格のごとく植える。松を廻れば、弧線を
描いて、頭の上に合う玄関の
廂に、浮彫の波が見える。障子は明け放ったままである。
呑気な
白襖に舞楽の面ほどな草体を、
大雅堂流の筆勢で、
無残に書き散らして、座敷との
仕切とする。
甲野さんは玄関を右に切れて、下駄箱の
透いて見える
格子をそろりと明けた。細い
杖の先で
合土の上をこちこち
叩いて立っている。頼むとも何とも云わぬ。無論応ずるものはない。屋敷のなかは人の住む
気合も見えぬほどにしんとしている。門前を通る車の方がかえって
賑やかに聞える。細い杖の先がこちこち鳴る。
やがて静かなうちで、すうと
唐紙が明く音がする。
清や清やと下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は勝手の方に近づいて来た。杖の先はこちこちと云う。足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。
糸子と甲野さんは顔を見合せて立った。
下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても
滅多に取次に出る事はない。出ようと思う
間に、立てかけた
膝をおろして、一針でも二針でも縫糸が先へ出るが常である。重たき
琵琶の
抱き心地と云う永い昼が、永きに
堪えず崩れんとするを、鳴く
にうっとりと夢を支えて、清を呼べば、清は裏へでも行ったらしい。からりとした勝手には
茶釜ばかりが静かに光っている。黒田さんは例のごとく、書生部屋で、坊主頭を腕の中に
埋めて、机の上に猫のように寝ているだろう。
立ち
退いた
空屋敷とも思わるるなかに、
内玄関でこちこち音がする。はてなと何気なく障子を明けると――広い世界にたった一人の甲野さんが立っている。
格子から差す
戸外の日影を背に受けて、薄暗く高い身を、
合土の真中に動かしもせず、しきりに杖を鳴らしている。
「あら」
同時に杖の
音はとまる。甲野さんは帽の
廂の下から女の顔を久しぶりのように見た。女は急に眼をはずして、細い杖の先を眺める。杖の先から熱いものが
上って、顔がぽうとほてる。油を抜いて、なすがままにふくらました髪を、落すがごとく前に、糸子は腰を折った。
「
御出?」と甲野さんは言葉の尻を上げて簡単に聞く。
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない
二重瞼に
愛嬌の波が寄った。
「御留守ですか。――
阿爺さんは」
「父は
謡の会で朝から出ました」
「そう」と男は長い
体躯を、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、
御這入、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を
後へ引いた。着物はあらい
縞の
銘仙である。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。
後から
掠めて来る日影に、
蒼い頬が、気のせいか、
昨日より少し
瘠けたようだ。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「
私も今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは
粗柾の
俎下駄を脱いで座敷へ上がる。
長押作りに重い
釘隠を打って、動かぬ春の
床には、
常信の
雲竜の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、
角に取り巻く
紋緞子の
藍に、
寂びたる時代は、
象牙の軸さえも落ちついている。
唐獅子を
青磁に
鋳る、口ばかりなる
香炉を、どっかと
据えた尺余の卓は、
木理に
光沢ある
膏を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、
胡麻濃やかな
紫檀である。
椽に
遅日多し、世をひたすらに寒がる人は、端近く
絣の前を合せる。乱菊に
襟晴れがましきを
豊なる
顎に
圧しつけて、面と向う障子の
明なるを
眩く思う女は入口に控える。八畳の座敷は
眇たる二人を離れ離れに
容れて広過ぎる。間は六尺もある。
忽然として黒田さんが現れた。
小倉の
襞を飽くまで
潰した
袴の
裾から
赭黒い足をにょきにょきと運ばして、茶を持って来る。
煙草盆を持って来る。菓子鉢を持って来る。六尺の距離は
格のごとく
埋められて、主客の位地は辛うじて、接待の道具で
繋がれる。
忽然として午睡の夢から起きた黒田さんは器械的に
縁の糸を二人の間に渡したまま、
朦朧たる精神を
毬栗頭の中に封じ込めて、再び書生部屋へ引き下がる。あとは
故の
空屋敷となる。
「
昨夕は、どうでした。疲れましたろう」
「いいえ」
「疲れない?
私より丈夫だね」と甲野さんは少し笑い掛けた。
「だって、
往復共電車ですもの」
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでも無いですか」
糸子は丸い頬に
片靨を見せたばかりである。返事はしなかった。
「面白かったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」
「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」
「イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか」
「ええ」
「何が」
「でもおかしいわ」と首を
傾げて愛らしく笑っている。要領を得ぬ甲野さんも何となく笑いたくなる。
「何ですかその面白かったものは」
「云って見ましょうか」
「云って御覧なさい」
「あの、
皆して御茶を飲んだでしょう」
「ええ、あの御茶が面白かったんですか」
「御茶じゃないんです。御茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」
「あの時小野さんがいらしったでしょう」
「ええ、いました」
「美しい
方を連れていらしったでしょう」
「美しい? そう。若い人といっしょのようでしたね」
「あの方を御存じでしょう」
「いいえ、知らない」
「あら。だって兄がそう云いましたわ」
「そりゃ顔を知ってると云う意味なんでしょう。話をした事は一遍もありません」
「でも知っていらっしゃるでしょう」
「ハハハハ。どうしても知ってなければならないんですか。実は
逢った事は何遍もあります」
「だから、そう云ったんですわ」
「だから何と」
「面白かったって」
「なぜ」
「なぜでも」
二重瞼に寄る波は、寄りては
崩れ、崩れては寄り、黒い
眸を、見よがしに
弄ぶ。
繁き若葉を
洩る日影の、
錯落と大地に
鋪くを、風は
枝頭を
揺かして、ちらつく
苔の定かならぬようである。甲野さんは糸子の顔を見たまま、なぜの説明を求めなかった。糸子も進んでなぜの訳を話さなかった。
なぜは
愛嬌のうちに
溺れて、要領を得る前に、
行方を隠してしまった。
塗り立てて
瓢箪形の池浅く、
焙烙に
熬る玉子の黄味に、朝夕を楽しく暮す金魚の世は、尾を振り立てて
藻に
潜るとも、起つ波に身を
攫るる
憂はない。
鳴戸を抜ける
鯛の骨は潮に
揉まれて
年々に硬くなる。荒海の下は地獄へ底抜けの、行くも帰るも
徒事では通れない。ただ
広海の
荒魚も、三つ尾の
丸っ
子も、同じ箱に入れられれば、水族館に
隣合の友となる。隔たりの関は見えぬが、仕切る
硝子は
透き通りながら、突き抜けようとすれば
鼻頭を痛めるばかりである。海を知らぬ糸子に、海の話は出来ぬ。甲野さんはしばらく瓢箪形に応対をしている。
「あの女はそんなに美人でしょうかね」
「私は美いと思いますわ」
「そうかな」と甲野さんは
椽側の方を見た。
野面の
御影に、乾かぬ露が降りて、いつまでも
湿とりと
眺められる
径二尺の、
縁を
択んで、
鷺草とも
菫とも片づかぬ花が、数を乏しく、行く春を
偸んで、ひそかに咲いている。
「美しい花が咲いている」
「どこに」
糸子の目には正面の赤松と
根方にあしらった
熊笹が見えるのみである。
「どこに」と暖い
顎を延ばして
向を眺める。
「あすこに。――そこからは見えない」
糸子は少し腰を上げた。長い
袖をふらつかせながら、二三歩
膝頭で
椽に近く
擦り寄って来る。二人の距離が鼻の先に
逼ると共に
微かな花は見えた。
「あら」と女は
留る。
「奇麗でしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分らない」
「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」
甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐れな花だ」と云った。糸子は黙っている。
「
昨夜の女のような花だ」と甲野さんは重ねた。
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼を
翻えしてじっと女の顔を見ていたが、やがて、
「あなたは気楽でいい」と真面目に云う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
賞められたのか、
腐されたのか分らない。気楽か気楽でないか知らない。気楽がいいものか、わるいものか
解しにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が
真面目に云うから、真面目にそうでしょうかと云うよりほかに道はない。
文は人の目を奪う。巧は人の目を
掠める。質は人の目を明かにする。
そうでしょうかを聞いた時、甲野さんは何となくありがたい心持がした。
直下に人の魂を見るとき、哲学者は
理解の
頭を下げて、無念とも何とも思わぬ。
「いいですよ。それでいい。それで無くっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」
糸子は美くしい歯を
露わした。
「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうですわ」
「そうは行かない」
「だって、これが生れつきなんだから、いつまで立ったって、変りようがないわ」
「変ります。――
阿爺と兄さんの
傍を離れると変ります」
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利口に変ります」
「
私もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変れば変る方がいいんでしょう。どうかして
藤尾さんのようになりたいと思うんですけれども、こんな馬鹿だものだから……」
甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなに
羨しいんですか」
「ええ、本当に羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと
危ない」
女は依然として、肉余る
瞼を
二重に、
愛嬌の露を大きな
眸の上に
滴しているのみである。危ないという
気色は影さえ見えぬ。
「藤尾が一人出ると
昨夕のような女を五人殺します」
鮮かな眸に滴るものはぱっと散った。表情はとっさに変る。
殺すと云う言葉はさほどに
怖しい。――その他の意味は無論分らぬ。
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
女は
咽喉から飛び出しそうなものを、ぐっと
嚥み
下した。顔は
真赤になる。
「嫁に行くと変ります」
女は
俯向いた。
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
可愛らしい二重瞼がつづけ様に二三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと
雨竜の影が渡る。
鷺草とも
菫とも片づかぬ花は依然として春を
乏しく咲いている。
十四
電車が赤い札を
卸して、ぶうと鳴って来る。入れ代って
後から町内の風を
鉄軌の上に追い
捲くって去る。
按摩が
隙を見計って恐る恐る
向側へ渡る。茶屋の小僧が
臼を
挽きながら笑う。
旗振の着るヘル地の織目は、
埃がいっぱい溜って、黄色にぼけている。古本屋から洋服が出て来る。鳥打帽が
寄席の前に立っている。今晩の語り物が塗板に白くかいてある。空は
針線だらけである。一羽の
鳶も見えぬ。上の静なるだけに下はすこぶる
雑駁な世界である。
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
今度は
印絆天が向いた。
呼ばれた本人は、知らぬ
気に、来る人を
避けて早足に行く。抜き
競をして飛んで来た二
輛の
人力に
遮ぎられて、間はますます遠くなる。
宗近君は胸を出して
馳け出した。
寛く着た
袷と羽織が、足を
下すたんびに
躍を踊る。
「おい」と
後から手を
懸ける。肩がぴたりと留まると共に、小野さんの
細面が
斜めに見えた。両手は
塞がっている。
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
小野さんは帽子のまま
鄭寧に
会釈した。両手は
塞がっている。
「何を考えてるんだ。いくら呼んでも
聴えない」
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の
歩行方がさ」
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものを
提げていると歩行にくいから……」
小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。
「何だい、それは」
「こっちが
紙屑籠、こっちが
洋灯の台」
「そんなハイカラな
形姿をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ」
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を
提げて往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった」
小野さんは黙って笑ながら
御辞儀をした。
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を
歩行ていないようだと、宗近君が云ったのは、まさに現下の状態によく
適合った小野評である。靴に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかし何となく踏み心地が確かでない。にもかかわらず急ぎたい。気楽な宗近君などに
逢っては立話をするのさえ難義である。いっしょにあるこうと云われるとなおさら困る。
常でさえ宗近君に
捕まると何となく不安である。宗近君と
藤尾の関係を知るような知らぬような
間に、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。
表向人の
許嫁を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居振舞の折々にも、気のあるところはそれと推測が出来る。それを裏から壊しに掛ったとまでは行かぬにしても、事実は宗近君の望を、われ
故に、永久に鎖した訳になる。人情としては気の毒である。
気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、
毫も自分と藤尾の仲を苦にしていないのがなおさらの気の毒になる。逢えば隔意なく話をする。
冗談を云う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経綸を論ずる。もっとも恋の事は余り語らぬ。語らぬと云わんよりむしろ語れぬのかも知れぬ。宗近君は恐らく恋の真相を
解せぬ男だろう。藤尾の
夫には不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる
己を含んでいる。
悪戯をして親の前へ出るときの心持を考えて見るとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる
了見よりは何となく物騒だと云う感じが
重である。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。
雷の
嫌なものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく
逡巡するのと一般である。ただの気の毒とはよほど
趣が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。
「散歩ですか」と小野さんは
鄭寧に聞いた。
「うん。今、その
角で電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」
この答は少々論理に
叶わないと、小野さんは思った。しかし論理はどうでも構わない。
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いで
差支ない。少し君の歩く方角へ急いでいっしょに行こう。――その
紙屑籠を出せ。持ってやるから」
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど
嵩張る割に軽いもんだね。見っともないと云うのは小野さんの事だ」と宗近君は屑籠を
揺りながら歩き出す。
「そう云う風に
提げるとさも軽そうだ」
「物は提げ様一つさ。ハハハハ。こりゃ
勧工場で買ったのかい。だいぶ精巧なものだね。紙屑を入れるのはもったいない」
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。本当の紙屑が
這入っていちゃ……」
「なに持って歩けるよ。電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。
滅多な屑は入れられない」
「
歌反古とか、
五車反古と云うようなものを入れちゃ、どうです」
「そんなものは
要らない。
紙幣の反古をたくさん入れて貰いたい」
「ただの反古を入れて置いて、催眠術を掛けて貰う方が早そうだ」
「まず人間の方で先に
反古になる訳だな。乞う
隗より始めよか。人間の反古なら催眠術を掛けなくてもたくさんいる。なぜこう隗より始めたがるのかな」
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども」
「自働屑籠を発明したら好かろう。そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう」
「一つ専売でも取るか」
「アハハハハ好かろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかも知れません」と小野さんは切り抜けた。
「時に君は
昨夕妙な
伴とイルミネーションを見に行ったね」
見物に行った事はさっき露見してしまった。
今更隠す必要はない。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。
甲野さんは見つけても知らぬ顔をしている。藤尾は知らぬ顔をして、しかも是非共こちらから白状させようとする。宗近君は
向から正面に質問してくる。小野さんは何気なく答えながら、心のうちになるほどと思った。
「あれは君の何だい」
「少し猛烈ですね。――
故の先生です」
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄妹と見えますか」
「夫婦さ。好い夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼を
外した。
向側の
硝子戸のなかに金文字入の洋書が
燦爛と詩人の注意を
促がしている。
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。何か買うのかい」
「面白いものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
宗近君は返事をする前に、屑籠を提げたまま、電車の間を向側へ
馳け抜けた。小野さんも
小走に
跟いて来る。
「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の
眼鏡を硝子窓に
擦り寄せて余念なく見取れている。
小羊の皮を柔らかに
鞣して、
木賊色の濃き真中に、
水蓮を細く金に
描いて、
弁の尽くる
萼のあたりから、直なる線を底まで通して、ぐるりと表紙の周囲を
回らしたのがある。背を平らに
截って、深き
紅に金髪を一面に
這わせたような模様がある。堅き
真鍮版に、どっかと
布の目を
潰して、重たき
箔を
楯形に置いたのがある。
素気なきカーフの背を
鈍色に緑に
上下に区切って、双方に文字だけを
鏤めたのがある。ざら目の紙に、
品よく朱の書名を配置した
扉も見える。
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な
装釘だ。どうも」
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから
上部を奇麗にする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね」
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは
情ない」
「とかく眼鏡が
祟るようだ。――宗近君は近視眼じゃないんですか」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「
冗談を云っちゃいけない。――さあ
好加減に歩こう」
二人は肩を
比べてまた歩き出した。
「君、
鵜と云う鳥を知ってるだろう」と宗近君が歩きながら云う。
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は
漁夫の
魚籃の中に
這入るから、いいじゃないですか」
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ
屑籠のなかへ入れてしまう。学者と云うものは本を吐いて暮している。なんにも自分の滋養にゃならない。
得の行くのは屑籠ばかりだ」
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
「
行為さ。本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った
牡丹餅を
画にかいた牡丹餅と間違えておとなしく
眺めているのと同様だ。ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか」
「さよう」と小野さんは
間を延ばして答えたが、
「
例えば」と聞き返した。
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと
昨夜の女ね」
小野さんの
腋の下が何だかじめじめする。
「あれは僕よく知ってるぜ」
琴の事件なら糸子から聞いた。その
外に何も知るはずがない。
「
蔦屋の裏にいたでしょう」と一躍して先へ出てしまった。
「琴を弾いていた」
「なかなか
旨いでしょう」と小野さんは容易に
悄然ない。藤尾に逢った時とは少々様子が違う。
「旨いんだろう、何となく
眠気を催したから」
「ハハハハそれこそアイロニーだ」と小野さんは笑った。小野さんの笑い声はいかなる場合でも静の一字を離れない。その上
色彩がある。
「冷やかすんじゃない。
真面目なところだ。かりそめにも君の恩師の令嬢を馬鹿にしちゃ済まない」
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催おすところが好いんだ。人間でもそうだ。眠気を催おすような人間はどこか
尊といところがある」
「古くって尊といんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊とくない」
「ばかりじゃない。ことに依ると、尊とい人間を時候
後れだなどとけなしたがる」
「今日は何だか攻撃ばかりされている。ここいらで御分れにしましょうか」と小野さんは少し苦しいところを、わざと笑って、立ち留る。同時に右の手を出す。紙屑籠を受取ろうと云う
謎である。
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
二人はまた歩き出す。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩き出す。双方で双方を
軽蔑している。
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙がしい事がありそうには見えませんよ」
「そう忙がしがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構に出来る間は結構にして置かんと、いざと云う時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変らず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙がしいだろう」
「甲野の方は四五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつの事やら」
「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる
甲斐がない」
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」
小野さんは急にどきんとした。何の話か分らない。眼鏡の
縁から、斜めに宗近君を見ると、相変らず、
紙屑籠を
揺って、
揚々と正面を向いて歩いている。
「どんな……」と聞き返した時は何となく
勢がなかった。
「どんなって、よっぽど深い
因縁と見える」
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
小野さんは少し安心した。しかし何だか引っ掛っている。浅かれ深かれ宗近君と
孤堂先生との関係をぷすりと切って棄てたい。しかし自然が結んだものは、いくら能才でも天才でも、どうする訳にも行かない。京の宿屋は何百軒とあるに、何で
蔦屋へ泊り込んだものだろうと思う。泊らんでも済むだろうにと思う。わざわざ三条へ
梶棒を
卸して、わざわざ蔦屋へ泊るのはいらざる事だと思う。
酔興だと思う。余計な
悪戯だと思う。先方に
益もないのに好んで人を苦しめる泊り方だと思う。しかしいくら、どう思っても仕方がないと思う。小野さんは返事をする元気も出なかった。
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ。――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
もの字が少し気になる。春雨の欄に出て、
連翹の花もろともに古い庭を
見下された事は、とくの昔に知っている。今更
引合に出されても驚ろきはしない。しかし二階から
もとなると
剣呑だ。そのほかにまだ見られた事があるにきまっている。不断なら進んで聞くところだが、何となく
空景気を着けるような心持がして、
