虞美人草

夏目漱石




        一

「随分遠いね。元来がんらいどこから登るのだ」
一人ひとり手巾ハンケチひたいを拭きながら立ちどまった。
「どこかおれにも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯からだも四角に出来上った男が無雑作むぞうさに答えた。
 そりを打った中折れの茶のひさしの下から、深きまゆを動かしながら、見上げる頭の上には、微茫かすかなる春の空の、底までもあいを漂わして、吹けばうごくかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然きつぜんとして、どうする気かとわぬばかりに叡山えいざんそびえている。
「恐ろしい頑固がんこな山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜のつえに身をたせていたが、
「あんなに見えるんだから、わけはない」と今度は叡山えいざん軽蔑けいべつしたような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝けさ宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行あるいていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりをあおいでいる。日頃ひごろからなるひさしさえぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広きひたいだけは目立って蒼白あおしろい。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風にさらして、ねばり着いた黒髪の、さかに飛ばぬをうらむごとくに、手巾ハンケチを片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩ぼんのくぼの尽くるあたりまで、くちゃくちゃにき廻した。うながされた事には頓着とんじゃくする気色けしきもなく、
「君はあの山を頑固がんこだと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排あんばいじゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、いた方の手に栄螺さざえの親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼のかどからななめに相手を見下みおろした。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖ステッキを、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるやいなや、歩行あるき出した。せた男も手巾ハンケチたもとに収めて歩行き出す。
「今日は山端やまばな平八茶屋へいはちぢゃや一日いちんち遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端はんぱになるばかりだ。元来がんらい頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌しゃべり続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも見損みそこなってしまう。つれこそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか見当けんとうがつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。せた男は無言のままあとにおくれてしまう。
 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横につらぬいて、けぶる柳の間から、ぬくき水打つ白きぬのを、高野川たかのがわかわらに数え尽くして、長々と北にうねるみちを、おおかたは二里余りも来たら、山はおのずから左右にせまって、脚下にはし潺湲せんかんの響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春はけたるを、山をきわめたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰のすそうて、暗き陰に走る一条ひとすじの路に、爪上つまあがりなる向うから大原女おはらめが来る。牛が来る。京の春は牛の尿いばりの尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ちどまりながら、きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそりかんと行き尽して、かやばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高くして、返れ返れと二度ほどゆすって見せる。桜のつえが暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思うもなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな丸木橋まるきばしを渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに歩行あるいていると若狭わかさの国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女にいて見た。この橋を渡って、あの細い道をむこうへ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
叡山えいざんの上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、おおせに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、歩行あるけるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると一人前いちにんまえだがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとからいて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
 渓川たにがわに危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、かろうじて一縷いちるの細き力にいただきへ抜ける小径こみちのなかに隠れた。草はもとより去年のしもを持ち越したまま立枯たちがれの姿であるが、薄く溶けた雲をとおして真上から射し込む日影にし返されて、両頬りょうきょうのほてるばかりに暖かい。
「おい、君、甲野こうのさん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯からだ真直まっすぐに立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、はるか向うには、白銀しろかねの一筋に眼を射る高野川をひらめかして、左右は燃えくずるるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりとなすり着けた背景には薄紫うすむらさき遠山えんざん縹緲ひょうびょうのあなたにえがき出してある。
「なるほど好い景色けしきだ」と甲野さんは例の長身をじ向けて、きわどく六十度の勾配こうばいに擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつのに、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近むねちか君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれもくに心得ている」
「ハハハハそれで君は幾歳いくつだったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す了見りょうけんだと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は雑作ぞうさもなく言って退ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
冗談じょうだんを言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退いてやれ」
 百折ももお千折ちおれ、五間とはすぐに続かぬ坂道を、呑気のんきな顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身のたけに余る粗朶そだの大束を、みどる濃き髪の上におさえ付けて、手もけずにいただきながら、宗近君の横をり抜ける。しげる立ち枯れのかやをごそつかせたうしろ姿のにつくは、目暗縞めくらじまの黒きが中をはすに抜けた赤襷あかだすきである。一里をへだてても、そことゆびの先に、引っ着いて見えるほどの藁葺わらぶきは、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引たなびかすみとこしえに八瀬やせの山里を封じて長閑のどかである。
「この辺の女はみんな奇麗きれいだな。感心だ。何だかのようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女おはらめなんだろう」
「なに八瀬女やせめだ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となくでいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、てい、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋そばややぶがたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号はせばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足あとあしで石をころがしてはいかん。あとからいて行くものが剣呑けんのんだ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄かれすすきの中へ仰向あおむけに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号をとなえるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜のつえで、甲野さんのている頭の先をこつこつたたく。敲くたびに杖の先が薄をぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
反吐へどが出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも休息やすみつかまつろう」
 甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子もかさも坂道に転がしたまま、仰向あおむけに空をながめている。蒼白あおじろ面高おもだかけずせる彼の顔と、無辺際むへんざいに浮き出す薄き雲の※(「條の木に代えて栩のつくり」、第3水準1-90-31)ゆうぜんと消えて入る大いなる天上界てんじょうかいの間には、一塵の眼をさえぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
 宗近君は米沢絣よねざわがすりの羽織を脱いで、袖畳そでだたみにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う諸肌もろはだを脱いだ。下から袖無ちゃんちゃんあらわれる。袖無の裏から、もじゃもじゃしたきつねの皮がみ出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊せんようの皮は一狐いっこえきにしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮はまだらにほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほどたちの悪い野良狐のらぎつねに違ない。
御山おやま御登おあがりやすのどすか、案内しまほうか、ホホホけったいとこに寝ていやはる」とまた目暗縞めくらじまが下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然としてそらながめている。
「そう泰然と尻をえちゃ困るな。まだ反吐へどを吐きそうかい」
「動けば吐く」
厄介やっかいだなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛ばんこくの反吐皆どうの一字よりきたる」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君をかついでふもとまで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟易へきえきしていたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌あいきょうのない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分いっぷんでも余計動かずにいようと云う算段だな。しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものをたおやわらかい武器だよ」
「それじゃ無愛想ぶあいそは自分より弱いものを、き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁きべんろうするね。そんなら僕は御先へ御免蒙ごめんこうむるぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
 宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛けずねまつわる竪縞たてじますそをぐいと端折はしおって、同じく白縮緬しろちりめん周囲まわりに畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引きけるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路そばみち飄然ひょうぜんとして左へ折れたぎり見えなくなった。
 あとは静である。静かなる事さだまって、静かなるうちに、わが一脈いちみゃくの命をたくすると知った時、この大乾坤だいけんこんのいずくにかかよう、わが血潮は、粛々しゅくしゅくと動くにもかかわらず、音なくして寂定裏じゃくじょうり形骸けいがい土木視どぼくしして、しかも依稀いきたる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶うやむやわずらいを捨てたるは、雲のしゅうを出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥こうでいを超絶したる活気である。古今来ここんらいむなしゅうして、東西位とうざいいくしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石かせきになりたい。赤も吸い、青も吸い、黄もむらさきも吸い尽くして、元の五彩にかえす事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、せんずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側こちらがわなるすべてのいさくさは、肉一重ひとえの垣にへだてられた因果いんがに、枯れ果てたる骸骨にいらぬなさけの油をして、要なきしかばね長夜ちょうやの踊をおどらしむる滑稽こっけいである。はるかなる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