どこでと押を強く
出損なったまま、二三歩あるく。
「
嵐山へ行くところも見た」
「見ただけですか」
「知らない人に話は出来ない。見ただけさ」
「話して見れば好かったのに」
小野さんは突然
冗談を云う。にわかに景気が好くなった。
「団子を食っているところも見た」
「どこで」
「やっぱり
嵐山だ」
「それっ切りですか」
「まだ有る。京都から東京までいっしょに来た」
「なるほど勘定して見ると同じ汽車でしたね」
「君が
停車場へ迎えに行ったところも見た」
「そうでしたか」と小野さんは苦笑した。
「あの人は東京ものだそうだね」
「誰が……」と云い掛けて、小野さんは、眼鏡の
珠のはずれから、変に相手の横顔を
覗き込んだ。
「誰が? 誰がとは」
「誰が話したんです」
小野さんの調子は存外落ついている。
「宿屋の下女が話した」
「宿屋の下女が?
蔦屋の?」
念を押したような、
後が聞きたいような、後がないのを確かめたいような様子である。
「うん」と宗近君は云った。
「蔦屋の下女は……」
「そっちへ曲るのかい」
「もう少し、どうです、散歩は」
「もう好い加減に引き返そう。さあ大事の紙屑籠。落さないように持って行くがいい」
小野さんは
恭しく屑籠を受取った。宗近君は
飄然として去る。
一人になると急ぎたくなる。急げば早く孤堂先生の
家へ着く。着くのはありがたくない。孤堂先生の家へ急ぎたいのではない。小野さんは何だか急ぎたいのである。両手は
塞っている。足は動いている。恩賜の時計は
胴衣のなかで鳴っている。往来は
賑かである。――すべてのものを忘れて、小野さんの頭は急いでいる。早くしなければならん。しかしどうして早くして好いか分らない。ただ一昼夜が十二時間に縮まって、運命の車が思う方角へ全速力で廻転してくれるよりほかに致し方はない。進んで自然の法則を破るほどな
不料簡は起さぬつもりである。しかし自然の方で、少しは事情を
斟酌して、自分の味方になって働らいてくれても好さそうなものだ。そうなる事は受合だと保証がつけば、
観音様へ御百度を踏んでも構わない。不動様へ
護摩を上げても
宜しい。
耶蘇教の信者には無論なる。小野さんは歩きながら神の必要を感じた。
宗近と云う男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思う事がある。何が出来るものかと
軽蔑む事もある。露骨でいやになる事もある。しかし今更のように考えて見ると、あの態度は自分にはとうてい出来ない態度である。出来ないからこちらが劣っていると結論はせん。世の中には出来もせぬが、またしたくもない事がある。
箸の先で皿を廻す芸当は出来るより出来ない方が上品だと思う。宗近の言語動作は無論自分には出来にくい。しかし出来にくいから、かえって自分の名誉だと今までは心得ていた。あの男の前へ出ると何だか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与えるが専一と思う。宗近は社交の第一要義にも通じておらん。あんな男はただの世の中でも成功は出来ん。外交官の試験に落第するのは当り前である。
しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖して見ようと企てた事はないがとにかく妙である。故意に自分を
圧しつけようとしている
景色が
寸毫も先方に見えないのにこちらは何となく感じてくる。ただ
会釈もなく思うままを随意に振舞っている自然のなかから、どうだと云わぬばかりに圧迫が顔を出す。自分はなんだか気が引ける。あの男に対しては済まぬ裏面の義理もあるから、それが
祟って、徳義が制裁を加えるとのみ思い通して来たがそればかりではけっしてない。
例えば天を
憚からず地を憚からぬ山の、
無頓着に
聳えて、面白からぬと云わんよりは、美くしく思えぬ感じである。星から
墜つる露を、
蕊に受けて、可憐の
弁を、折々は、風の
音信と小川へ流す。自分はこんな景色でなければ楽しいとは思えぬ。要するに宗近と自分とは
檜山と
花圃の
差で、本来から
性が合わぬから妙な感じがするに違ない。
性が合わぬ人を、合わねばそれまでと澄していた事もある。気の毒だと考えた事もある。
情ないと
軽蔑んだ事もある。しかし今日ほど
羨しく感じた事はない。高尚だから、上品だから、自分の理想に近いから、羨ましいとは夢にも思わぬ。ただあんな気分になれたらさぞよかろうと、今の苦しみに
引き
較べて、急に羨ましくなった。
藤尾には
小夜子と自分の関係を云い切ってしまった。あるとは云い切らない。世話になった昔の人に、心細く附き添う
小さき影を、
逢わぬ五年を
霞と隔てて、再び
逢うたばかりの
朦朧した間柄と云い切ってしまった。恩を着るは
情の肌、師に
渥きは
弟子の分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと云い切ってしまった。できるならばと
辛防して来た
嘘はとうとう
吐いてしまった。ようやくの思で吐いた嘘は、嘘でも立てなければならぬ。嘘を
実と
偽わる
料簡はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある、責任が出る。あからさまに云えば嘘に対して一生の利害が伴なって来る。もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は神も
嫌だと聞く。今日からは是非共嘘を実と通用させなければならぬ。
それが何となく苦しい。これから先生の所へ行けばきっと二重の嘘を吐かねばならぬような話を持ちかけられるに違ない。切り抜ける手はいくらもあるが、
手詰に出られると
跳ねつける勇気はない。もう少し冷刻に生れていれば何の
雑作もない。法律上の問題になるような不都合はしておらんつもりだから、
判然断わってしまえばそれまでである。しかしそれでは恩人に済まぬ。恩人から
逼られぬうちに、自分の嘘が発覚せぬうちに、自然が早く廻転して、自分と藤尾が公然結婚するように運ばなければならん。――
後は? 後は後から考える。事実は何よりも有効である。結婚と云う事実が成立すれば、万事はこの新事実を土台にして考え直さなければならん。この新事実を一般から認められれば、あとはどんな不都合な犠牲でもする。どんなにつらい考え直し方でもする。
ただ機一髪と云う
間際で、
煩悶する。どうする事も出来ぬ心が
急く。進むのが
怖い。
退ぞくのが
厭だ。早く事件が発展すればと念じながら、発展するのが不安心である。したがって気楽な宗近が羨ましい。万事を商量するものは一本調子の人を羨ましがる。
春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき
浅黄の幕はふわりふわりと幾枚も空を離れて地の上に
被さってくる。払い
退ける風も見えぬ往来は、夕暮のなすがままに静まり返って、
蒼然たる大地の色は刻々に
蔓って来る。西の
果に用もなく薄焼けていた雲はようやく紫に変った。
蕎麦屋の看板におかめの顔が薄暗く
膨れて、
後から
点ける
灯を今やと赤い頬に待つ
向横町は、二間足らずの狭い往来になる。
黄昏は細長く家と家の間に落ちて、
鎖さぬ
門を戸ごとにくぐる。部屋のなかはなおさら暗いだろう。
曲って左側の三軒目まで来た。門構と云う名はつけられない。往来をわずかに仕切る
格子戸をそろりと明けると、なかは、ほのくらく近づく
宵を、一段と刻んで下へ降りたような心持がする。
「御免」と云う。
静かな声は落ついた春の調子を乱さぬほどに
穏である。幅一尺の
揚板に、
菱形の黒い穴が、
椽の下へ抜けているのを
眺めながら取次をおとなしく待つ。返事はやがてした。
うんと云うのか、
ああと云うのか
はいと云うのか、さらに要領を得ぬ声である。小野さんはやはり菱形の黒い穴を
覗きながら取次を待っている。やがて
障子の
向でずしんと誰か
跳ね起きた様子である。怪しい
普請と見えて
根太の鳴る音が手に取るように聞える。例の壁紙模様の
襖が
開く。二畳の玄関へ出て来たなと思う
間もなく、薄暗い障子の影に、肉の落ちた孤堂先生の顔が
髯もろともに現われた。
平生からあまり丈夫には見えない。骨が細く、
躯が細く、顔はことさら細く出来上ったうえに、取る年は争われぬ雨と風と苦労とを吹きつけて、
辛い浮世に、辛くも取り留めた心さえ細くなるばかりである。今日は
一層顔色が悪い。得意の髯さえも尋常には見えぬ。黒い
隙間を白いのが
埋めて、白い隙間を風が通る。
古の人は
顎の下まで影が薄い。一本ずつ吟味して見ると先生の髯は一本ごとにひょろひょろしている。小野さんは
鄭寧に帽を脱いで、無言のまま
挨拶をする。
英吉利刈の新式な頭は、
眇然たる「過去」の前に落ちた。
径何十尺の円を
描いて、周囲に鉄の格子を
嵌めた箱をいくつとなくさげる。運命の
玩弄児はわれ先にとこの箱へ
這入る。円は廻り出す。この箱にいるものが青空へ近く昇る時、あの箱にいるものは、すべてを吸い尽す大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。
英吉利式の頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細い
髯に、世を
佗び古りた記念のためと、大事に
胡麻塩を振り懸けている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。
片々が一尺昇れば片々は一尺下がるように運命は出来上っている。
昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、
降りつつ夜に行くものの前に
鄭寧な
頭を惜気もなく下げた。これを神の作れるアイロニーと云う。
「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。
「さあ御上り」とたちまち座敷へ取って返す。小野さんは靴の
紐を解く。解き終らぬ先に先生はまた出てくる。
「さあ御上り」
座敷の真中に、昼を
厭わず延べた
床を、壁際へ押しやったあとに、新調の座布団が敷いてある。
「どうか、なさいましたか」
「何だか、今朝から心持が悪くってね。それでも朝のうちは我慢していたが、
午からとうとう寝てしまった。今ちょうどうとうとしていたところへ君が来たので、待たして御気の毒だった」
「いえ、今格子を
開けたばかりです」
「そうかい。何でも誰か来たようだから驚いて出て見た」
「そうですか、それは御邪魔をしました。寝ていらっしゃれば好かったですね」
「なに大した事はないから。――それに小夜も婆さんもいないものだから」
「どこかへ……」
「ちょっと風呂に行った。買物かたがた」
床の抜殻は、こんもり高く、
這い出した穴を障子に向けている。影になった方が、薄暗く夜着の模様を
暈す上に、投げ懸けた羽織の裏が、乏しき
光線をきらきらと
聚める。裏は
鼠の
甲斐絹である。
「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう」と先生は立ち上がる。
「寝ていらしったら好いでしょう」
「いや少し起きて見よう」
「何ですかね」
「
風邪でもないようだが、――なに大した事もあるまい」
「
昨夕御出になったのが悪かったですかね」
「いえ、なに。――時に昨夕は大きに御厄介」
「いいえ」
「小夜も大変喜んで。
御蔭で好い保養をした」
「もう少し
閑だと、方々へ御供をする事が出来るんですが……」
「忙がしいだろうからね。いや忙がしいのは結構だ」
「どうも御気の毒で……」
「いや、そんな心配はちっとも
要らない。君の忙がしいのは、つまり我々の
幸福なんだから」
小野さんは黙った。部屋はしだいに暗くなる。
「時に飯は食ったかね」と先生が聞く。
「ええ」
「食った?――食わなければ御上り。何にもないが茶漬ならあるだろう」とふらふらと立ち
懸ける。締め切った障子に黒い長い影が出来る。
「先生、もう好いんです。飯は済まして来たんです」
「本当かい。遠慮しちゃいかん」
「遠慮しやしません」
黒い影は折れて
故のごとく低くなる。
えがらっぽい咳が二つ三つ出る。
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云い
懸ける
途端にまた二つ三つ込み上げる。小野さんは
憮然として咳の終るを待つ。
「横になって
温まっていらしったら好いでしょう。冷えると毒です」
「いえ、もう大丈夫。出だすと
一時いけないんだがね。――年を取ると意気地がなくなって――何でも若いうちの事だよ」
若いうちの事だとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が始めてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、
疎らな
髯を
風塵に託して、
残喘に一昔と二昔を、
互違に呼吸する口から聞いたのは、少なくとも今が始めてである。
子の鐘は
陰に響いてぼうんと鳴る。薄暗い部屋のなかで、薄暗い人からこの言葉を聞いた小野さんは、つくづく若いうちの事だと思った。若いうちは二度とないと思った。若いうち
旨くやらないと
生涯の損だと思った。
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めて
淋しかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで
寝醒が悪いのは、損をした昔を思い出すより
欝陶しいかも知れぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちにきめた事は生涯きまってしまう。生涯きまってしまう事を、自分は今どっちかにきめなければならぬ。今日藤尾に逢う前に先生の所へ来たら、あの嘘を当分見合せたかも知れぬ。しかし嘘を
吐いてしまった今となって見ると致し方はない。将来の運命は藤尾に任せたと云って
差し
支ない。――小野さんは心中でこう云う言訳をした。
「東京は変ったね」と先生が云う。
「
烈しい所で、毎日変っています」
「恐ろしいくらいだ。
昨夜もだいぶ驚いたよ」
「随分人が出ましたから」
「出たねえ。あれでも知った人には
滅多に
逢わないだろうね」
「そうですね」と
瞹眛に受ける。
「逢うかね」
小野さんは「まあ……」と濁しかけたが「まあ、逢わない方ですね」と思い切ってしまった。
「逢わない。なるほど広い所に違ない」と先生は大いに感心している。なんだか
田舎染みて見える。小野さんは
光沢の悪い先生の顔から眼を放して、自分の膝元を眺めた。カフスは真白である。
七宝の
夫婦釦は
滑な
淡紅色を緑の上に浮かして、
華奢な金縁のなかに暖かく包まれている。
背広の地は
品の好い
英吉利織である。自己をまのあたりに物色した時、小野さんは自己の住むべき世界を卒然と自覚した。先生に釣り込まれそうな
際どいところで急に忘れ物を思い出したような気分になる。先生には無論分らぬ。
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも
可懐げに話しかける。
「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から
継ぎ足したように一句を付け添えた。小野さんは
早速の返事を忘れて、暗い部屋のなかに
竦るような気がした。
「さっき御嬢さんが
御出でした」と仕方がないから渡し込む。
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく
出掛けだったものですから」
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い
淀む。先生は追窮しない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と
漠々たる
挨拶をした。挨拶が漠々たると共に、部屋のなかも
朦朧と
取締がなくなって来る。今宵は月だ。月だが、まだ
間がある。のに日は落ちた。
床は一間を申訳のために濃い
藍の砂壁に塗り立てた奥には、先生が秘蔵の
義董の
幅が掛かっていた。唐代の
衣冠に
蹣跚の
履を危うく踏んで、だらしなく腕に巻きつけた長い袖を、童子の肩に
凭した酔態は、この家の
淋しさに似ず、
春王の四月に
叶う楽天家である。仰せのごとく額をかくす
冠の、黒い色が著るしく目についたのは今先の事であったに、ふと見ると、
纓か飾か、紋切形に左右に流す幅広の絹さえ、ぼんやりと近づく
宵を迎えて、来る夜に
紛れ込もうとする。先生も自分もぐずぐずすると一つ穴へはまって、影のように消えて行きそうだ。
「先生、
御頼の
洋灯の台を買って来ました」
「それはありがたい。どれ」
小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と
屑籠を持ってくる。
「はあ――何だか暗くってよく見えない。
灯火を
点けてから
緩くり拝見しよう」
「私が
点けましょう。
洋灯はどこにありますか」
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
薄暗い影が一つ立って、
障子をすうと明ける。残る影はひそかに手を
拱いて動かぬほどを、夜は
襲って来る。六畳の座敷は
淋しい人を陰気に封じ込めた。ごほんごほんと咳をせく。
やがて
椽の片隅で
擦る
燐寸の音と共に、咳はやんだ。明るいものは
室のなかに動いて来る。小野さんは
洋袴の膝を折って、
五分心を新らしい台の上に
載せる。
「ちょうどよく合うね。
据りがいい。
紫檀かい」
「
模擬でしょう」
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が
遥かに好いようだ」
二三年前と違って、先生は
些額の恩給とわずかな貯蓄から上がる利子とで生活して行かねばならぬ。小野さんの世話をした時とはだいぶ違う。事に依れば小野さんの方から幾分か
貢いで貰いたいようにも見える。小野さんは
畏まって控えている。
「なに小夜さえなければ、京都にいても
差し
支ないんだが、若い娘を持つとなかなか心配なもので……」と途中でちょっと休んで見せる。小野さんは畏まったまま応じなかった。
「
私などはどこの
果で死のうが同じ事だが、後に残った小夜がたった一人で
可哀想だからこの年になって、わざわざ東京まで出掛けて来たのさ。――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。知合も
交際もない。まるで他国と同様だ。それに来て見ると、砂が立つ、
埃が立つ。
雑沓はする、
物価は
貴し、けっして住み好いとは思わない。……」
「住み好い所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二三軒はあったんだが、長い間
音信不通にしていたものだから、今では居所も分らない。不断はさほどにも思わないが、こうやって、半日でも寝ると考えるね。何となく心細い」
「なるほど」
「まあ御前が
傍にいてくれるのが何よりの
依頼だ」
「御役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。
忙しいところを……」
「論文の方がないと、まだ
閑なんですが」
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
いつ出すのか分らなかった。早く出さなければならないと思う。こんな引っ掛りがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と云う。
先生は
襦袢の
袖から手を抜いて、素肌の
懐に
肘まで収めたまま、二三度肩をゆすって
「どうも、ぞくぞくする」と細長い
髯を
襟のなかに
埋めた。
「
御寝みなさい。起きていらっしゃると毒ですから。私はもう
御暇をします」
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ
私の方で
御免蒙って寝る。それにまだ話も残っているから」
先生は急に胸の中から、手を出して
膝の上へ乗せて、双方を一度に打った。
「まあ
緩くりするが好い。今暮れたばかりだ」
迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の
可懐味や、
一夕の
無聊ではない。よくよく行く先が案じられて、亡き後の安心を
片時も早く、脈の打つ手に握りたいからであろう。
実は
夕食もまだ食わない。いれば耳を傾けたくない話が出る。腰だけはとうから宙に浮いている。しかし先生の様子を見ると無理に
洋袴の膝を
伸す訳にもいかない。老人は病を
力めて、わがために強いて元気をつけている。親しみやすき
蒲団は片寄せられて、穴ばかりになった。
温気は昔の事である。
「時に小夜の事だがね」と先生は
洋灯の
灯を見ながら云う。
五分心を
蒲鉾形に
点る
火屋のなかは、
壺に
充る油を、物言わず吸い上げて、穏かな
の舌が、暮れたばかりの春を、動かず守る。人
佗て
淋しき
宵を、ただ一点の
明きに
償う。
燈灯は
希望の影を招く。
「時に小夜の事だがね。知っての通りああ云う内気な
性質ではあるし、今の女学生のようにハイカラな教育もないからとうてい気にもいるまいが、……」まで来て先生は洋灯から眼を放した。眼は小野さんの方に向う。何とか取り合わなければならない。
「いいえ――どうして――」と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔から
眸を動かさない。その上口を
開かずに何だか待っている。
「気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに
納得した先生は先へ進む。
「あれも
不憫だからね」
小野さんは、そうだとも、そうでないとも云わなかった。手は
膝の上にある。眼は手の上にある。
「
私がこうして、どうかこうかしているうちは好い。好いがこの通りの身体だから、いつ
何時どんな事がないとも限らない。その時が困る。
兼ての約束はあるし、御前も約束を
反故にするような軽薄な男ではないから、小夜の事は私がいない
後でも世話はしてくれるだろうが……」
「そりゃ
勿論です」と云わなければならない。
「そこは私も安心している。しかし女は気の狭いものでね。アハハハハ困るよ」
何だか無理に笑ったように聞える。先生の顔は笑ったためにいよいよ
淋しくなった。
「そんなに御心配なさる事も
要らんでしょう」と
覚束なく云う。言葉の腰がふらふらしている。
「私はいいが、小夜がさ」
小野さんは右の手で洋服の膝を
摩り始めた。しばらくは二人とも無言である。心なき
灯火が双方を
半分ずつ照らす。
「御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない」
「そうでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが
判然していれば待っても好いさ。小夜にも私からよく話して置く。しかしただ少しでは困る。いくら親でも子に対して幾分か責任があるから。――少しって云うのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい」
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。
大体」
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「
来々月はどうだね」
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ
馬鹿気ている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮せる」
小野さんはまた返事のしようがなかった。
東京は
物価が高いと云いながら、東京と京都の区別を知らない。
鳴海絞の
兵児帯を締めて
芋粥に寒さを
凌いだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を
衣帽の末に払わねばならぬ今の境遇とを比較する事を知らない。書物は学者に取って命から二代目である。
按摩の杖と同じく、無くっては世渡りが出来ぬほどに大切な道具である。その書物は机の上へ
湧いてでも出る事か、中には人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで
一切空である。したがって、おいそれと簡単な返事が出来ない。
小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を
伸して
洋灯の
心をぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ廻転したように、一度は明るくなる。先生の世界観が
瞬と共に変るように明るくなる。小野さんはまだ
螺旋から手を放さない。
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで
覗いて見る。やがて
背広の
表隠袋から、真白な
手巾を
撮み出して丁寧に
指頭の油を拭き取った。
「少し
灯が曲っているから……」と小野さんは拭き取った指頭を鼻の先へ持って来てふんふんと二三度
嗅いだ。
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生は
股の開いた灯を見ながら云う。
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん
御手数を掛けて……」
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん
慣れてくる様子だから」
「そうですか、そりゃ好い
按排でした。実はどうかと思って心配していたんですが。その代り人間はたしかだそうです。浅井が受合って行ったんですから」
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことに
因ると今日くらいの汽車で帰って来るかも知れません」
「
一昨かの手紙には、二三日中に帰るとあったよ」
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんは
捩じ上げた
五分心の頭を無心に
眺めている。浅井の帰京と五分心の関係を
見極めんと思索するごとくに
眸子は一点に集った。
「先生」と云う。顔は先生の方へ向け
易えた。例になく口の
角にいささかの決心を
齎している。
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が
判然さえすれば安心して待っている。じゃ小夜にもそう話して置こう」
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、
夜の針は
疾く回るらしい。
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」
「それでは――
御疎怱であった」
小野さんはすっきりと立つ。先生は
洋灯を
執る。
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええ
穏な晩です」と小野さんは靴の
紐を締めつつ
格子から往来を見る。
「京都はなお穏だよ」
屈んでいた小野さんはようやく
沓脱に立った。格子が
明く。
華奢な
体躯が半分ばかり往来へ出る。
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
小野さんは
恭しく帽子を脱ぐ。先生の影は洋灯と共に消えた。
外は
朧である。
半ば世を照らし、半ば世を
鎖す光が空に
懸る。空は高きがごとく低きがごとく
据らぬ腰を、
更けぬ
宵に浮かしている。懸るものはなおさらふわふわする。丸い
縁に黄を帯びた輪をぼんやり
膨らまして輪廓も
確でない。黄な帯は
外囲に近く色を失って、黒ずんだ
藍のなかに
煮染出す。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地に
紛れやすい晩である。
小野さんの靴は、
湿っぽい光を
憚かるごとく、地に落す
踵を
洋袴の
裾に隠して、
小路を
蕎麦屋の
行灯まで抜け出して左へ折れた。往来は人の
香がする。地に
く影は長くはない。丸まって動いて来る。こんもりと
揺れて去る。下駄の音は
朧に包まれて、
霜のようには
冴えぬ。
撫でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかす
眸を不審と
据えると白墨の
相々傘が
映る。それほどの浅い夜を、昼から引っ越して来た
霞が立て
籠める。行く人も来る人も何となく要領を得ぬ。逃れば
靄のなか、
出れば月の世界である。小野さんは夢のように
歩を移して来た。
々として
独り行くと云う句に似ている。
実は
夕食もまだ食わない。いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む
料簡で、得意な
襞の正しい洋袴を、誇り顔に運ぶはずである。
今宵はいつまで立っても腹も減らない。
牛乳さえ飲む気にならん。陽気は暖か過ぎる。胃は重い。引く足は千鳥にはならんが、
確と
踏答えがないような心持である。そと
卸すせいかも知れぬ。さればとて、こつりと大地へ当てる気にはならん。巡査のようにあるけたなら世に朧は
要らぬ。次に心配は要らぬ。巡査だから、ああも歩ける。小野さんには――ことに今夜の小野さんには――巡査の真似は出来ない。
なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から
衣服の着こなし方に至って、ことごとく
粋を尽くしていると自信している。ただ気が弱い。気が弱いために損をする。損をするだけならいいが
乗っ
引きならぬ
羽目に
陥る。水に
溺れるものは水を
蹴ると何かの本にあった。背に腹は替えられぬ今の場合、と
諦めて蹴ってしまえばそれまでである。が……
女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。
吾妻下駄と駒下駄の音が調子を
揃えて
生温く宵を刻んで
寛なるなかに、話し声は聞える。
「
洋灯の台を買って来て下さったでしょうか」と一人が云う。「そうさね」と一人が
応える。「今頃は来ていらっしゃるかも知れませんよ」と前の声がまた云う。「どうだか」と
後の声がまた
応える。「でも買って行くとおっしゃったんでしょう」と押す。「ああ。――何だか
暖か過ぎる晩だこと」と逃げる。「御湯のせいでござんすよ。薬湯は
温まりますから」と説明する。
二人の話はここで小野さんの
向側を通り越した。見送ると並ぶ軒下から頭の影だけが
斜に出て、蕎麦屋の方へ動いて行く。しばらく首を
捩じ向けて、立ち留っていた小野さんは、また歩き出した。
浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。
宗近のような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。
甲野なら超然として
板挟みになっているかも知れぬ。しかし自分には出来ない。
向へ行って一歩深く
陥り、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情に
絡んで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、
後から
被せた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果に
陥るだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手を
拱いて、自然の
為すがままにして置いたら、事件はどう発展するか分らない。想像すると
怖しくなる。人情に屈託していればいるほど、怖しい発展を、
眼のあたりに見るようになるかもしれぬ。是非ここで、どうかせねばならん。しかし、まだ二三日の余裕はある。二三日よく考えた上で決断しても遅くはない。二三日立って
善い
智慧が出なければ、その時こそ仕方がない。浅井を
捕えて、孤堂先生への談判を頼んでしまう。実はさっきもその考で、浅井の帰りを勘定に入れて、二三日の猶予をと云った。こんな事は人情に
拘泥しない浅井に限る。自分のような情に
篤いものはとうてい断わり切れない。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
月はまだ
天のなかにいる。流れんとして流るる
気色も見えぬ。地に落つる光は、
冴ゆる暇なきを、重たき
温気に封じ込められて、限りなき大夢を半空に
曳く。乏しい星は雲を
潜って
向側へ抜けそうに見える。綿のなかに砲弾を打ち込んだのが
辛うじて輝やくようだ。静かに重い宵である。小野さんはこのなかを考えながら歩いて行く。今夜は半鐘も鳴るまい。
十五
部屋は南を向く。
仏蘭西式の窓は
床を去る事五寸にして、すぐ
硝子となる。
明け放てば日が
這入る。
温かい風が這入る。日は
椅子の足で留まる。風は留まる事を知らぬ故、容赦なく
天井まで吹く。窓掛の裏まで渡る。からりとして朗らかな書斎になる。
仏蘭西窓を右に避けて一脚の机を
据える。
蒲鉾形に引戸を
卸せば、上から
錠がかかる。明ければ、緑の
羅紗を張り詰めた真中を、斜めに低く手元へ
削って、背を平らかに、書を開くべき
便宜とする。下は左右を銀金具の
抽出に畳み卸してその四つ目が床に着く。床は
樟の木の
寄木に
仮漆を掛けて、礼に
叶わぬ靴の裏を、ともすれば危からしめんと、てらてらする。
そのほかに
洋卓がある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った
今様を
華奢な昔に忍ばして、
室の真中を占領している。
周囲に並ぶ四脚の椅子は無論
同式の
構造である。
繻子の模様も
対とは思うが、
日除の
白蔽に、卸す腰も、
凭れる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。
書棚は壁に片寄せて、
間の高さを九尺
列ねて戸口まで続く。組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が
西洋から取り寄せたものである。いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘わすなかに花文字の、
角文字の金は、縦にも横にも奇麗である。
小野さんは
欽吾の書斎を見るたびに
羨しいと思わぬ事はない。欽吾も無論
嫌ってはおらぬ。もとは父の居間であった。仕切りの戸を一つ明けると
直応接間へ抜ける。残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。洋風の二間は、父が
手狭な
住居を、二十世紀に取り
拡げた便利の結果である。趣味に
叶うと云わんよりは、むしろ実用に
逼られて、時好の程度に
己れを
委却した建築である。さほどに
嬉しい部屋ではない。けれども小野さんは非常に羨ましがっている。
こう云う書斎に
這入って、好きな書物を、好きな時に読んで、
厭きた時分に、好きな人と好きな話をしたら
極楽だろうと思う。博士論文はすぐ書いて見せる。博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述をして見せる。定めて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭を
攪き廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に
這入りたくてたまらない。
高等学校こそ違え、大学では
甲野さんも小野さんも同年であった。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。ただ「哲世界と実世界」と云う論文を出して卒業したと聞くばかりである。「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分るはずがないが、とにかく甲野さんは時計をちょうだいしておらん。自分はちょうだいしておる。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の
善悪をも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典に
洩れた甲野さんは大した人間ではないにきまっている。その上卒業してからこれと云う研究もしないようだ。深い考を内に
蓄えているかも知れぬが、蓄えているならもう出すはずである。出さぬは蓄がない証拠と見て
差支ない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。その有益な材を抱いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手を
拱いて、
徒然の日を退屈そうに暮らしている。この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。自分が甲野の身分でこの部屋の
主人となる事が出来るなら、この二年の間に相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、
驥も
櫪に伏す天の不公平を、やむを得ず、
今日まで忍んで来た。一陽は
幸なき人の上にも
来り
復ると聞く。願くは願くはと小野さんは日頃に念じていた。――知らぬ甲野さんはぽつ
然として机に向っている。
正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い
芝生を一目に見渡すのみか、
朗な気が地つづきを、すぐ部屋のなかに這入るものを、甲野さんは締め切ったまま、ひそりと立て
籠っている。
右手の小窓は、
硝子を
下した上に、左右から垂れかかる窓掛に
半ば
蔽われている。通う
光線は
幽かに
床の上に落つる。窓掛は
海老茶の毛織に浮出しの花模様を
埃のままに、二十日ほどは動いた事がないようである。色もだいぶ
褪めた。部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然として立派に通用する。窓掛の
隙間から硝子へ顔を
圧しつけて、外を
覗くと
扇骨木の
植込を通して池が見える。
棒縞の間から横へ抜けた波模様のように、途切れ途切れに見える。池の
筋向が
藤尾の座敷になる。甲野さんは植込も見ず、池も見ず、芝生も見ず、机に
凭ってじっとしている。
焚き残された去年の石炭が、煖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずる
体である。
やがて、かたりと書物を置き
易える音がする。甲野さんは
手垢の着いた、例の日記帳を取り出して、
誌け始める。
「多くの人は
吾に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。
曰く。命に服せざれば汝を
嫉まんと」
細字に書き終った甲野さんは、その
後に
片仮名でレオパルジと入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物を再び
故の座に直して、静かに読み始める。細い青貝の軸を着けた
洋筆がころころと机を
滑って
床に落ちた。ぽたりと黒いものが足の下に出来る。甲野さんは両手を机の
角に突張って、心持腰を
後へ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。
手捜に取り上げた
洋筆軸は父が西洋から買って来てくれた
昔土産である。
甲野さんは、指先に軸を
撮んだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らして
掌のなかに落し込む。掌の
向を上下に
易えると、長い軸は、ころころと前へ行き
後ろへ戻る。動くたびにきらきら光る。小さい
記念である。
洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。
頁をはぐるとこんな事が、かいてある。
「剣客の剣を舞わすに、力
相若くときは剣術は無術と同じ。彼、これを
一籌の末に制する事
能わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を
欺くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の
譎詐に富むとき、
二人の位地は、誠実をもって相対すると
毫も異なるところなきに至る。この故に
偽と
悪とは
優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、
不足偽、不足悪に
出会するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事
難しとす。第三の場合は
固より
稀なり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において
匹敵するをもって常態とすればなり。人
相賊してついに達する
能わず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に
到り得べきを思えば、悲しむべし」
甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の
洋筆軸を、ぽとりと
墨壺の底に落す。落したまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。レオパルジは開いたまま、黄な表紙の日記を
頁の上に載せる。両足を
踏張って、組み合せた手を、
頸根にうんと椅子の背に
凭れかかる。
仰向く途端に父の半身画と顔を見合わした。
余り大きくはない。半身とは云え
胴衣の
釦が二つ見えるだけである。服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかに
洩るる
白襯衣の色と、額の広い顔だけである。
名のある人の筆になると云う。三年
前帰朝の節、父はこの一面を携えて、
遥かなる海を横浜の
埠頭に
上った。それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間に
懸っている。仰がぬ時も壁間から欽吾を
見下している。筆を
執るときも、
頬杖を突くときも、
仮寝の頭を机に支うるときも――絶えず見下している。欽吾がいない時ですら、
画布の人は、常に書斎を見下している。
見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せに
錬り上げた眼玉ではない。
一刷毛に輪廓を
描いて、眉と
睫の間に自然の影が出来る。
下瞼の
垂味が見える。取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。その中に
瞳が
活きている。動かないでしかも活きている
刹那の表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を
早速に捕えた非凡の
技と云わねばならぬ。甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。
想界に
一瀾を点ずれば、千瀾追うて至る。
瀾々相擁して思索の
郷に、吾を忘るるとき、
懊悩の
頭を上げて、この眼にはたりと
逢えば、あっ、
在ったなと思う。ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりも
烈しくおやいたなと驚ろいた。
思出の種に、
亡き人を忍ぶ
片身とは、思い出す
便を与えながら、亡き人を
故に返さぬ
無惨なものである。肌に離さぬ数糸の髪を、
懐いては、泣いては、月日はただ先へと
廻るのみの浮世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのが
厭になった。離れても別状がないと落つきの根城を
据えて、
咫尺に
慈顔を
髣髴するは、離れたる親を、記憶の紙に
炙り出すのみか、
逢える日を春に待てとの
占にもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ眼玉だけである。それすら活きているのみで
毫も動かない。――甲野さんは
茫然として、眼玉を
眺めながら考えている。
親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。
髭もまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病に
罹って
頓死してしまった。……
活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは
椅子に
倚り掛ったまま、壁の上を見詰めている。二人の眼は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うの
眸が何となく働らいて来た。
睛を
閑所に転ずる
気紛の働ではない。打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんに
逼って来る。甲野さんはおやと、首を
動した。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。いつの
間にやら、眼のなかへ引き返したと見える。一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。
馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。
身体が衰弱したせいか、
頭脳の具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい
親父に似ているだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れと
逼られるようなものだ。うるさいのみか不快になる。
それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを
貪るだけで、頭はほかの国に、母も
妹も忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、
踵を上げる事を
解し得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。自分は自分にすべてを
棄てる覚悟があるにもせよ、この
体たらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて
不肖の子と思うだろう。不肖の子は親父の事を思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……
十人は十人の
因果を持つ。
羹に
懲りて
膾を吹くは、
株を守って兎を待つと、等しく一様の
大律に支配せらる。白日天に
中して万戸に午砲の
飯を
炊ぐとき、
蹠下の民は
褥裏に
夜半太平の
計熟す。甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と
藤尾は日本間の方で小声に話している。
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った
節糸の
袷は存外
地味な代りに、長く明けた
袖の
後から
紅絹の裏が
婀娜な色を
一筋なまめかす。帯に
代赭の
古代模様が見える。織物の名は分らぬ。
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ
縞物を、年相応に着こなして、腹合せの黒だけが目に着くほどに締めている。
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。
座布団の
縁を
捲って、
「おや、
煙管はどうしたろう」と云う。
煙管は火鉢の向う側にある。長い
羅宇を、
逆に、親指の
股に挟んで
「はい」と手取形の
鉄瓶の上から渡す。
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば
御廃しかい」と母は皮肉に云い切ったまま、下を向いて、
雁首へ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は
黄金である。
五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口を
開いた。
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ
私が話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」
「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、
初手からこうしないでもほかにいくらも
遣口はあらあね」
「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話も何も
要りゃしないんだが。どうも表向
家の相続人だから、あの人がうんと云ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」
「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」
「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促する訳にも行かないでしょう」
「なにくれるものなら、催促して
貰ったって、構わないんだが――ただ
世間体がわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出し
悪いよ」
「だから、話したら
好いじゃありませんか」
「何を」
「何をって、あの事を」
「小野さんの事かい」
「ええ」と藤尾は
明暸に答えた。
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、
御母さんの口から、御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね」
「だって
向で世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ
御母さんをどうするつもりなんです」
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
母は黙っている。
「この間金時計を
宗近にやれって云った時でも……」
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。
一さんに上げるとは云わなかったわ」
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て
御貰いなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の
方を見る。夕暮を促がすとのみ眺められた
浅葱桜は、ことごとく
梢を辞して、光る茶色の
嫩葉さえ吹き出している。左に茂る三四本の
扇骨木の丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝を
伸した桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を
真向に見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい
片頬をむずつかせた。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に
自然と消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の
阿爺に逢って、よく
理由は話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」
「それは覚えていますけれども、何だか
判然しないようだったから」
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が
厭だと申しますから、
平に御断わり申しますとは云えないからね」
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから
露骨でも構わないと
御思かも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱり
蓋も
味もあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を
貰うと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息に
下して来る。ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、
欽吾があのまま押し通す
料簡なら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。すると
一さんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ
癇癪の八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。
「貰うなら、貰うで、
糸子でも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と
地烈太そうに云い切った後で
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、
彼男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を
差上ましょうと約束したって大丈夫だよ」
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の
御叔父はたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり
同じですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「
一昨日、
一昨々日の晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると
謎が通じなかったかも知れないね」とさも
歯痒そうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
母は立ち上がった。
椽側へ出た足を
一歩後へ返して、小声に
「御前、一に
逢うだろう」と
屈ながら云う。
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。