 考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行あるかねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹こんせきを、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いてずいにいって消えぬほどある。いたずらに足の底にふくれ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上になかば掛けたる編み上げのかかとを見下ろす途端とたん、石はきりりとめんえて、乗せかけた足をすわと云うに二尺ほどべらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声にぎんじながら、かさを力に、岨路そばみちを登り詰めると、急に折れた胸突坂むなつきざかが、下から来る人を天にいざな風情ふぜいで帽にせまって立っている。甲野さんは真廂まびさしあおって坂の下から真一文字に坂の尽きるいただきを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色をみなぎらしたるはてもなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
 草山を登り詰めて、雑木ぞうきの間を四五段のぼると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿しめっぽく思われる。路は山のを、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江おうみの空を深く色どるこの森の、動かねば、そのかみの幹と、その上の枝が、幾重いくえ幾里につらなりて、むかしながらのみどりを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々をうずめ、三百の神輿みこしを埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提さまくさぼだいの仏達を埋め尽くして、森々しんしんと半空にそびゆるは、伝教大師でんぎょうだいし以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
 右よりし左よりして、行く人を両手にさえぎる杉の根は、土を穿うがち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとするいわお梯子ていしに、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級のかいを、山霊さんれいたまものと甲野さんは息を切らしてのぼって行く。
 行く路の杉にせまって、暗きよりるるがごとくい出ずる日影蔓ひかげかずらの、足にまつわるほどに繁きを越せば、引かれたるつるの長きを伝わって、手も届かぬに、ちかかる歯朶しだの、風なき昼をふらふらとうごく。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗てんぐのような声を出す。朽草くちくさの土となるまで積みるしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘かわほりがさを力に、天狗てんぐまで、登って行く。
善哉善哉ぜんざいぜんざい、われなんじを待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
 甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘をほうり出すと、その上へどさりと尻持しりもちを突いた。
「また反吐へどか、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜のつえで、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間すきまに、※(「白+樂」、第3水準1-88-69)てきれき近江おうみうみが光った。
「なるほど」と甲野さんはひとみらす。
 鏡を延べたとばかりではき足らぬ。琵琶びわの銘ある鏡の明かなるをんで、叡山の天狗共が、よいぬすんだ神酒みきえいに乗じて、曇れる気息いきを一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎かげろうを巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷ひとはけなすり付けた、※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)れんえんたる春色が、十里のほかに糢糊もこ棚引たなびいている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやってもうれしがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々にちにち人間と御無沙汰ごぶさたになって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山をうしろにして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手ふところでをしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門まさかど※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を瞰下みおろしたんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を吐くより、反吐へどでも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨だるまだね」
「あのけぶるような島は何だろう」
「あの島か、いやに縹緲ひょうびょうとしているね。おおかた竹生島ちくぶしまだろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、ものさえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけがまことだよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気うわきはなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのはぴら御免ごめんだ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
小刀細工こがたなざいくすきな人間がさ」
 山を下りて近江おうみの野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くにながめているのが甲野さんの世界である。

        二

 くれない弥生やよいに包む昼たけなわなるに、春をぬきんずるむらさきの濃き一点を、天地あめつちの眠れるなかに、あざやかにしたたらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりもあでやかながめしむる黒髪を、乱るるなと畳めるびんの上には、玉虫貝たまむしかい冴々さえさえすみれに刻んで、細き金脚きんあしにはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒きひとみのさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴はんてきのひろがりに、一瞬の短かきをぬすんで、疾風のすは、春にいて春を制する深きまなこである。このひとみさかのぼって、魔力のきょうきわむるとき、桃源とうげんに骨を白うして、再び塵寰じんかんに帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊もこたる夢の大いなるうちに、さんたる一点の妖星ようせいが、死ぬるまで我を見よと、紫色の、まゆ近くせまるのである。女は紫色の着物を着ている。
 静かなる昼を、静かにしおりいて、はくに重き一巻を、女は膝の上に読む。
「墓の前にひざまずいて云う。この手にて――この手にて君をうずめ参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓をはらい、この手にてこうくべき折々の、とこしえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶ばくやも我らをき難きに、死こそ無惨むざんなれ。羅馬ロウマの君は埃及エジプトに葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬にうずめられんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、きわれにこばめる、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、なさけだにあらば、羅馬の神は、よも生きながらのはずかしめに、いちに引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君があだなる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫えいごうに隠したまえ。」
 女は顔を上げた。蒼白あおしろほおしまれるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重ひとえの底に、余れる何物かをかくせるがごとく、蔵せるものを見極みきわめんとあせる男はことごとくとりことなる。男はまばゆげになかば口元を動かした。口の居住いずまいくずるる時、この人の意志はすでに相手の餌食えじきとならねばならぬ。下唇したくちびるのわざとらしく色めいて、しかも判然はっきと口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
 女はただはやぶさの空をつがごとくちらとひとみを動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごさきに飛ばして、泡吹くかにと、烏鷺うろを争うは策のもっともつたなきものである。風励鼓行ふうれいここうして、やむなく城下じょうかちかいをなさしむるは策のもっともぼんなるものである。みつを含んで針を吹き、酒をいて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。拈華ねんげ一拶いっさつは、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ躊躇ちゅうちょする事刹那せつななるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼにまよいと書き、まどいと書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云うに引き上げる。下界万丈げかいばんじょう鬼火おにびに、なまぐさき青燐せいりんを筆の穂に吹いて、会釈えしゃくもなくえがいだせる文字は、白髪しらがたわしにして洗っても容易たやすくは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻すわけには行くまい。
小野おのさん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、くずれた口元を立て直すいとまもない。唇にえみを帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、手持無沙汰てもちぶさたに草書にくずしたまでであって、崩したものの尽きんとする間際まぎわに、崩すべき第二の波の来ぬのをわずらっていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く咽喉のどすべり出たのである。女はもとより曲者くせものである。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句をいだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものもうつらぬ男の眼には、二の句はもとより愚かである。
 女はまだなんにも言わぬ。とこけた容斎ようさいの、小松にまじ稚子髷ちごまげの、太刀持たちもちこそ、むかしから長閑のどかである。狩衣かりぎぬに、鹿毛かげなるこま主人あるじは、事なきにれし殿上人てんじょうびとの常か、動く景色けしきも見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これがれれば、また継がねばならぬ。男は気息いきらして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面ほそおもてに予期のじょうみなぎらして、重きに過ぐる唇の、ぐうかを疑がいつつも、手答てごたえのあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向ってける弓の、危うくもが頭の上に、瓢箪羽ひょうたんばを舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引きえて、女は始めより、わが前にわれる人の存在を、ひざひらける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、はく美しと見つけた時、今たずさえたる男の手から※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ取るようにして、読み始めたのである。
 男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は羅馬ロウマへ行くつもりなんでしょうか」
 女はに落ちぬ不快の面持おももちで男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく納得なっとくする。小野さんは暗い隧道トンネルかろうじて抜け出した。
沙翁シェクスピヤの書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
 小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗ってけ出そうとする。魚はふちおどる、とびは空に舞う。小野さんは詩のくにに住む人である。
 稜錐塔ピラミッドの空をく所、獅身女スフィンクスの砂を抱く所、長河ちょうが鰐魚がくぎょを蔵する所、二千年の昔妖姫ようきクレオパトラの安図尼アントニイと相擁して、駝鳥だちょう※(「翌の立に代えて妾」、第4水準2-84-92)※(「たけかんむり/捷のつくり」、第4水準2-83-53)しょうしょうに軽く玉肌ぎょっきを払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁のいたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、紫色むらさきいろのクレオパトラが眼の前にあざやかに映って来ます。げかかった錦絵にしきえのなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長きそでを、さっとさばいて、小野さんの鼻の先にひるがえす。小野さんの眉間みけんの奥で、急にクレオパトラのにおいがぷんとした。
「え?」と小野さんは俄然がぜんとして我に帰る。空をかすめる子規ほととぎすの、も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動けるあやしき色は、く収まって、美くしい手は膝頭ひざがしらに乗っている。脈打みゃくうつとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
 ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々れんれんと遠のくあとを追うて、小野さんの心は杳窕ようちょうの境にいざなわれて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息ためいきの恋じゃありません。暴風雨あらしの恋、こよみにもっていない大暴雨おおあらしの恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋をると紫色の血が出るというのですか」
「恋がおこると九寸五分が紫色にひかると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
沙翁シェクスピヤいた所をわたしが評したのです。――安図尼アントニイ羅馬ロウマでオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道しらせを持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬しっとで濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及エジプトの日でげると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言うもなく長いそでが再びひらめいた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔をながめている。
「そこでクレオパトラがどうしました」とおさえた女は再び手綱たづなゆるめる。小野さんはけ出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、なじり方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のようにせいが高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮ついきゅうします。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ御婆おばあさんね」
 女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しきえくぼのなかにき込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すればいつわりになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。しろい歯に交る一筋の金の耀かがやいてまた消えんとする間際まぎわまで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事をうから知っている。
 美しき女の二十はたちを越えておっとなく、むなしく一二三を数えて、二十四の今日きょうまでとつがぬは不思議である。春院しゅんいんいたずらにけて、花影かえいおばしまにたけなわなるを、遅日ちじつ早く尽きんとする風情ふぜいと見て、こといだいてうらみ顔なるは、嫁ぎおくれたる世の常の女のならいなるに、麈尾ほっすに払う折々の空音そらねに、琵琶びわらしき響を琴柱ことじに聴いて、本来ならぬ音色ねいろを興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。仔細しさいもとより分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々にのぞき込んで、いらざる臆測おくそくに、うやむやなる恋の八卦はっけをひそかにうらなうばかりである。
「年を取ると嫉妬しっとが増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
 小野さんはまた面喰めんくらう。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられるわけがない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に堪能かんのうなる文学者である。
「そうですね。やっぱり人にるでしょう」
 かどを立てない代りに挨拶あいさつは濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬しっとなんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
 女の声は静かなる春風はるかぜをひやりとった。詩の国に遊んでいた男は、急に足をはずして下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高いがけの上から、こちらを見下みおろしている。自分をこんな所に蹴落けおとしたのは誰だと考える暇もない。
清姫きよひめじゃになったのは何歳いくつでしょう」
左様さよう、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
安珍あんちんは」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳おいくつでしたかね」
わたしですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同おなどしでした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽどけて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何かおごりましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
可愛想かわいそうに」
「可愛らしいんですよ」
 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台のきわまりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかはもとより知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものはかならず女である。男は必ず負ける。具象ぐしょうかごの中にわれて、個体のあわついばんでは嬉しげに羽搏はばたきするものは女である。籠の中の小天地で女と鳴くを競うものは必ずたおれる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴きそこねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍あんちんのようなの」
「安珍はひどい」
 許せと云わぬばかりに、今度は受けめた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭おいやなの」
わたしは安珍のように逃げやしません」
 これを逃げ損ねの受太刀うけだちと云う。坊っちゃんはを見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のようにけますよ」
 男は黙っている。
じゃになるには、少し年がけ過ぎていますかしら」
 時ならぬ春の稲妻いなずまは、女を出でて男の胸をするりととおした。色は紫である。
藤尾ふじおさん」
「何です」
 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷はみどり濃き植込にへだてられて、往来に鳴る車の響さえかすかである。寂寞せきばくたる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁ちゃべりの畳を境に、二尺をへだてて互に顔を見合した時、社会は彼らのかたえを遠く立ち退いた。救世軍はこの時太鼓をたたいて市中を練りるいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息いきを引き取ろうとしている。露西亜ロシアでは虚無党きょむとうが爆裂弾を投げている。停車場ステーションでは掏摸すりつらまっている。火事がある。赤子あかごが生れかかっている。練兵場れんぺいばで新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾のあにさんと宗近君は叡山えいざんに登っている。
 花のさえ重きに過ぐる深きちまたに、呼びわしたる男と女の姿が、死の底にり込む春の影の上に、明らかにおどりあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せきたる心臓のとびらは、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女なんにょを、躍然と大空裏たいくうりえがき出している。二人の運命はこの危うき刹那せつなさだまる。東か西か、微塵みじんだにたいを動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然べきぜんたる爆発物がげ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体からだ二塊ふたかたまり※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおである。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利じゃりきしる車輪がはたと行き留まった。ふすまを開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢はくずれた。
「母が帰って来たのです」と女はすわったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然はっきと外にあらわさぬうちは罪にはならん。取り返しのつくなぞは、法庭ほうていの証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人なんびと後指うしろゆびす事は出来ぬ。出来れば向うがるい。天下はあくまでも太平である。
御母おっかさんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ちける前に居住いずまいをちょっとつくろい直す。洋袴ズボンひだの崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、っかいぼうに、尻を挙げるための、膝頭ひざがしらそろえた両手は、雪のようなカフスにこうまでおおわれて、くすんだ鼠縞ねずみじまの袖の下から、七宝しっぽう夫婦釦めおとボタンが、きらりと顔を出している。
「まあ御緩ごゆっくりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色けしきもない。男はもとより尻を上げるのはいやである。
「しかし」と云いながら、隠袋かくしの中をぐって、太い巻煙草まきたばこを一本取り出した。煙草の煙は大抵のものをまぎらす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産エジプトさんである。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰をえ直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでもつづめる便たよりが出来んとも限らぬ。
 薄い煙りの、黒い口髭くちひげを越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀ていねいな命令を下した。
 男は無言のまま再びひざくずす。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりでさむしくっていけません」
「甲野君はいつごろ御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
御音信おたよりが有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに御出おいでになればよかったのに」
わたしは……」と小野さんは後をかしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い御馴染おなじみじゃありませんか」
「え?」
 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的真面目まじめになって、埃及煙草エジプトたばこを肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
御母おっかさんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
わたしはもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が御在おありになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと御免蒙ごめんこうむります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。平床ひらどこに据えた古薩摩こさつま香炉こうろに、いつき残したる煙のあとか、こぼれた灰の、灰のままにくずれもせず、藤尾の部屋は昨日きのうも今日も静かである。敷き棄てた八反はったん座布団ざぶとんに、ぬしを待つ温気ぬくもりは、軽く払う春風に、ひっそりかんと吹かれている。
 小野さんは黙然もくねん香炉こうろを見て、また黙然と布団を見た。くず格子ごうしの、畳から浮く角に、何やら光るものが奥にはさまっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今まではとんと気がつかなかった。藤尾の立つ時に、絹障きぬざわりのしなやかに、布団ふとんれて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下をのぞいて見た。松葉形まつばがたつなぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる七子ななこふちかすかに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
 金は色の純にして濃きものである。富貴ふうきを愛するものは必ずこの色を好む。栄誉をこいねがうものは必ずこの色をえらむ。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。磁石じしゃくの鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき護謨ゴムである。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
 折柄おりから向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、がりえんを伝わって近づいて来る。小野さんはのぞき込んだ眼を急にらして、素知らぬ顔で、容斎ようさいじくを真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
 黒縮緬くろちりめんの三つ紋をがたに着こなして、くすんだ半襟はんえりに、まげばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と御母おっかさんは軽く会釈えしゃくして、椽に近く座を占める。うぐいすも鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が始終しじゅう御厄介ごやっかいになりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ御楽おらくに――いつも御挨拶ごあいさつを申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に赤児ねんねで、困り切ります、駄々ばかりねまして――でも英語だけは御蔭おかげさまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟はかんものと見えまして――」
 御母さんの弁舌は滾々こんこんとしてみごとである。小野さんは一字の間投詞をさしはさいとまなく、口車くちぐるまに乗ってけて行く。行く先はもとより判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いてつづきを読んでいる。
「花を墓に、墓に口を接吻くちづけして、きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯をこそと召す。ゆあみしたるのち夕餉ゆうげをこそと召す。この時いやしき厠卒こものありて小さきかご無花果いちじくを盛りて参らす。女王の該撒シイザアに送れるふみに云う。願わくは安図尼アントニイと同じ墓にわれをうずめたまえと。無花果いちじくの繁れる青き葉陰にはナイルのつち※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおしたを冷やしたる毒蛇どくだを、そっと忍ばせたり。該撒シイザアの使は走る。たつを排してまなこを射れば――黄金こがねの寝台に、位高きよそおいを今日とらして、女王のしかばねは是非なくよこたわる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王のかしらのあたりに、月黒きの露をあつめて、千顆せんかたまを鋳たるかんむりの、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及エジプト御代みよしろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目をねむる」
 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、むる錬香ねりこうの尽きなんとしてかすかなる尾を虚冥きょめいくごとく、まったページが淡くかすんで見える。
「藤尾」と知らぬ御母おっかさんは呼ぶ。