明日だったかね」
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
母は書斎に向う。
からりとした
椽を通り越して、奇麗な
木理を一面に
研ぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。
円鈕を前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を
寄木の
床に落した時、
釘舌のかちゃりと
跳ね返る音がする。窓掛に春を
遮ぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の
洋卓まで来て立ち留まる。
椅子の背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い
片髭が上唇を沿うて、
自然と下りて来て、尽んとする
角から、急に
捲き返す。口は結んでいる。同時に黒い
眸は眼尻まで
擦って来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と
緩聞いた。
「どうでも――
母さんはどうでも構わないが、ただ御前が
欝陶しいだろうと思ってさ」
無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。
促がされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰を
卸した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と
生返事をした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の
外踝を乗せる。母の眼からは、ただ
裄の縮んだ卵色の
襯衣の袖が正面に見える。
「
身体を丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」
句の切れぬうちに、甲野さんは自分の
顎を
咽喉へ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、
他人の事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い
襞が左右に切れる間から、
扇骨木の若葉が燃えるように
硝子に
映る。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、
廓っとして、書斎より心持が好いから。たまには、
一のようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
甲野さんは
眩しそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変
奇麗に
芽を吹きましたね」
「見事だね。かえって
生じいな花よりも、
好ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。
向へ廻ると刈り込んだのが
丸く
揃って、そりゃ奇麗」
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の
緋鯉が、まことによく
跳るんで……ここから聞えますかい」
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。
母さんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て
稽古をする時分だろう。――何か用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に
障る事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」
甲野さんは腕組のまま、じっと、深い
瞳を母の上に
据えた。母の眼はなぜか
洋卓の上に落ちている。
「世話はする気です」と
徐かに云う。
「御前がそう云ってくれると
私もまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は
後を待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子に
倚る背を前に、胸を
洋卓の
角へ着けるほど母に近づいた。
「ですが、
母さん。藤尾の方では世話になる気がありません」
「そんな事が」と今度は母の方が
身体を椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かに
繋げて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を
逼らして、
「
藤尾も実は
可哀想だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんは
肘を立てて、手の平で
額を抑えた。
「だって
見縊られているんだから、世話を焼けば
喧嘩になるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と
打ち
消はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一
私が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を
眺めている。
「もし不都合があったら、私から
篤と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで
気不味い事があっちゃあ面白くないから」
額に加えた五本の指は、節長に
細りして、爪の形さえ女のように
華奢に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて
四になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも
聟とも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
右の
眉はやはり手の下に隠れている。眼の
光は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、
母さんが困るからね」
甲野さんは手の甲の影で
片頬に笑った。
淋しい笑である。
「
身体が悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。
洋卓の上には一枚の
罫紙に鉛筆が添えて
載せてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。読み掛けて気がついた。
昨日読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた
紙片である。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を
執って紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」
烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
鳥と云う字が
鴃の字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
云い終った母は
悄然として下を向いた。同時に
忰の紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なって
鱗の紋になる。
「
母かさん。
家は藤尾にやりますよ」
「それじゃ御前……」と
打ち
消にかかる。
「財産も藤尾にやります。
私は何にもいらない」
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。
母子はちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ
阿父さんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と
飴色に塗った鉛筆を洋卓の上にはたりと
放り出した。
「どうすれば好いか、どうせ
母さんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
「
厭なんですか」
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「
私も無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は
始終云ってるじゃないか」
「御礼は始終聞いています」
母は転がった鉛筆を取り上げて、
尖った先を見た。丸い
護謨の尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと
洋卓の上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあっても
家を
襲ぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、
母かさんの世話はしてくれないんだね」
甲野さんは返事をする前に、
眸を長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と
慇懃に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と
緩くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと眼を
凝らして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「
母かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて
瞬を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「
一かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――
父さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか
父さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を
傾げた。
「父さんの金時計です。
柘榴石の着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「
一はまだ
当にしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が
預っているから、
私から、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事を
重に云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に
逆うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで
覚がないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を
襲がなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が
母かさんの云う事を聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の
料簡を間違えて取っておくれだと困るが――
母さんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに
奇麗なつもりだがね。そうは見えないか知ら」
「見えます」と甲野さんが云った。
極めて
真面目な調子である。母にさえ
嘲弄の意味には受取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、
後が困るんでね」
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。
叮嚀で、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」
「そんなら好いです」
「そう
素気なく云わずと、何か
考があるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」
しばらく
罫紙の上の
楽書を見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。
「宗近の方が小野より
母さんを大事にします」
「そりゃ」とたちまち出る。
後から静かに云う。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には
行かないもんだからね」
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃ
私も知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」
「呼びましょう」
母は立った。
薄紅色に深く
唐草を散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く
電鈴を、白きただ中に押すと、座に返るほどなきに
応がある。入口の戸が五寸ばかりそっと
明く、ところを振り返った母が
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
母と子は
洋卓を隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。
三つ
鱗の
周囲に
擦れ擦れの大きさに
円を
描く。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本
叮嚀に並行させて行く。母は所在なさに、
忰の図案を
慇懃に
眺めている。
二人の心は無論わからぬ。ただ
上部だけはいかにも静である。もし
手足の挙止が、内面の消息を
形而下に運び
来る記号となり得るならば、この二人ほどに
長閑な
母子は容易に見出し得まい。退屈の刻を、
数十の線に
劃して、行儀よく三つ鱗の
外部を塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなる
円の中を、
端然と打ち守る母とは、
咸雍の母子である。
和怡の母子である。
挟さむ洋卓に、
遮らるる胸と胸を
対い合せて、春
鎖す窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。
亡き人の肖像は例に
因って、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
丹念に引く線はようやく
繁くなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る
弓形の一ヵ所となった時、がちゃりと
釘舌を
捩る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線の
半ばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
「
炙り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰を
卸す。卸し終った時、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
藤尾は再び母の方を見た。見ると共に
薄笑の影が
奇麗な頬にさす。兄はやっと口を切る。
「藤尾、この
家と、
私が
父さんから受け
襲いだ財産はみんな御前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代り、
母さんの世話は御前がしなければいけない」
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても
厭か」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
藤尾は
屹となる。
「それを聞いて何になさる」と
椅子の上に背を
伸して云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも
軽蔑したように落す。母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんより
一の方がよかろうと云う話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と
閑静に云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの
価値は分りません。けっして分りません。一さんを
賞める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
云い
棄てて紫の
絹は戸口の方へ
揺いた。
繊い手に
円鈕をぐるりと回すや
否や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。
十六
叙述の筆は
甲野の書斎を去って、
宗近の家庭に入る。同日である。また同刻である。
相変らずの
唐机を控えて、宗近の
父さんが
鬼更紗の
座蒲団の上に坐っている。
襯衣を嫌った、
黒八丈の
襦袢の
襟が
崩れて、素肌に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。
忌部焼の
布袋の置物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の
煙草盆を置く。
呉祥瑞の銘のある
染付には山がある、柳がある、人物がいる。人物と山と同じくらいな大きさに
描かれている間を、一筋の
金泥が
蜿蜒と
縁まで
這上る。形は
甕のごとく、
鉢が開いて、開いた
頂が、がっくりと縮まると、丸い
縁になる。向い合せの耳を
潜る
蔓には、ぎりぎりと
渋を帯びた
籐を巻きつけて
手提の便を計る。
宗近の
父さんは
昨日どこの古道具屋からか、
継のあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
ところへ入口の
唐紙をさらりと開けて、宗近君が例のごとく
活溌に
這入って来る。父は煙草盆から眼を離した。見ると
忰は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの
靴足袋だけに、大なる
通をきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「
家にいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか
酒甕のようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
老人は
蔓を持って、ぐっと祥瑞を宙に釣るし上げた。
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は
贋の多いもんで容易には買えない」
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。
滅多な事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く
堀出だ」
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき
万両と植え替えた。それは
薩摩の
鉢で古いものだ」
「十六世紀頃の
葡萄耳人が被った帽子のような
恰好ですね。――この
薔薇はまた大変赤いもんだな、こりゃあ」
「それは
仏見笑と云ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
「
華厳経に
外面如菩薩、
内心如夜叉と云う句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変
刺がある。
触って御覧」
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は
雁首の先で
祥瑞の中を
穿り廻す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を
眺めている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「
一あの花を見た事があるかい。あの
床に
挿してある」
老人はいながら、顔の向を
後へ変える。
捩れた
頸に、行き所を失った肉が、三筋ほど
括られて肩の方へ
競り出して来る。
茶がかった
平床には、釣竿を
担いだ
蜆子和尚を
一筆に
描いた
軸を閑静に掛けて、前に青銅の
古瓶を
据える。鶴ほどに長い頸の中から、すいと出る
二茎に、十字と四方に囲う葉を境に、
数珠に
貫く露の
珠が
二穂ずつ
偶を作って咲いている。
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の
二人静だ」
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか
因果のある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に
幾通あるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また
煙管の雁首で灰の中を
掻き廻す。宗近君はこの機に乗じて話頭を転換した。
「
阿爺さん。今日ね、久しぶりに
髪結床へ行って、頭を刈って来ました」と右の手で黒いところを
撫で廻す。
「頭を」と云いながら
羅宇の中ほどを
祥瑞の
縁でとんと
叩いて灰を落す。
「あんまり
奇麗にもならんじゃないか」と
真向に帰ってから云う。
「奇麗にもならんじゃないかって、
阿爺さん、こりゃ
五分刈じゃないですぜ」
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。
廃せばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも
拵えてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は
今日限御返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ
廃すがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ
御廃しなさい」
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、
身体に合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は
呑気過ぎていかんよ」
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。
英吉利か、
仏蘭西か」
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、
故の
通の五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような
不作法ものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を
二た
通り
拵えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「
不作法な裏と、奇麗な表と。
厄介でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が
烈しいから
上部を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら
八つ
裂の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の
睾丸をつけたような
奴ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそ
廃にするか。うちにいて
親父の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに
英吉利人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも
我流で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに
賞めるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を
伸すと
更紗の
結襟が
白襟の
真中まで浮き出して
結目は横に
捩れている。
「どうも、この
襟飾は
滑っていけない」と
手探に位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を
卸す
機会に、
準胡坐の姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は
私が大事に預かってやる」
「
私もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「
藤尾かい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の
親父が生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が
玩弄にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は
肝心の本人の事だが――この間甲野の
母さんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって
御出でないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。
滔々と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
多少
苦々しい
気色に、
煙管でとんと
膝頭を
敲いた
父さんは、視線さえ
椽側の方へ移した。最前植え
易えた
仏見笑が
鮮な
紅を春と夏の
境に今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは
厄介ですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。
猫撫声で長ったらしくって――
私ゃ
嫌だ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら
父さんは、手の平を二つ内側へ
揃えて眼の球をぐりぐり
擦る。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――
欽吾がうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が
家を出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる
料簡でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのが
厭だと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな
馬鹿気た事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで
八幡の
藪不知へ
這入ったようなものだ」
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
父さんは額に
皺を寄せて
上眼を使いながら、頭を
撫で廻す。
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ
私の及第報告は二三日
後れただけだが、父さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか
判然談判して来るつもりです」
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が
妻を貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね」
「それは好い。構わない」
「
一先本人の意志を聞いて見て……」
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
宗近君はずんど
切の
洋袴を二本ぬっと立てた。
仏見笑と
二人静と
蜆子和尚と
活きた
布袋の置物を残して廊下つづきを
中二階へ上る。
とんとんと二段踏むと妹の
御太鼓が
奇麗に見える。三段目に水色の
絹が、横に傾いて、ふっくらした
片頬が入口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。
糸子ははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉のついた丸い手を置く。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。
御生だからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、
父っさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら
嘘ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。
阿父さんがそう云うんだから」
「嘘よ、
阿父様がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、
枡落し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の
売国奴じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を
袖で隠さんばかりに、机から
手本へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「
掏り
替えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の眼を
掠めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
両手で
叮嚀に抑えた
頁の、残る
一寸角の真中に朱印が見える。
「
見留じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年
幾歳になるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。
私厭だわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って
御幾歳ですか」
「そんな
茶化したって、誰が云うもんですか」
「困ったな。
叮嚀に云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の
年齢なんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
冗談半分に相手になって、
調戯れていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見る
冷めて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰に
俯せて、畳みの目を
勘定し出した。
「どうだい、御嫁は。
厭でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
糸子は
頭を
竪に振った。
「行かない? 本当に」
答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
俯向いた眼の色は見えぬ。ただ
豊なる頬を
掠めて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、
藪から
棒にそんな無理を云ったって」
「訳は
聞さえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は
鼠花火のようにくるくる廻っているよ。
錯乱体だ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても
埓が明かないから、
一と
思に打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか
狡猾だね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって
今度が
始てだね」
「だけれど、藤尾さんは
御廃しなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、
厭がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを
強請るなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ」
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の
御叔母さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、
一さんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって
阿爺に話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の
御蔭だよ。大いに
感泣しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
兄妹は
隔なき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、
近々洋行するはずになったんだが、
阿父さんの云うには、立つ前に嫁を
貰って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって
厭なら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
糸子は
微かな笑を、二三段に切って鼻から
洩した。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を
掻くといけないから」
「ハハハハ厭なら
断るのが天下の
定法だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。
縁喜でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、
大に慶すべき現象だ」
「
苛い事を……だって坊さんになるのは、
酔興になるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように
煩悶が流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって
五分刈でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と
油揚は小供の時から
嫌なんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか
論理が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが
真面目でどこまでが
冗談だか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。
家と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で
御叔母さんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が
好ござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお
厭だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて
吾家を出るなんて
馬鹿気ている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると
一さんへは上げられませんと、こう
御叔母さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に
論理的に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって
厭なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに
断々乎としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを
皆が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が
棄てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「
要らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。
負惜みや
面当じゃありません」
「糸公、御前は甲野の
知己だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を
吐くのは
大嫌です」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が
家を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね
厭かい」
「厭だって……」とと言い
懸けて糸子は急に
俯向いた。しばらくは
半襟の模様を見詰めているように見えた。やがて
瞬く
睫を
絡んで
一雫の涙がぽたりと
膝の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候
劇変で兄さんに
面喰わしてばかりいるね」
答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた
二雫落ちた。宗近君は親譲の
背広の
隠袋から、くちゃくちゃの
手巾をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を
覗き込む。
「糸公
厭なのかい」
糸子は無言のまま首を
掉った。
「じゃ、行く気だね」
今度は首が動かない。
宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、
身体だけを
故へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
糸子はようやく手巾を取上げる。
粗い
銘仙の膝が少し
染になった。その上へ、手巾の
皺を
叮嚀に
延して四つ折に敷いた。
角をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは
廃してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの
間に、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、
後が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその
理窟がさらに
解せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。
一文無の甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも
阿父さんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると
愛想をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって
阿父様と兄さんの
傍にいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも
逢えないから、
平生親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の
袖無の御礼に。ねえ好いだろう」
糸子は何とも答えなかった。下で
阿父さんが
謡をうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は
中二階を下りる。
十七
小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を
鉄軌が通る。高い土手は春に
籠る緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い
屏風のごとく弧形に折れて
遥かに去る。
断橋は
鉄軌を高きに隔つる事
丈を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に
倚って
俯すとき広き両岸の
青を
極めつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に
見下して始めて茶色の
路が細く
横わる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て
留った。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
二人は欄に
倚って立った。立って見る
間に、限りなき麦は
一分ずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
青蓆をのべつに敷いた一枚の
果は、がたりと調子の変った地味な森になる。黒ずんだ
常磐木の中に、けばけばしくも黄を含む緑の、
粉となって空に吹き散るかと思われるのは、
樟の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も
好えな。僕はしかし
田舎から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ
遊んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ
金儲の口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
小野さんは橋の
手擦に背を
靠たせたまま、
内隠袋から例の通り銀製の煙草入を出してぱちりと
開けた。
箔を置いた
埃及煙草の吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
二人の煙はつつがなく立ち
騰って、事なき空に入る。
「君は
始終こんな上等な煙草を
呑んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変
銭がいって困っとるところじゃ」
本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい
要るのかね」
「三十円でも二十円でも
好え」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
浅井君はいくらでも下げる。小野さんは
両肘を鉄の
手擦に
後から持たして、
山羊仔の靴を心持前へ出した。煙草を
啣えたまま、眼鏡越に爪先の飾を
眺めている。
遅日影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮の
濃かに照る上に、眼に入らぬほどの
埃が一面に積んでいる。小野さんは携えた細手の
洋杖で靴の横腹をぽんぽんと
鞭うった。埃は靴を離れて
一寸ほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけは
斑に黒くなった。並んで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ
無細工である。
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ
頃まで」
「今月
末にはきっと返す。それで好かろう」と浅井君は顔を寄せて来る。小野さんは口から煙草を離した。指の
股に挟んだまま、一振はたくと
三分の灰は靴の甲に落ちた。
体をそのままに白い
襟の上から首だけを横に
捩ると、
欄干に
頬杖をついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる
閑がないから、行かんが。君先生に
逢うたら
宜しく云うてくれ。ついでに御嬢さんにも」
浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、
涎のごとき
唾を
遥かの下に吐いた。
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を
向へ投げた。白いカフスが
七宝の
夫婦釦と共にかしゃと鳴る。一寸に余る金が
空を
掠めて橋の
袂に落ちた。落ちた煙は
逆様に地から
這い
揚がる。
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
調子はだいぶ熱心である。小野さんは
片肘を放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、
好え時に帰って来た。何か談判でもするのか。結婚の条件か。近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう」
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために
好えぞ。そうせい。僕が
懸合うてやる」
「そりゃ
貰うとなれば、そう云う談判にしても好いが……」
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と
故のようなおとなしい調子で云う。
「ハハハハ。そう
真面目にならんでも好い。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少し
面の皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと
稽古のためにどっかへ連れて行ってやろうか」
「何分
宜しく……」
「などと云って、裏では
盛に修業しとるかも知れんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ
修飾るところをもって見ると。ことにさっきの巻煙草入の
出所などははなはだ疑わしい。そう云えばこの煙草も何となく妙な
臭がするわい」
浅井君はここに至って指の股に
焦げついて来そうな煙草を、鼻の先へ持って来てふんふんと二三度
嗅いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる
洒落だと思った。
「まあ歩きながら話そう」
悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の
真中へ踏み出した。浅井君の
肘は欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄って来る。暖かき緑は穂を
掠めて
畦を
騰る。野を
蔽う一面の
陽炎は
逆上るほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君は
後から
跟いて来る。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら
真面目な問題に入る。
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで
緩くり聞くから。――それで僕も、君の知っている
通、先生の世話には大変なったんだから、先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は
生涯の幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従する訳にはいかない」
「そりゃいかない」
小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも
拵らえたと云う大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでも
方をつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく
見傚してしまって、そうして万事をそれから
演繹してくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと
誤謬を指摘する訳にも行かず……」
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に
擦れんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう
露骨に人に反対する事が出来ないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも
好いが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に
逢うと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生に
逢うてよく話してやろう」
浅井君は茶漬を
掻き
込むように
容易く引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は
生涯する考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も
故のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような
素振も見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。
飽くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な
料簡は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた
後が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
錐は穴を
穿つ道具である。縄は物を
括る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板を
潜り抜けようと
企てるものはない。縄でなくては
栄螺を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を
掃く人とは限らない。浅井君はたとい
内裏拝観の際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵を
掃う事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水に
潜る度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、
軽重、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと
見限をつけたからである。先方で
苦状を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから
泣寝入にせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは
明日藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず
片荷だけ
卸したなと思った。
「こう日が照ると、麦の
香が鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「
香がするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの
家へ行くのか」と聞く。
「
甲野の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の
香でも
嗅いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が
好え。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「
宗近かい」
「そうそう。あの男の所へ二三日
中に行こうと思っとる」
小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
小野さんは眼を地面の上へ
卸して、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か
明日の朝行ってやる」
「そうか」
麦畑を折れると、杉の
木陰のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどの
遑もない。下り切って
疎な杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変
恥かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
小野さんははなはだ
心元なく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の
邸まで来る。
藤尾の部屋へ
這入って十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