 男はやっと寛容くつろいだ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は俯向うつむいている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ廂髪ひさしがみの、白い額につづく下から、骨張らぬ細い鼻をけて、くれないすんに織る唇が――唇をそとすべって、ほおの末としっくり落ち合う※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごが――※(「月+咢」、第3水準1-90-51)ててなよやかに退いて行く咽喉のどが――しだいと現実世界にり出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変奇麗きれいな――よごさないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口をひらいた。
「いえ、あなた、どうもわがままものの寄り合いだもんでござんすから、始終しじゅう、小供のように喧嘩けんかばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある恐喝きょうかつ手段は長者ちょうしゃの好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。玩具おもちゃの九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へげたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの眉間みけんへ向けてげつけた。御母さんは苦笑にがわらいをする。小野さんは口をく。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と御母おっかさんは遠廻しに棄鉢すてばちになった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、始終しじゅう身体からだが悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして判然はきはきしたらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々をねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出してもらいました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の呑気屋のんきやで、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、御前おまいさっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く諸膝もろひざななめに立てて、青畳の上に、八反はったん座布団ざぶとんをさらりとべらせる。富貴ふうきの色は蜷局とぐろを三重に巻いた鎖の中に、うずたか七子ななこふたを盛り上げている。
 右手をべて、輝くものを戛然かつぜんと鳴らすよと思うに、たなごころより滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さにめられると、余る力を横に抜いて、はじにつけた柘榴石ガーネットの飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波はくれないたまに女の白きかいなを打つ。第二の波は観世かんぜに動いて、軽く袖口そでくちにあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女はと立ち上がった。
 奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、く動く景色けしきを、茫然ぼうぜんながめていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
御母おかあさん」とうしろかえりみながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云ってもとの席に返る。小野さんの胴衣チョッキの胸には松葉形に組んだ金の鎖が、ボタンの穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に燦爛さんらん耀かがやいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほどく似合いますね」と御母おっかさんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんはけむに巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計をはずしてしまった。

        三

 やなぎ※(「享+單」、第4水準2-4-50)れて条々じょうじょうの煙をらんに吹き込むほどの雨の日である。衣桁いこうけたこんの背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋くつたび三分一さんぶいち裏返しに丸く蹲踞うずくまっている。違棚ちがいだなせまい上に、偉大な頭陀袋ずだぶくろえて、締括しめくくりのないひもをだらだらとものうくも垂らしたかたわらに、錬歯粉ねりはみがき白楊子しろようじが御早うと挨拶あいさつしている。立て切った障子しょうじ硝子ガラスを通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近むねちか君は貸浴衣かしゆかたの上に銘仙めいせんの丹前を重ねて、床柱とこばしらの松の木を背負しょって、傲然ごうぜん箕坐あぐらをかいたまま、外をのぞきながら、甲野こうのさんに話しかけた。
 甲野さんは駱駝らくだ膝掛ひざかけを腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔のむきを換えると、くしを入れたてのれた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋くつたびといっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へに来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母おっかさんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あのがくの字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※雨※風せんうしゅうふう[#「にんべん+孱」、51-3][#「にんべん+愁」、51-3]か。見た事がないな。何でも人扁にんべんだから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこのふすまが面白いよ。一面に金紙きんがみを張り付けたところは豪勢だが、ところどころにしわが寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居どんちょうしばい道具立どうぐだて見たようだ。そこへ持って来て、たけのこを三本、景気にいたのは、どう云う了見りょうけんだろう。なあ甲野さん、これはなぞだぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものがいてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂きちがいの発明した詰将棋つめしょうぎの手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工えかきが描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理じりが分ったら煩悶はんもんもなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話むかしばなしにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深しゅうねんぶかい人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納ほうのうしたところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車のながえと横木をかずらゆわいた結び目を誰がどうしてもく事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目ノットをアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方のていたらんと云う神託しんたくを聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見りょうけんがなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯ひきょうなものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなにえらいと思ってるのか」
 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐あぐらのまま旅行案内をひろげる。雨はななめに降る。
 古い京をいやが上にびよと降る糠雨ぬかあめが、赤い腹を空に見せていと行く乙鳥つばくらこたえるほど繁くなったとき、下京しもきょう上京かみきょうもしめやかにれて、三十六峰さんじゅうろっぽうみどりの底に、音は友禅ゆうぜんべにを溶いて、菜の花にそそぐ流のみである。「御前おまえ川上、わしゃ川下で……」とせりを洗う門口かどぐちに、まゆをかくす手拭てぬぐいの重きを脱げば、「大文字だいもんじ」が見える。「松虫まつむし」も「鈴虫すずむし」も幾代いくよの春を苔蒸こけむして、うぐいすの鳴くべきやぶに、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門らしょうもんに、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取りこぼたれた。つな※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎとった腕の行末ゆくえは誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨はるさめが降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園ぎおんでは桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
 甲野さんは寝ながら日記をけだした。横綴よことじの茶の表布クロースの少しは汗にごれたかどを、折るようにあけて、二三枚めくると、一ページさんいちほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆をって景気よく、
一奩いちれん楼角雨ろうかくのあめ閑殺かんさつす古今人ここんのひと
と書いてしばらく考えている。転結てんけつを添えて絶句にする気と見える。
 旅行案内をほうり出して宗近君はずしんと畳を威嚇おどかして椽側えんがわへ出る。椽側には御誂向おあつらえむきに一脚の椅子いすが、人待ち顔に、しめっぽくえてある。※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうまばらなる花の間からとなの座敷が見える。障子しょうじは立て切ってある。うちでは琴のがする。
たちまちきく[#「耳+吾」、56-1]弾琴響だんきんのひびき垂楊すいよう惹恨うらみをひいてあらたなり
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙はなぞである。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭はくとう※(「にんべん+亶」、第3水準1-14-43)※(「にんべん+回」、第3水準1-14-18)せんかいし、中夜ちゅうや煩悶はんもんするために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
 宗近君は椅子いす横平おうへいな腰を据えてさっきから隣りのことを聴いている。御室おむろ御所ごしょ春寒はるさむに、めいをたまわる琵琶びわの風流は知るはずがない。十三絃じゅうさんげんを南部の菖蒲形しょうぶがたに張って、象牙ぞうげに置いた蒔絵まきえした気高けだかしと思う数奇すきたぬ。宗近君はただ漫然といているばかりである。
 滴々てきてきと垣をおお※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうな向うは業平竹なりひらだけ一叢ひとむらに、こけの多い御影のいを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔えいざんごけわしている。琴のはこの庭から出る。
 雨は一つである。冬は合羽かっぱこおる。秋は灯心が細る。夏はふどしを洗う。春は――平打ひらうち銀簪ぎんかんを畳の上に落したまま、貝合かいあわせの貝の裏が朱と金とあいに光るかたわらに、ころりんとき鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳にくは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥にとらえたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空ほんらいくうの不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
 琴の手は次第に繁くなる。雨滴あまだれ絶間たえまうて、白い爪が幾度かこまの上を飛ぶと見えて、こまやかなる調べは、太き糸のと細き音をり合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃むげんの琴をいて始めて序破急じょはきゅうの意義を悟る」と書き終った時、椅子いすもたれて隣家となりばかりを瞰下みおろしていた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟りくつばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなかうまいぜ」
椽側えんがわから部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっとえんまで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色けしきがない。
「おい、どうも東山が奇麗きれいに見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川かもがわわたやつがある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団ふとん着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩みずかさが増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちてもつかえなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖きんぶすまたけのこを横にながめ始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとうを折って部屋の中へ這入はいって来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
幾何いくつだと思う」
幾歳いくつだかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然はっきり云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田しまだだよ」
「座敷でもいてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減いいかげんな雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そらきたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこのたけのこを研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、せいが低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙からかみに三本いたのは、どう云う因縁いんねんだろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の真青まっさおなのはなぜだろう」