甲野さんは
故の椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに
幾何模様を図案している。丸に
三つ
鱗はとくに出来上った。
おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、
臆したと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろ
遥かに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
宗近君はつかつかと
洋卓の
角まで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し
開けよう」と
上下の
栓釘を抜き放って、真中の
円鈕を握るや否や、正面の
仏蘭西窓を、
床を掃うごとく、一文字に開いた。
室の中には、庭前に芽ぐむ
芝生の緑と共に、広い春が吹き込んで来る。
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰を
卸した。今さきがた
謎の女が坐っていた椅子の上である。
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなか
旨いだろう」と模様いっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、洋卓の上を
滑らせる。
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。
紺屋の
上絵師と哲学者と云う論文でも書く気じゃないか」
甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは
沢山ないようだ。御互も、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
「いつまでも浮世の
鍋の中で、煮え切れずにいるのさ」
甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい
来ようだ」
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん
欧羅巴へ行くのさ」
「行くのはいいが、
親父見たように、煮え切っちゃいけない」
「なんとも云えないが、
印度洋さえ越せば大抵大丈夫だろう」
甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは
洋卓越に相手の頭をつらつら観察した。しかし別段批評も加えなかった。質問も起さなかった。宗近君の方でも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に
逢ったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは
椅子の背に
倚りかかって、この楽天家の頭と、
更紗模様の
襟飾と――襟飾は例に
因って襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の
背広とをじっと
眺めている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「
御叔母さんに話して
来ようか」
今度は
いやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「
廃すが好い」
洋卓の
向側から一句を
明暸に云い切った。
徐に椅子を離れた長髪の人は右の手で額を
掻き上げながら、左の手に椅子の肩を
抑えたまま、
亡き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
親譲りの背広を着た男は、丸い眼を
据えて、
室の中に
聳える、
漆のような髪の
主を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを
見較べた。見較べてしまった時、聳えたる人は
瘠せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし
活きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、
自からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から
見下している。
しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「
御叔父さんも気の毒な事をしたなあ」
立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った
仏蘭西窓を抜けて二段の石階を
芝生へ
下る。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
芝生は南に走る事十間余にして、
高樫の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。
繁き植込に
遮ぎられた奥は、
五坪ほどの池を隔てて、
張出の新座敷には藤尾の机が据えてある。
二人は
緩き歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間
迂回て、植込の陰を書斎の
方へ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にも
揃っている。植込が真中で開いて、二三の敷石に、池の
方へ人を誘う曲り角まで来た時、突然新座敷で、
雉子の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合せたごとくぴたりと留まる。眼は一時に同じ方角へ走る。
四尺の
空地を池の
縁まで細長く余して、
真直に水に落つる池の
向側に、横から
伸す
浅葱桜の長い枝を軒のあたりに
翳して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら
椽鼻に立っている。
不規則なる春の
雑樹を左右に、桜の枝を上に、
温む水に根を
抽でて
這い上がる
蓮の浮葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切る
枠が自然の景物の
粋をあつめて成るがために、――枠の形が趣きを
損なわぬほどに正しくて、また眼を乱さぬほどに不規則なるがために――飛石に、水に、
椽に、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きに過ぎざる
恰好の地位にあるために――最後に、一息の短かきに、吐く
幻影と、
忽然に現われたるために――二人の視線は水の
向の二人にあつまった。と共に、水の向の二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合す四人は、互に互を
釘付にして立つ。
際どい瞬間である。はっと思う
刹那を一番早く飛び
超えたものが勝になる。
女はちらりと白足袋の片方を
後へ引いた。
代赭に染めた古代模様の
鮮かに春を
寂びたる帯の間から、するすると
蜿蜒るものを、引き
千切れとばかり鋭どく抜き出した。
繊き
蛇の
膨れたる
頭を
掌に握って、
黄金の色を細長く空に振れば、
深紅の光は
発矢と尾より
迸しる。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、
燦爛たる金鎖が動かぬ
稲妻のごとく
懸っていた。
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
藤尾の
癇声は鈍い水を
敲いて、鋭どく二人の耳に
跳ね返って来た。
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、
後から
乗し
懸って来た甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に云いながら、
煙に巻かれた人を植込の影へ引いて行く。
肩に手を掛けて押すように石段を
上って、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉に似たる
仏蘭西窓を左右からどたりと立て切った。
上下の
栓釘を
式のごとく
鎖す。次に入口の戸に向う。かねて差し込んである
鍵をかちゃりと回すと、
錠は苦もなく
卸りた。
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が
這入って来ないように」
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた
後、静かに、用い
慣れた安楽椅子に腰を
卸す。体は机に向ったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく
温い
暖味があった。すべての枝を緑に返す用意のために、
寂びたる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
かちゃりと入口の
円鈕を
捩ったものがある。戸は
開かない。今度はとんとんと外から
敲く。宗近君は振り向いた。甲野さんは眼さえ動かさない。
「うちやって置け」と冷やかに云う。
入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ
馳けながら
遠退いて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も
廃せ」
「うん。廃そう」
甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を
拱いたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と
欽吾はまた首を向け直した。「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。
浅墓な
跳ね
返りものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
宗近君は
節太の手を胸から抜いて、
刈り
立の頭の
天辺をとんと敲いた。
甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて
重々しく
首肯いた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞは
要らないだろう」
宗近君は軽く
うふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る
膝頭の上へ
載せる。宗近君は巻煙草を
燻らし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と
独語のように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の
煙を押し開いて、元気づいた顔を
近寄た。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
指の股に
敷島を挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、
呆気に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と
自ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの
家も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に
三つ
鱗を
描いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう
容易く……」
「何
要るものか。あればあるほど
累だ」
「
御叔母さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは
始終君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は
偽物だよ。君らがみんな
欺かれているんだ。母じゃない
謎だ。
澆季の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が
僻んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。
理由が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが
厭だと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志に
忤って、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕が
家を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
宗近君は突然
椅子を立って、机の
角まで来ると
片肘を上に突いて、甲野さんの顔を
掩いかぶすように
覗き
込みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。
向を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「
要らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
宗近君は
ふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、
背皮を
竪に、
勾配のついた
欅の角でとんとんと軽く
敲きながら、少し
沈吟の
体であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「
厭かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や
阿父のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。
御叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を
見損なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の
価値を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。
尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する
気遣のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。
家を出ても好い。山の中へ
這入っても好い。どこへ行ってどう
流浪しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は
尊い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。
十八
小夜子は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて
出雲焼の皿に移すと、真中にある青い
鳳凰の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な
縁はだいぶ残っている。
揃えて渡す二本の
竹箸を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと
椽に
逼ってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を
後へ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
小夜子は淋しい笑顔を
俯向けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を
眺めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や
生涯の幸福についてはあまり同情を
表しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に
阻害せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、
全たき人性に
戻らざる好処置が、
知慧分別の純作用以外に
活きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、
夫子の
一言でどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。
浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、
孤堂先生は変な咳を二つ三つ
塞いた。小夜子は心元なく父の
方を向く。
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
先生は右の
手頸へ左の指を三本
懸けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は
髯と共に日ごとに細長く
瘠せこけて来る。
「どうですか」と
気遣わし
気に聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱が
除れない」と額に少し
皺が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、
頼と思う一本杉をありがたしと
梢を見れば
稲妻がさす。
怖いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る
疳癪なら、
機嫌の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの
風邪と、当人も思い、自分も
苦にしなかった
昨日今日の
咳を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は
性質が善くないと云う。二三日で熱が
退かないと云って
焦慮るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上
疳を起す。この調子で進んで行くと、一年の
後には神経が
赤裸になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――
昨夜小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が
無雑作に尋ねた。
「いえ、ちっと
風邪を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も
頓着もなかった。病気の源因と、経過と、容体を
精しく聞いて貰おうと思っていた先生は
当が
外れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と
小さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
孤堂先生の
窪んだ
眼は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中
苦々しくなる。
「
廃した方が
好えですな」
置き
失くした験温器を
捜がしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の
抽出を二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。
先生の
苦々しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく
跳ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた
障子に影がさす。腰板の
外から細い白木の
筒がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日に
翳して二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と
度盛を
透して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
先生は
腋の下へ験温器を持って行く事を忘れた。
茫然としている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと
精しく話すがいい」
「二三日
中に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
襖の蔭で小夜子が
洟をかんだ。つつましき音ではあるが、
一重隔ててすぐ
向にいる人のそれと受け取れる。
鴨居に近く聞えたのは、
襖越に立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと
御出。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
小夜子は
襖の蔭に
蹲踞ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は
玩具じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも
活物だよ。
私から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を
貢いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て
可愛想だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
小夜子は襖の蔭で
啜り
泣をしている。先生はしきりに
咳く。浅井君は
面喰った。
こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。
瞹眛な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に
逢って話して見ますから」と云った。これは本気の
沙汰である。
しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を
極めて
容易事のように考えているが、そんなものじゃない」と
口惜そうに云う。
先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は
便宜によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで
差支ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は
明日からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来
夫だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ
他家へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の
生涯を誤まらして、それで好い心持なのか」
先生の
窪んだ眼が
煮染んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな
精しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。
厭だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て
自家に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の
考ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は
平手で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
襖の
向側で、
袖らしいものが
唐紙の
裾にあたる音がした。
「そう返事をして
差支ないだろうね」
答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に
埋めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て
蕎麦屋の
行灯を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
突然電車に乗った浅井君は約一時間
余の
後、ぶらりと
宗近家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど
後れて、玄関の松の根際に
梶棒を上げた一挺は、黒い
幌を
卸したまま、
甲野の屋敷を指して
馳ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、
車輪の
音を留めた時、小野さんはちょうど
午飯を済ましたばかりである。
膳が出ている。
飯櫃も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は
藤尾と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気が
咎める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。
賽は
固より自分で投げた。
一六の目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った
該撒は英雄である。通例の人はいざと云う
間際になってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ず
廃せばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよと
棹を取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰か
陸から来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も
履行せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女が
諜し合せて、
停車場で落ち合う
手筈をする。手筈が順に行って、
汽笛がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際まで
逼った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち
耄の顔を箱馬車の中に入れて、空しく
家へ帰って来た。あとで聞くと
朋友の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって
仕合かも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。
諾と云えばどっちへ転んでも
幸である。
否と聞くならば、
退っ
引きならぬ
瀬戸際まであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。
否と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭で
拵え上げた計画を人情が
崩しにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを
眼のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に
延長して想像の鏡に思い浮べて
眺めると
二た
通になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の
面から自分の影を拭き消すと
闇になる、暮になる。すべてが
悲惨になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、
小さき
竈に立つべき煙を予想しながら
薪を奪うと一般である。忍びない。人は眼を
閉って
苦い物を
呑む。こんな
絡んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を
開いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の
閉れた浅井君を頼んだ。頼んだ
後は、想像を殺してしまえば済む。と
覚束ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した
陋策である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
瘠せた頬を
描く。落ち込んだ眼を描く。
縺れた髪を描く。虫のような
気息を描く。――そうして想像は一転する。
血を描く。
物凄き夜と風と雨とを描く。寒き
灯火を描く。
白張の
提灯を描く。――ぞっとして想像はとまる。
想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る
快からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で
曲々の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。
寝覚がわるい。社会が
後指を
指す。
惘然として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を
促がす。
橇の上に力なき身を託したようなものである。手を
拱ぬいていれば自然と約束の
淵へ
滑り込む。「時」の
橇ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。
後暗い
行さえなければ行っても
差支ないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」
煙草の煙が、未来の影を
朦朧と
罩め尽すまで濃く
揺曳た時、宗近君の
頑丈な姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。
いつの
間にどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと
這入った。
「だいぶ
狼籍だね」と云いながら
紅溜の膳を廊下へ出す。黒塗の
飯櫃を出す。
土瓶まで運び出して置いて、
「どうだい」と部屋の真中に腰を
卸した。
「どうも失敬です」と主人は恐縮の
体で向き直る。折よく下女が来て
湯沸と共に膳椀を引いて行く。
心を二六時に
委ねて、
隻手を動かす事をあえてせざるものは、
自から約束を
践まねばならぬ運命を
有つ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりと
怖い所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、
半途に
遮った。遮ぎられた人は邪魔に
逢うと同時に、一刻の安きを
故の位地に
貪る事が出来る。
約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が
剣呑になって来た時、自分に責任がないように、人が履行を
妨げてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。
小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く
鎖されている。
宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を
陥いれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気が
咎める。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。
ただの親類ならまだしもである。
兼てから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。
昨日まで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままに
繋いでいた宗近君である。
偸まれた金の行先も知らずに、
空金庫を
護っていた宗近君である。
秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、
半劈れた。眠っていた眼を
醒しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも
喋舌ったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気が
咎めるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層
上手に出て、利害が直接に
吾身の上に
跳ね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。
宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、
気の毒の輪で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には
気が咎める輪が気味わるそうに重なっている。一番外には
困る輪が黒墨を流したように際限なく未来に
連なっている。そうして宗近君はこの未来を
司どる主人公のように見えた。
「
昨日は失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな
気色も見えぬ。
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、
敵が来たと思っちゃいけない」
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕は
当っ
擦りなどを云って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に
背く……」
宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな
卑しい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た
甲斐がない。君だって教育のある
事理の分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」
小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら
閑人だって、君に
軽蔑されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、
真面目だよ。いいかね。人間は
年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。
上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする
張合がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは
術なげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「
他人が不安であろうと、泰然としていなかろうと、
上皮ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。
他人どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその
一人かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」
小野さんはこの時始めて積極的に相手を
遮ぎった。
「あなたは
羨しいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」
愛嬌に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から
本音が出る。
悄然として誠を帯びた声である。
「小野さん、そこに気がついているのかね」
宗近君の言葉には何だか
暖味があった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
これも下を向いたまま云う。
宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に
肱を乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う
危うい時に、生れつきを
敲き直して置かないと、
生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、
真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。
皮だけで生きている人間は、
土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった
後は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯
真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――
法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で
馳けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が
据る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が
儼存していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が
巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を
遺憾なく世の中へ
敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も
昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人
一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々
真に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話した
通を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、
滑ったの
転んだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」
悄然として
項垂れていた小野さんは、この時居ずまいを
正した。顔を上げて宗近君を
真向に見る。
眸は例になく
確乎と坐っていた。
「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃ好い、
後で分る事だから」
「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って
謝罪って来ます」
「だがね、今僕の
阿父を井上さんの所へやっておいたから」
「
阿父さんを?」
「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから
慰問かたがたつなぎにやっておいた」
「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が
調えば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」
「やります。こっちから行っても好いです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
小野さんは少しく
んで見えた。宗近君はすぐつける。
「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そう云う必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前で
奇麗に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
「連れて行っても好いですが、あんまり
面当になるから――なるべくなら
穏便にした方が……」
「面当は僕も
嫌だが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
「しかし……」
「君が面目ないと云うのかね。こう云う
羽目になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり
上皮の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
「
宜ろしい」
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。
何時に」
「三時に
停車場で出合うはずになっているんですが」
「三時と――今何時か知らん」
ぱちりと宗近君の
胴衣の中ほどで音がした。
「もう二時だ。君はどうせ行くまい」
「
廃すです」
「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」
「一分でも
後れたら、待ち合す
気遣ありません。すぐ帰るでしょう」
「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなか
歇みそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。
阿父が待ち
兼て心配しているに違ない」
春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく
千筋を引いて落ちてくる。火鉢が欲しいくらいの
寒である。
手紙は
点滴の響の
裡に
認められた。使が
幌の色を、打つ雨に
揺かして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の
僑居に
在って、応分の使命をつくしつつある。
孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の
義董の
幅に
背いて
横えた
額際を、小夜子が
氷嚢で冷している。
蹲踞る枕元に、泣き
腫した眼を赤くして、氷嚢の
括目に寄る
皺を勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の
阿父さんは、
鉄線模様の
臥被を二尺ばかり離れて、どっしりと尻を
据えている。厚い
膝頭が
坐布団から
喰み出して軽く畳を抑えたところは、血が
退いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。
宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。
「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」
「いや、はなはだ失礼の
体たらくで、私こそ恐縮で。起きて
御挨拶を申し上げなければならんのだが……」
「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて
結句私の都合になります。ハハハハ」
「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」
「なに、昔なら武士は
相見互と云うところで。ハハハハ私などもいつ
何時御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ
御移ではさぞ御不自由で御困りだろう」
「二十年目になります」
「二十年目、そりゃあそりゃあ。
二た
昔ですな。御親類は」
「無いと同然で。久しい間、
音信不通にしておったものですからな」
「なるほど。それじゃ、全く小野
氏だけが御力ですな。そりゃ、どうも、
怪しからん事になったもので」
「馬鹿を見ました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」
「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、
先刻よく娘にも
因果を含めて申し聞かしておきました」
「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく
御断念になるのも
惜いから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。
忰も出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」
「御好意は実に
辱ない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」
小夜子は
氷嚢をそっと上げて、額の露を丁寧に
手拭でふいた。
「冷やすのは少し
休めて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」
小夜子は氷嚢を盆へ
載せた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へ
蔽いかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた
胡麻塩頭を
「好いな」と云いながら半分ほど
後へ
捩じ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は
故の位地に復した。
潤んだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて
「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。
「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰を
嫌うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」
「小夜や、宗近さんの
阿父さんも、ああおっしゃる。
同じ事だろう」
「私は――参らんでも――
宜しゅうございます」と小夜子が枕の
後で切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た
甲斐がない。小野
氏にもだんだん事情のある事だろうから、まあ
忰の通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように
御聞済を願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのは
異なものだが、忰は
事理の分った奴で、けっして後で御迷惑になるような
取計は致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目に
懸ったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」
雨を
衝く一
輛の車は輪を鳴らして、
格子の前で留った。がらりと
明く途端に、ぐちゃりと
濡れた
草鞋を
沓脱へ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。
第三の車が糸子を
載せたまま、甲野の門に
々の響を送りつつ
馳けて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の
抽出を一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。
床の上は千切れた
半切で膝の所だけが
堆くなった。甲野さんは乱るる
反故屑を踏みつけて立った。今度は
抽出から一枚、二枚と
細字に
認めた控を取り出す。中には五六
頁纏めて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置き
易えるのもある。しばらくすると、
重なるものは小一尺の
高まで来た。抽出は
大抵空になる。甲野さんは
上下へ手を掛けて、総体を煖炉の
傍まで持って来たが、やがて、無言のまま
抛げ
込んだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面に
崩れた。
葡萄の葉を青銅に
鋳た灰皿が
洋卓の上にある。灰皿の上に
燐寸がある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった
黄表紙の日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い
印気と
鼠の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。
昨夕寝る前に書き込んだ、
入レ道無言客。出レ家有髪僧。
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。
屈んだ。
煖炉敷の前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、
惓怠い
伸をしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の
隙間を
這い
上って出た。すると紙は
下層の方から動き出した。
「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて
体を斜めに開く。
袂の先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋を
煖めます」と云ったなり、上から煖炉の中を
見下した。火は薄い
水飴の色に燃える。
藍と
紫が折々は思い出したように交って煙突の
裏へ
上って行く。
「まあ御あたんなさい」
折から風に誘われた雨が四五筋、
窓硝子に当って砕けた。
「降り出しましたね」
母は返事をせずに
三足ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、
「寒ければ、石炭を
焼かせようか」と云った。
めらめらと燃えた火は、
揺ぐ紫の舌の立ち
騰る
後から、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。
「もうたくさんです。もう消えました」
云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に
亡父の眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな
要らないのかい」
欽吾は
床の上を
眺めた。裂き
棄てた書面は見事に乱れている。あるいは二三行、あるいは五六行、はなはだしいのは一行の半分で引き千切ったのがある。
「みんな要りません」
「それじゃ、ちっと片づけよう。
紙屑籠はどこにあるの」
欽吾は答えなかった。母は机の下を
覗き込む。西洋流の
籃製の
屑籠が、
足掛の
向に
仄に見える。母は
屈んで手を
伸した。
紺緞子の帯が、窓からさす
明をまともに受けた。
欽吾は腕を右へ
真直に、
日蔽のかかった
椅子の
背頸を握った。
瘠せた肩を
斜にして、ずるずると机の
傍まで引いて来た。
母は机の奥から屑籠を
引き
擦り出した。手紙の
断片を一つ一つ床から拾って籠の中へ入れる。
捩じ曲げたのを丹念に引き延ばして見る。「いずれ
拝眉の上……」と云うのを投げ込む。「……
御免蒙り
度候。もっとも事情の許す場合には御……」と云うのを投げ込む。「……はとうてい辛抱致しかね……」と云うのを裏返して見る。
欽吾は尻眼に母をじろりと
眺めた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと
紺足袋が白い
日蔽の上に
揃った。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上る。
「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から
仰向いた。眼と眼の間に
怖の色が明かに読まれた。
「額を
卸します」と上から落ちついて云う。
「額を?」
怖は
愕と変じた。欽吾は
鍍金の
枠に右の手を
懸けた。
「ちょいと御待ち」
「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。
「額を
外して何にする気だい」
「持って行くんです」
「どこへ」
「
家を出るから、額だけ持って行くんです」
「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっと
緩外したら
宜さそうなもんじゃないか」
「悪いですか」
「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」
「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」
母は変な顔をして
呆然として立った。欽吾は両手を額に掛ける。
「出るって、御前本当に出る気なのかい」
「出る気です」
欽吾は
後ろ
向に答えた。
「いつ」
「これから、出るんです」
欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、
折釘から外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手で
恭しく捧げたままである。母は下から云う。
「こんな雨の降るのに」
「雨が降っても構わないです」
「せめて藤尾に
暇乞でもして行ってやっておくれな」
「藤尾はいないでしょう」
「だから待っておくれと云うのだあね。
藪から
棒に出るなんて、
御母さんを困らせるようなもんじゃないか」