「食うと中毒あたると云うなぞなんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎をくじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、あとから頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。昨日きのうね、僕が湯から上がって、椽側えんがわで肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく鴨東おうとう景色けしきを見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が障子しょうじを半分開けて、開けた障子にたれかかって庭を見ていたのさ」
別嬪べっぴんかね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが糸公いとこうより好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、あんまり他愛たあいが無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから椽側えんがわまで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうちくかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものはかすみに酔ってぽうっとしているばかりで、霞をひらいて本体を見つけようとしないから性根しょうねがないよ」
「霞のぱらいか。哲学者は余計な事を考え込んでにがい顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように叡山えいざんへ登るのに、若狭わかさまで突きける男は白雨ゆうだちの酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
 甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。光沢つやのある髪で湿しめっぽくし付けられていた空気が、弾力でふくれ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に駱駝らくだ膝掛ひざかけり落ちながら、裏を返して半分はんぶに折れる。下から、だらしなく腰にき付けた平絎ひらぐけの細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元にかしこまった宗近君は、即座に品評を加えた。相手はせた体躯からだを持ち上げたひじを二段にのばして、手の平に胴をささえたまま、自分で自分の腰のあたりをめ廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしくかしこまってるじゃないか」と一重瞼ひとえまぶたの長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
居住いずまいだけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
どてらを着て跪坐かしこまってるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは酔払よっぱらいらしくするがいい」
「そうか、それじゃ御免蒙ごめんこうむろう」と宗近君はすぐさま胡坐あぐらをかく。
「君は感心にを主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど片腹かたはら痛い事はないものだ」
いさめに従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんはさびし気に笑った。勢込いきおいこんで喋舌しゃべって来た宗近君は急に真面目まじめになる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑はいふに入る。面上の筋肉が我勝われがちにおどるためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻いなずまを起すためでもない。涙管るいかんの関が切れて滂沱ぼうだの観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わしてゆかるようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、とらえがたいなさけの波が、心の底からかろうじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来にころがっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、つらまえた人が勝ちである。捕まえそこなえば生涯しょうがい甲野さんを知る事は出来ぬ。
 甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、そのすみやかなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生はあきらかにえがき出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己ちきである。ったったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点がてんするようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格をえがき出すのは野暮やぼな小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
 春の旅は長閑のどかである。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は駱駝らくだ膝掛ひざかけ馬簾ばれんをひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、独語ひとりごとのように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、阿爺おやじが生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、うちを藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家をいだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母おばさんが困るだろう」
「母がか」
 甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
 疑がえばおのれにさえあざむかれる。まして己以外の人間の、利害のちまたに、損失の塵除ちりよけかぶる、つらの厚さは、容易にははかられぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う了見りょうけんか。己にさえ、己を欺く魔の、どこにかひそんでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂濶うかつには天機をらしがたい。宗近のことは継母に対するわが心の底を見んためのかまか。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌をけるほどの男ならば、思う通りを引き出したあとで、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率しんそつなる彼の、裏表の見界みさかいなく、母の口占くちうら一図いちずにそれと信じたる反響か。平生へいぜいのかれこれからして見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしきふちの底に、詮索さぐりおもりを投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損みそくなった母の意をけて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程きてい以前に、家庭のなかにける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口はくまい。
 二人はしばらく無言である。隣家となりではまだこといている。
「あの琴は生田流いくたりゅうかな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の袖無ちゃんちゃんでも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
 丹前の胸を開いて、違棚ちがいだなの上から、例の異様な胴衣チョッキを取り下ろして、たいななめに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その袖無ちゃんちゃんは手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。うまいもんだ。御糸おいとさんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。彼奴あいつが嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと御叔父おじさんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから御母おっかさんの云う通りに君がうちいで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕はいやなんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
 宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「またはもを食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実にな所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の嗅覚きゅうかくは非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると阿爺おやじも外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の佐伯さえきと云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。倫敦ロンドンで買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の玩具おもちゃになった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あのくさりに着いている柘榴石ガーネットが気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの片身かたみに僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
 甲野さんは、だまって宗近君のまゆの間を、長い事見ていた。御昼のぜんの上には宗近君の予言通りはもが出た。

        四

 甲野こうのさんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
 小野さんは色を見て世を暮らす男である。
 甲野さんの日記の一筋にまた云う。
生死因縁しょうしいんねん無了期りょうきなし色相世界しきそうせかい現狂癡きょうちをげんず
 小野さんは色相しきそう世界に住する男である。
 小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。筒袖つつそでを着て学校へ通う時から友達にいじめられていた。行く所で犬にえられた。父は死んだ。外でひどい目にった小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
 水底みなそこは、暗い所にただようて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右にうごこうが、ひだりになびこうがなぶるは波である。ただその時々にさからわなければ済む。れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考えるひまもない。なぜ波がつらくおのれにあたるかは無論問題にはのぼらぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所にえていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
 京都では孤堂こどう先生の世話になった。先生からかすりの着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園ぎおんの桜をぐるぐるまわる事を知った。知恩院ちおんいん勅額ちょくがくを見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前いちにんまえは食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
 東京は目のくらむ所である。元禄げんろくの昔に百年の寿ことぶきを保ったものは、明治のに三日住んだものよりも短命である。余所よそでは人がかかとであるいている。東京では爪先つまさきであるく。逆立さかだちをする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
 きりきりと回ったあとで、眼を開けて見ると世界が変っている。眼をすっても変っている。変だと考えるのはるく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計をたまわった。浮かび出したは水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
 世界は色の世界である。ただこの色をあじわえば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれてあざやかに眼にうつる。鮮やかなる事錦をあざむくに至って生きて甲斐かいある命はとうとい。小野さんの手巾ハンケチには時々ヘリオトロープのにおいがする。
 世界は色の世界である、形は色の残骸なきがらである。残骸をあげつらって中味のうまきを解せぬものは、方円のうつわかかわって、盛り上る酒のあわをどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに見極みきわめても皿は食われぬ。くちびるを着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義のさかずきいだいて、路頭に跼蹐きょくせきしている。
 世界は色の世界である。いたずらに空華くうげと云い鏡花きょうかと云う。真如しんにょの実相とは、世にれられぬ畸形きけいの徒が、容れられぬうらみを、黒※郷裏こくてんきょうり[#「甘+舌」、72-14]に晴らすための妄想もうぞうである。盲人はかなえでる。色が見えねばこそ形がきわめたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作しょさである。小野さんの机の上には花がけてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡めがねが掛かっている。
 絢爛けんらんの域をえて平淡にるは自然の順序である。我らはむかし赤ん坊と呼ばれて赤いべべを着せられた。大抵たいていのものは絵画にしきえのなかに生い立って、四条派しじょうはの淡彩から、雲谷うんこく流の墨画すみえに老いて、ついに棺桶かんおけのはかなきに親しむ。かえりみると母がある、姉がある、菓子がある、こいのぼりがある。顧みれば顧みるほど華麗はなやかである。小野さんはおもむきが違う。自然の径路けいろさかしまにして、暗い土から、根を振り切って、日のとおる波の、明るいなぎさただようて来た。――あなの底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の節穴ふしあなからのぞいて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点のくれないがほのかにうごいている。東京へたてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのもいとわず、たびたび過去の節穴を覗いては、長きを、永き日を、あるは時雨しぐるるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ遠退とおのいた。その上、色もよほどめた。小野さんは節穴を覗く事をおこたるようになった。
 過去の節穴をふさぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇ばらである。薔薇のつぼみである。小野さんは未来を製造する必要はない。つぼんだ薔薇を一面に開かせればそれがおのずからなる彼の未来である。未来の節穴を得意のくだからながめると、薔薇はもう開いている。手を出せばつらまえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳のそばで云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
 論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、かならず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色こんじきに燃えている。博士の傍には金時計が天からかかっている。時計の下には赤い柘榴石ガーネットが心臓のほのおとなって揺れている。そのわきに黒い眼の藤尾さんがほそい腕を出して手招てまねぎをしている。すべてが美くしいである。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
 むかしタンタラスと云う人があった。わるい事をしたばちで、ひどい目にうたと書いてある。身体からだは肩深く水にひたっている。頭の上にはうまそうな菓物くだもの累々るいるいと枝をたわわに結実っている。タンタラスは咽喉のどかわく。水を飲もうとすると水が退いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺すすむと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っけて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長いまゆを押しつけたように短かくして、きっにらめている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなってげながら暗くなる事がある。時計がはるかな天から隕石いんせきのように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来をえがき出す。
 机の前に頬杖ほおづえを突いて、色硝子いろガラス一輪挿いちりんざしをぱっとおお椿つばきの花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手ひらてでたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですとむこうをむいて、すたすた歩き出す」
 小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻ざんこくなのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごを持ち上げると、障子しょうじが、すうといて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流すごうりゅうにかいた名宛なあてを見た時、小野さんは、急に両肱りょうひじに力を入れて、机に持たしたたいねるようにうしろへ引いた。未来を覗く椿つばきくだが、同時に揺れて、唐紅からくれない一片ひとひらがロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。まったき未来は、はやくずれかけた。
 小野さんは机に添えてひだりの手をしたまま、顔をななめに、受け取った封書をてのひらの上に遠くからながめていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当けんとうはついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつてかめのこに聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅こうらの中に立てこもる。打たれる運命を眼前に控えた間際まぎわでも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸いっすんのがれる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
 ややしばらく眺めていると今度は掌がむずゆくなる。一刻の安きをむさぼったあとは、安きおもいを、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上にぎゃくに置いた。裏から井上孤堂いのうえこどうの四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した草字そうじは、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
 小野さんはさわらぬ神にたたりなしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机とひざとは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
 封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人をげて見ないうちはどうも柔術家たる所以ゆえんを自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
 二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気のんきうらやましいと思う。――椿の花片はなびらがまた一つ落ちた。
 一輪挿いちりんざしを持ったまま障子をけて椽側えんがわへ出る。花は庭へてた。水もついでにあけた。花活はないけは手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。ひのきがある。へいがある。むこうに二階がある。乾きかけた庭に雨傘がしてある。じゃの目の黒いふち落花らっか二片ふたひらへばりついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
 小野さんは重い足を引きってまた部屋のなかへ這入はいって来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴ふしあながすうといて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰をかがめて手を伸ばすや否や封を切った。
「拝啓柳暗花明りゅうあんかめいの好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀がしたてまつりそうろう。小生も不相変あいかわらず頑強がんきょう小夜さよも息災に候えば、乍憚はばかりながら御休神可被下くださるべくそうろう。さて旧臘きゅうろう中一寸申上候東京表へ転住の義、其後そのご色々の事情にてはかどりかね候所、此程に至り諸事好都合にらちあき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度くだされたくそうろう。二十年ぜんに其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留とうりゅうの外は、全く故郷の消息にうとく、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住みるしたる住宅は隣家蔦屋つたやにて譲り受け度旨たきむね申込もうしこみ有之これあり、其他にも相談の口はかかり候えども、此方こちらに取り極め申候。荷物其他嵩張かさばり候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持のこと一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。ふるきを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下くださるべくそうろう
「御承知のとおり小夜は五年ぜん当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住のすみやかなる事を希望致し居候。同人行末ゆくすえの義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述もうしのべず。追て其地にて御面会の上とくと御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓ざっとうの事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車をえらみたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層いっそ途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致いたすべくそうろう。まずは右当用迄匆々そうそう不一」
 読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいたはじが青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行きどまった時、やむを得ず、ひとみを転じてロゼッチの詩集をながめた。詩集の表紙の上に散った二片ふたひらくれないも眺めた。紅に誘われて、右のかどに在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日おととい挿した椿つばきは影も形もない。うつくしい未来を覗くくだが無くなった。
 小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ちのぼる。一種古ぼけた黴臭かびくさいにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇ちゅうちょする毛筋の末を引いて、細いえにしに、絶えるほどにつながるる今と昔を、のあたりに結び合わすにおいである。
 半世の歴史を長き穂の心細きまでさかしまに尋ぬれば、さかのぼるほどに暗澹あんたんとなる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れの末に、きりの力のとがれるをさいわいと、記憶の命を突きとおすは要なしと云わんよりむしろ無惨むざんである。ジェーナスの神は二つの顔に、うしろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。そびらを過去に向けた上は、眼に映るは煕々ききたる前程のみである。うしろを向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日きのうきょう、寒い所から、寒いものが追っけて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖くあざやかなるうちに、おのれをき込んで、一歩でも過去を遠退とおのけばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かにちりばめられて、動くかとは掛念けねんしながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸をでていた。ところが、昔しながらとたかをくくって、過去のくだを今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。せまって来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗りえて、暗夜やみよを照らす提灯ちょうちんの火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
 自然は自然を用い尽さぬ。きわまらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分はんぷんと立たぬうちに、障子しょうじから下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見てみだりに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
 小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
 小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌あいきょうがあるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文はんもんの価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日こんにちまで下女の人望をつないだのも全くこの自覚にもとづく。小野さんは下女の人望をさえみだりに落す事を好まぬほどの人物である。
 同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事あたわずとむかしの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退いて不安が這入はいる。下女はるいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃つけやきばで不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主いえぬしが這入るについて、愛嬌が示談じだんの上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、い。し好し」
 友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったりうしろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
 往来で人と往き合う事がある。双方でちょっとたいわせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気をえて反対へ出る。反対と反対が鉢合はちあわせをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子ふりこのようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りのるい野郎だと悪口わるくちが云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
 そこへ浅井君が這入はいってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手でつぶすように握って、畳の上へほうり出すや否や
「ええ天気だな」と胡坐あぐらをかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。昨日きのう行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は露西亜ロシア料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜ロシア料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻さっきだった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおってっくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たらゆっくり話そうと思うんだね。そう向うだけで一人ひとりぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分昔堅気むかしかたぎだからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。一徹いってつなんだ」