「困らせるつもりじゃありません」
「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母さんが恥を
掻きます」
「世間が……」と云いかけて額を持ちながら、首だけ
後へ向けた時、細長く切れた欽吾の眼は
一度は母に落ちた。やがて母から
遠退いて戸口に至ってはたと動かなくなった。――母は気味悪そうに振返る。
「おや」
天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかに
頭を下げた。
鷹揚に
膨ました
廂髪が
故に帰ると、糸子は机の
傍まで歩を移して来る。白足袋が両方
揃った時、
「
御迎に参りました」と
真直に欽吾を見上げた。
「
鋏を取って下さい」と欽吾は上から頼む。
顎で差図をした、レオパルジの傍に、鋏がある。――ぷつりと云う音と共に額は壁を離れた。鋏はかちゃりと
床の上に落ちた。両手に額を捧げた欽吾は、机の上でくるりと正面に向き直った。
「兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました」
欽吾は捧げた額を
眼八分から、そろりそろりと下の方へ移す。
「受取って下さい」
糸子は
確と受取った。欽吾は机から飛び下りる。
「行きましょう。――車で来たんですか」
「ええ」
「この額が乗りますか」
「乗ります」
「じゃあ」と再び額を受取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。
「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親の
家を出るんだか知らないが、少しは
私の心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」
「世間はどうでも構わないです」
「そんな
聞訳のない事を云って、――
頑是ない小供みたように」
「小供なら結構です。小供になれれば結構です」
「またそんな。――せっかく、小供から
大人になったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一と通りや二た通りの事じゃないよ、御前。少しは考えて御覧な」
「考えたから出るんです」
「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、
今更泣いたって、
口説いたって仕方がないけれども、――私は――
亡くなった
阿父さんに――」
「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」
「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私を
苛めなくっても
宜さそうなもんじゃないか」
甲野さんは額を
提げたまま、何とも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍に着いている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音を
輳めてくる。ざあっと云う高い響である。また広い響である。響の
裡に甲野さんは
黙然として立っている。糸子も黙然として立っている。
「少しは分ったかい」と母が聞いた。
甲野さんは依然として黙している。
「これほど云っても、まだ分らないのかね」
甲野さんはやはり口を開かない。
「糸子さん、こう云う
体たらくなんですから。どうぞ御宅へ御帰りになったら、阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。――まことに、こんなところをあなた方に御見せ申すのは、何ともかとも面目しだいもございません」
「
御叔母さん。欽吾さんは出たいのですから、素直に出して御上げなすったら好いでしょう。無理に引っ張っても何にもならないと思います」
「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」
「なぜ」
「だって人の口は
五月蠅じゃありませんか」
「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって
今日を送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。
御可哀想じゃありませんか」
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより
御叔母さんのためになるんじゃないの」
「世の中への義理ですよ」
「分らないわ、
私には。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが
御叔母さんの迷惑になるはずはないわ」
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんは
濡れないんだから構わないじゃありませんか」
汽車のない時の事であった。山の男と海の男が
喧嘩をした。山の男が魚は塩辛いものだと云う。海の男が魚に塩気があるものかと云う。喧嘩はいつまで立っても
鎮まらなかった。教育と
名くる汽車がかかって、理性の
楷段を自由に上下する
方便が開けないと、御互の
考は御互に分らない。ある時は俗社会の塩漬になり過ぎて、ただ見てさえも
冥眩しそうな人間でないと、人間として通用しない事がある。それは
嘘だ
偽だと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬趣味を主張する。――
謎の女と糸子の応対は、どこまで行っても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念を
異にするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して
冒頭から考が違う。
海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を
見下している。糸子の云うところは弁護の出来ぬほど簡単である。母の主張は
愛想のつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは
阿爺の額を抱いたまま立っている。別段退屈した
気色も見えない。
焦慮たそうな様子もない。困ったと云う
風情もない。二人の問答が、日暮まで続けば、日暮まで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。
ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。
「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。
「うん」と答えたぎりである。
「
御叔母さんもここか、ちょうど好い」と腰を掛ける。
後から小野さんが
這入って来る。小野さんの影を
一寸も出ないように小夜子がついてくる。
「御叔母さん、雨の降るのに
大入ですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」
活躍の
児は一句にして
挨拶と紹介を
兼る。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支えて立ったままである。小野さんも
手持無沙汰に席に着かぬ。小夜子と糸子はいたずらに丁寧な
頭を下げた。打ち解けた言葉は無論交す機会がない。
「雨の降るのに、まあよく……」
母はこれだけの
愛嬌を一面に振り
蒔いた。
「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。
「小野さんは……」と母が云い
懸けた時、宗近君がまた
遮った。
「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と
独語のように云ったが、ちょっと振り返って、
「みんな掛けないか。立ってると
草臥るぜ。もう
直藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。
「さあ、どうぞ」と母が云う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」
「父の肖像を
卸しまして、あなた。持って出るとか申して」
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。
「なに……」と甲野さんは
提げていた額を
床の上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は
俯向きながら、そっと額の方を見る。
「なんぞ藤尾に、御用でも
御有なさるんですか」
これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
これは宗近の答であった。
あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一
輛の車はクレオパトラの
怒を乗せて
韋駄天のごとく新橋から
馳けて来る。
宗近君は
胴衣の上で、ぱちりと云わした。
「三時二十分」
何とも
応えるものがない。車は
千筋の雨を、黒い
幌に
弾いて一散に飛んで来る。クレオパトラの
怒は
布団の上で
躍り上る。
「
御叔母さん京都の話でも、しましょうかね」
降る雨の地に落ちぬ
間を追い越せと、乗る怒は車夫の背を
鞭って
馳けつける。横に
煽る風を
真向に切って、歯を逆に
捩ると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けて来た。
濃い
紫の
絹紐に、怒をあつめて、
幌を
潜るときに
颯とふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。
「二十五分」
と宗近君が云い切らぬうちに、怒の
権化は、
辱しめられたる女王のごとく、書斎の真中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐にあつまる。
「やあ、御帰り」と宗近君が煙草を
啣えながら云う。藤尾は
一言の
挨拶すら返す事を
屑とせぬ。高い背を高く
反らして、
屹と部屋のなかを見廻した。見廻した眼は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は
背広の肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑み掛けの煙草を、
青葡萄の灰皿に
放り込む。
「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まん事になりました」
小野さんの句切りは例になく
明暸であった。
稲妻ははたはたとクレオパトラの
眸から飛ぶ。何を
猪子才なと小野さんの額を射た。
「約束を守らなければ、説明が
要ります」
「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
宗近君は二三歩大股に歩いて来た。
「僕が紹介してやろう」と
一足小野さんを横へ
押し
退けると、
後から小さい小夜子が出た。
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
藤尾の表情は
忽然として
憎悪となった。憎悪はしだいに
嫉妬となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
小夜子は泣き
腫らした眼を
俯せたまま、細い首を下げる。藤尾は白い
拳を握ったまま、動かない。
「
嘘です。嘘です」と二遍云った。「小野さんは
私の
夫です。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の
怒を満面に
注ぐ。
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――
「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、
今日までの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。
真面目な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」
藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、
侮蔑の色のみが深刻に残った。
仮面の形は急に
崩れる。
「ホホホホ」
歇私的里性の笑は窓外の雨を
衝いて高く
迸った。同時に握る
拳を厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。
深紅の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ
揺く。
「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は
赭黒い宗近君の
掌に
確と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に
赭黒い拳が
空に
躍る。時計は大理石の
角で砕けた。
「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな
酔興な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな
悪戯をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が
硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、
床の上に倒れた。
十九
凝る雲の底を抜いて、
小一日空を傾けた雨は、大地の
髄に
浸み込むまで降って
歇んだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、
李に、かつ散り、かつ散って、残る
紅もまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとく
亡ぶ。
我の女は虚栄の毒を仰いで
斃れた。花に相手を失った風は、いたずらに
亡き人の部屋に
薫り
初める。
藤尾は北を枕に寝る。薄く掛けた
友禅の
小夜着には
片輪車を、浮世らしからぬ
恰好に、染め抜いた。上には半分ほど色づいた
蔦が一面に
這いかかる。
淋しき模様である。動く
気色もない。敷布団は厚い
郡内を二枚重ねたらしい。
塵さえ立たぬ
敷布を
滑かに敷き詰めた下から、
粗い
格子の黄と
焦茶が一本ずつ見える。
変らぬものは黒髪である。
紫の
絹紐は取って捨てた。有るたけは、有るに任せて枕に乱した。
今日までの浮世と思う母は、
櫛の歯も入れてやらぬと見える。乱るる髪は、
純白な
敷布にこぼれて、
小夜着の
襟の
天鵞絨に
連なる。その中に
仰向けた顔がある。
昨日の肉をそのままに、ただ色が違う。眉は依然として濃い。眼はさっき母が眠らした。眠るまで母は丹念に
撫ったのである。――顔よりほかは見えぬ。
敷布の上に時計がある。
濃に刻んだ
七子は
無惨に
潰れてしまった。鎖だけはたしかである。ぐるぐると
両蓋の
縁を巻いて、
黄金の光を
五分ごとに曲折する真中に、
柘榴珠が、へしゃげた蓋の
眼のごとく乗っている。
逆に立てたのは二枚折の
銀屏である。一面に
冴え返る月の色の
方六尺のなかに、
会釈もなく
緑青を使って、
柔婉なる茎を乱るるばかりに
描いた。不規則にぎざぎざを畳む
鋸葉を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い
弁を
掌ほどの
大さに描いた。茎を
弾けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の
襞を、
絞りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが
銀の中から
生える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は
虞美人草である。
落款は
抱一である。
屏風の陰に用い慣れた
寄木の小机を置く。
高岡塗の
蒔絵の
硯筥は書物と共に
違棚に移した。机の上には油を
注した
瓦器を供えて、昼ながらの
灯火を一本の
灯心に
点ける。灯心は新らしい。瓦器の
丈を余りて、三寸を尾に引く先は、油さえ含まず白くすらりと延びている。
ほかには
白磁の
香炉がある。線香の袋が
蒼ざめた赤い色を机の
角に出している。灰の中に立てた五六本は、一点の
紅から煙となって消えて行く。
香は仏に似ている。色は流るる
藍である。
根本から濃く立ち
騰るうちに右に
揺き左へ揺く。揺くたびに幅が広くなる。幅が広くなるうちに色が薄くなる。薄くなる帯のなかに濃い筋がゆるやかに流れて、しまいには広い幅も、帯も、濃い筋も
行方知れずになる。時に燃え尽した灰がぱたりと、棒のまま倒れる。
違棚の高岡塗は沈んだ
小豆色に
古木の幹を青く盛り上げて、
寒紅梅の数点を
螺鈿擬に
錬り出した。裏は黒地に
鶯が一羽飛んでいる。並ぶ
蘆雁の高蒔絵の中には
昨日まで、深き光を暗き底に放つ柘榴珠が収めてあった。両蓋に
隙間なく七子を盛る金側時計が収めてあった。高蒔絵の上には一巻の書物が
載せてある。
四隅を
金に立ち切った
箔の小口だけが
鮮かに見える。間から紫の
栞の房が長く垂れている。栞を差し込んだ
頁の上から七行目に「
埃及の
御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」の一句がある。色鉛筆で細い筋を入れてある。
すべてが美くしい。美くしいもののなかに
横わる人の顔も美くしい。
驕る眼は
長えに閉じた。驕る眼を
眠った藤尾の
眉は、額は、黒髪は、
天女のごとく美くしい。
「御線香が切れやしないかしら」と母は
次の
間から立ちかかる。
「今上げて来ました」と欽吾が云う。
膝を正しく組み合わして、手を
拱いている。
「
一さんも上げてやって下さい」
「
私も今上げて来た」
線香の
香は藤尾の部屋から、思い出したように吹いてくる。燃え切った灰は、棒のままで、はたりはたりと香炉の中に倒れつつある。
銀屏は知らぬ
間に
薫る。
「小野さんは、まだ来ないんですか」と母が云う。
「もう来るでしょう。今呼びにやりました」と欽吾が云う。
部屋はわざと立て切った。
隔の
襖だけは明けてある。片輪車の
友禅の
裾だけが見える。あとは
芭蕉布の
唐紙で万事を隠す。
幽冥を仕切る
縁は黒である。一寸幅に
鴨居から
敷居まで
真直に貫いている。母は
襖のこちらに坐りながら、折々は、見えぬ所を
覗き込むように、首を傾けて背を
反らす。冷かな足よりも冷かな顔の方が気にかかる。覗くたびに黒い縁は、すっきりと友禅の
小夜着を
斜に断ち切っている。写せばそのままの模様画になる。
「
御叔母さん、飛んだ事になって、御気の毒だが、仕方がない。
御諦なさい」
「こんな事になろうとは……」
「泣いたって、
今更しようがない。
因果だ」
「本当に残念な事をしました」と眼を拭う。
「あんまり泣くとかえって
供養にならない。それより
後の始末が大事ですよ。こうなっちゃ、是非甲野さんにいてもらうより仕方がないんだから、その気になってやらないと、あなたが困るばかりだ」
母はわっと泣き出した。過去を
顧みる涙は
抑えやすい。卒然として未来におけるわが運命を自覚した時の涙は
発作的に来る。
「どうしたら好いか――それを思うと――一さん」
切れ切れの言葉が、涙と
洟の間から出た。
「御叔母さん、失礼ながら、ちっと
平生の考え方が悪かった」
「私の不行届から、藤尾はこんな事になる。欽吾には見放される……」
「だからね。そう泣いたってしようがないから……」
「……まことに面目しだいもございません」
「だからこれから少し考え直すさ。ねえ、甲野さん、そうしたら好いだろう」
「みんな
私が悪いんでしょうね」と母は始めて欽吾に向った。腕組をしていた人はようやく口を
開く。――
「
偽の子だとか、本当の子だとか区別しなければ好いんです。平たく当り前にして下されば好いんです。遠慮なんぞなさらなければ好いんです。なんでもない事をむずかしく考えなければ好いんです」
甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。あるいは理解出来ないからかと思う。甲野さんは再び口を
開いた。――
「あなたは藤尾に
家も財産もやりたかったのでしょう。だからやろうと私が云うのに、いつまでも私を
疑って信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家にいるのを面白く思っておいででなかったでしょう。だから私が家を出ると云うのに、
面当のためだとか、何とか悪く考えるのがいけないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びにやって、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略がいけないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を
癒すためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そう云う
嘘が悪いんです。――そう云うところさえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。いつまでも御世話をしても好いのです」
甲野さんはこれだけでやめる。母は
俯向いたまま、しばらく考えていたが、ついに低い声で答えた。――
「そう云われて見ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪いところは直すつもりだから……」
「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも
御母さんだ。家にいて面倒を見て上げるがいい。糸公にもよく話しておくから」
「うん」と甲野さんは答えたぎりである。
隣室の線香が絶えんとする時、小野さんは
蒼白い額を抑えて来た。
藍色の煙は再び
銀屏を
掠めて立ち
騰った。
二日して葬式は済んだ。葬式の済んだ夜、甲野さんは日記を書き込んだ。――
「悲劇はついに来た。
来るべき悲劇はとうから
預想していた。預想した悲劇を、なすがままの発展に任せて、
隻手をだに下さぬは、
業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが
故である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、
三世に
跨がる
業を根柢から洗わんがためである。不親切なためではない。隻手を挙ぐれば隻手を失い、
一目を
揺かせば一目を
眇す。手と目とを
害うて、しかも第二者の
業は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を
袖に、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の
一拶に本来の面目に
逢着せしむるの微意にほかならぬ。
悲劇は喜劇より偉大である。これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。取り返しがつかぬ運命の底に
陥って、出て来ぬから偉大だと云うのは、流るる水が
逝いて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。運命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。
忽然として生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。ふざけたるものが急に
襟を正すから偉大なのである。襟を正して道義の必要を今更のごとく感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を
脳裏に樹立するが
故に偉大なのである。道義の運行は悲劇に際会して始めて
渋滞せざるが故に偉大なのである。道義の実践はこれを人に望む事
切なるにもかかわらず、われのもっとも
難しとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。道義の実践は他人にもっとも
便宜にして、自己にもっとも不利益である。
人々力をここに致すとき、一般の幸福を
促がして、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である。
問題は無数にある。
粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。
綴織か
繻珍か、これも喜劇である。英語か
独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。
十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に
煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。
死を忘るるものは
贅沢になる。
一浮も生中である。
一沈も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる
気遣なしと思う。贅沢は
高じて大胆となる。大胆は道義を
蹂躙して
大自在に
跳梁する。
万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。ここにおいて万人は生に向って進んだ。ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に
背いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁して
毫も生中を脱するの
虞なしと自信するが故に、――道義は不必要となる。
道義に
重を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。
欺く。
嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて
享受し得るが故に――喜劇の進歩は
底止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて
下る。
道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。
妄りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み
外して、死の
圜内に入らしむる事を知る。人もわれももっとも
忌み嫌える死は、ついに忘るべからざる
永劫の
陥穽なる事を知る。陥穽の周囲に
朽ちかかる道義の縄は
妄りに飛び
超ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」
二ヵ月
後甲野さんはこの一節を抄録して
倫敦の宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
「ここでは喜劇ばかり
流行る」