「近頃は家計くらしの方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時なんじかな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
うまい事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
 門口かどぐちで分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。

        五

 山門を入る事一歩にして、古き世のみどりが、急に左右から肩を襲う。自然石じねんせき形状かたち乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、錯落さくらくと平らかに敷き詰めたるこみちに落つる足音は、甲野こうのさんと宗近むねちか君の足音だけである。
 一条いちじょうの径の細くすぐなるを行き尽さざる此方こなたから、石に眼を添えてはるかなる向うをきわむる行き当りに、あおげば伽藍がらんがある。木賊葺とくさぶきの厚板が左右から内輪にうねって、だいなる両の翼を、けわしき一本の背筋せすじにあつめたる上に、今一つ小さき家根やねが小さき翼をして乗っかっている。風抜かざぬきか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの精舎しょうじゃを、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんはつえとどめた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり恰好かっこううまくそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる理形フォームかなってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
舟板塀ふないたべい趣味しゅみ御神灯ごじんとう趣味しゅみとは違うさ。夢窓国師むそうこくしが建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を逍遥しょうようする価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も家根やねになって明治まで生きていれば結構だ。安直あんちょくな銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、一目瞭然いちもくりょうぜんだ」
「何が」
「何がって、この境内けいだい景色けしきがさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ這入はいると好い気持ちになるんだろう」
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池れんちに渡した石橋せっきょう欄干らんかんに尻をかける。欄干の腰には大きな三階松さんがいまつが三寸の厚さをかして水に臨んでいる。石にはこけが薄青く吹き出して、灰を交えたむらさきの質に深く食い込む下に、枯蓮かれはすじくがすいすいと、去年のしも弥生やよいの中に突き出している。
 宗近君は燐寸マッチを出して、煙草たばこを出して、しゅっと云わせた燃え残りを池の水に棄てる。
「夢窓国師はそんな悪戯いたずらはしなかった」と甲野さんは、※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごの先に、両手でつえかしらを丁寧に抑えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の真似まねをするが好い」
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と北京ペキンへ駐在する事にするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の阿爺おやじぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は我儘わがまま過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
 今までは真面目の上に冗談じょうだんの雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少しうしろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま風邪かぜなおれば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と露西亜ロシアの戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
亜米利加アメリカを見ろ、印度インドを見ろ、亜弗利加アフリカを見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬに殺されているんだ」
 すべてを爪弾つまはじきした甲野さんは杖の先で、とんと石橋せっきょうたたいて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩山がざんと云う坊主は一椀の托鉢たくはつだけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横にはしたてにする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
 世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右にさっひらいた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨さがの春を傾けて、京の人は繽紛絡繹ひんぷんらくえき嵐山らんざんに行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
 天竜寺てんりゅうじの門前を左へ折れれば釈迦堂しゃかどうで右へ曲れば渡月橋とげつきょうである。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場ステーションの方へ旅衣たびごろも七日なのか余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。二条にじょうから半時はんときごとに花時をあだにするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢たいせいを忘れている。京ほどに女の綺羅きらを飾る所はない。天下の大勢も、京女きょうおんなの色にはかなわぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性セックスの感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに厭味いやみがない」
「どうも淡粧あっさりして、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。至極しごく御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあかったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するからいやになっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた了見りょうけんを洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
 甲野さんは返事をする代りに、売店にならべてある、抹茶茶碗まっちゃぢゃわんを見始めた。土をねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとくとぼけている。
「そんなとぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げてながめているそでを、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れたかけを土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
 甲野さんは土間の敷居をまたぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あのことの主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は無残むざんな事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃおっつかない。壊してしまわなけりゃ直らない厄介物やっかいぶつだ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとくたたき壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
 二人は茶碗の代を払って、停車場ステーションへ来る。
 浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨さがより二条にじょうに引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波たんばへ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡かめおかに降りた。保津川ほづがわ急湍きゅうたんはこの駅よりくだおきてである。下るべき水は眼の前にまだゆるく流れて碧油へきゆうおもむきをなす。岸は開いて、里の子の土筆つくしも生える。舟子ふなこは舟をなぎさに寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、こべりは尺と水を離れぬ。赤い毛布けっとに煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭のかずは四人である。真っ先なるは、二間の竹竿たけざおづく二人は右側にかい、左に立つは同じく竿である。
 ぎいぎいとかいが鳴る。粗削あらけずりにたいらげたるかし頸筋くびすじを、太い藤蔓ふじづるいて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手のふしたかきは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんとく力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根くびねを抑えられた櫂が、くごとにしわりでもする事か、こわうなじ真直ますぐに立てたまま、藤蔓とれ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
 岸は二三度うねりを打って、音なき水を、とどまる暇なきに、前へ前へと送る。かさなる水のしじまって行く、こうべの上には、山城やましろ屏風びょうぶと囲う春の山がそびえている。せまりたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡さんきょうに入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭のたいかして岩と岩のせまる間を半丁のむこうに見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、ふなばたから首を出した時、船ははや瀬の中にすべり込んだ。右側の二人はすわと波を切る手をゆるめる。かいは流れて舷に着く。へさきに立つは竿さおよこたえたままである。かたむいて矢のごとく下る船は、どどどときざみ足に、船底に据えた尻に響く。われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君がゆびさうしろを見ると、白いあわが一町ばかり、か落しにみ合って、谷をかすかな日影を万顆ばんかたま我勝われがちに奪い合っている。
さかんなものだ」と宗近君は大いに御意ぎょいに入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
 船頭は至極しごく冷淡である。松を抱くいわの、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、さおあやつり去る。通る瀬はさまざまにめぐる。廻るごとに新たなる山は当面におどり出す。石山、松山、雑木山ぞうきやまと数うるいとま行客こうかくに許さざるき流れは、船をってまた奔湍ほんたんに躍り込む。
 大きな丸い岩である。こけを畳むわずらわしさを避けて、むらさき裸身はだかみに、ちつけて散る水沫しぶきを、春寒く腰から浴びて、緑りくずるる真中に、舟こそ来れと待つ。舟はたても物かは。一図いちずにこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲うずまいて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。けずられて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末ゆくえである。岩に突き当って砕けるか、き込まれて、見えぬ彼方かなたにどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波をむ岩の太腹にもぐり込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手ががると共に舟はぐうと廻った。この獣奴けだものめと突き離す竿の先から、岩のすそを尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
 急灘きゅうなんを落ち尽すとむこうから空舟からふねのぼってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命のこぶしを収めて、肩から斜めに目暗縞めくらじまからめた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟をいて来る。水行くほかに尺寸せきすんの余地だに見出みいだしがたき岸辺を、石に飛び、岩にうて、穿草鞋わらんじり込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手はかれてそそぐ渦の中に指先をひたすばかりである。うんと踏ん張る幾世いくよの金剛力に、岩は自然じねんり減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱ひきづなをわが勢にさからわぬほどに、すべらすためのはかりごとと云う。
「少しはおだやかになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山のはるかの上に、なたの音が丁々ちょうちょうとする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏のどぼとけを突き出して峰を見上げた。
れると何でもするもんだね」と相手も手をかざして見る。
「あれで一日働いて若干いくらになるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いてようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつにはしっている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。ねがわくは船頭のさおを借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏じょうぶつしている時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ちった。
「そう困った日にゃほうが付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
肝胆相照かんたんあいてらすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものにちがいない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
 甲野さんは黙然もくねんとして、船の底を見詰めた。言うものは知らずとむかし老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川ほづがわと肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手をたたく。
 乱れ起る岩石を左右に※(「榮の木に代えて糸」、第3水準1-90-16)めぐる流は、いだくがごとくそと割れて、半ばみどりを透明に含む光琳波こうりんなみが、早蕨さわらびに似たる曲線をえがいて巌角いわかどをゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると嵐山らんざんどす」と長いさおこべりのうちへし込んだ船頭が云う。鳴るかいに送られて、深いふちすべるように抜け出すと、左右の岩がおのずから開いて、舟は大悲閣だいひかくもとに着いた。
 二人は松と桜と京人形のむらがるなかにい上がる。幕とつらなるそでの下をぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
 赤松の二抱ふたかかえたてに、大堰おおいの波に、花の影の明かなるを誇る、橋のたもと葭簀茶屋よしずぢゃやに、高島田が休んでいる。昔しのまげを今の世にしばし許せとかぶ瓜実顔うりざねがおは、花に臨んで風にえず、俯目ふしめに人を避けて、名物の団子をながめている。薄く染めた綸子りんず被布ひふに、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねるきぬの色は見えぬ。ただ襟元えりもとより燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれがこといた女だよ。あの黒い羽織は阿爺おやじに違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
 瓢箪ひょうたんえいを飾る三五の癡漢うつけものが、天下の高笑たかわらいに、腕を振ってうしろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、たいを斜めにえらがる人を通した。色の世界は今がさかりである。

        六

 丸顔にうれい少し、さっうつ襟地えりじの中から薄鶯うすうぐいすらんの花が、かすかなるを肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子いとこはこんな女である。
 人に示すときは指を用いる。四つをたなごころに折って、余る第二指のありたけにあれぞとす時、指す手はただ一筋のまぎれなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは指点す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは指点す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
 人に指点す指の、ほっそりと爪先つまさきに肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって焼点しょうてん構成かたちづくる。藤尾ふじおの指は爪先のべにを抜け出でて縫針のがれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは欄干らんかんを渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
 藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目にかかりませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云う。
「父一人で忙がしいものですから、つい御無沙汰ごぶさたをして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
向島むこうじまは」
「まだどこへも行かないの」
 うちにばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影がす。
「そんなに御用が御在おありなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
 糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
 二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行くみちである。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の向側むこうがわへ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、このそでは、この詩とこの歌は、なべ、炭取のたぐいではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字をかむらせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
はじめさんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは上滑うわすべりをして前へ進む。糸子は返事をする前に顔をげて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
 今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子をじっと見る。針は真逆まさかの用意に、なかなかひとみうちには出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へからまってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。はじめさんが貰うときまれば本気にがしますよ」
 黐竿もちざおは届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
 糸子はきわどいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる捜索さぐりの綱を、ぷつりと切って、さかさまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
 放つ矢のあたらぬはこちらの不手際ふてぎわである。あたったのに手答てごたえもなくよそおわるるは不器量ふきりょうである。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇をんだ。ここまでして来てとどまるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたはわたしの姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬にわれを忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心のうち冷笑あざわらって引き上げる。
 甲野こうのさんと宗近むねちか君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人ふたりの妹は肝胆の外廓そとぐるわで戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
 ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追いけられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものをつかまえる勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んでけ込んで来た。袞竜こんりょうの袖に隠れると云うことわざがある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
 小野さんは蹌々踉々そうそうろうろうとして来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上にせる従容しょうようの紋付を、まだあつらえていない。二十世紀の人は皆この紋付もんつきを二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。便たよる未来がほこさかしまにして、過去をほじり出そうとするのはなさけない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。大抵たいていうそ渡頭ととうの舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
 小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽吾きんごさんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑気のんきよ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでもうちの兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気がついて、羽二重はぶたえ手巾ハンケチを膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
 唇の動く間から前歯のかどいろどる金の筋がすっと外界にうつる。敵は首尾よくわが術中におちいった。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から御音信おたよりはないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって端書はがきぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが? 御叔母おばさんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
 藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶるとふるえる。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、手巾ハンケチを出して、薄い口髭くちひげをちょっとでる。かすかなにおいがぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都のかたはじめさんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
 小野さんの手巾はちょっといきおいを失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな奇麗きれいだと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
無精ぶしょうに似合わない事ね。何と」
隣家となりの琴は御前よりうまいって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪べっぴんだと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんにっちゃかなわない」
「でも、あなたの事はめてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪べっぴんだ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
 藤尾は得意と軽侮の念をまじえたる眼を輝かして、すらりと首をうしろに引く。たてがみに比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝のすみれのみが星のごとく可憐かれんの光を放つ。
 小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条さんじょう蔦屋つたやと云う宿屋がござんすか」
 底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、すがる未来に全く吸い込まれたる人は、刹那せつな戸板返といたがえしにずどんと過去へ落ちた。
 追い懸けて来る過去をがるるは雲紫くもむらさきに立ちのぼ袖香炉そでこうろけぶる影に、縹緲ひょうびょうの楽しみをこれぞと見極みきわむるひまもなく、むさぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶いっさつに、結ばぬ夢はめて、さかしまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇そうかんだあり、容易にせいを踏む事を許さずとある。
蔦屋つたやがどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿とまってるんですって。だから、どんなとこかと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋はたごやじゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴がきこえて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家おとなりで美人が琴をいてるのを、気楽に寝転ねころんで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
 小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、とこの山吹を無意味にながめている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
 詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴のも、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白いが出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
 家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意をしかねる。らぬ事と黙ってひかえているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――まわえんで、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くにけむるように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗なまあるい山は――あの山が、青い御供おそなえのように、こんもりとかすんでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首をかたげる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
 女詩人じょしじんの空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
 五重の塔がどうもするわけはない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
 御機嫌にさからった時は、必ず人をもってわびを入れるのが世間である。女王の逆鱗げきりんなべかま味噌漉みそこし御供物おくもつでは直せない。役にも立たぬ五重の塔をかすみのうちに腫物はれもののように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
 藤尾のまゆはぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気にさわったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
 針鼠はりねずみでれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
 五重の塔を持ち出せばなおおこられる。琴のは自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑けいべつを招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるようだ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取りけられた。女二人を調停するのは眼の前にこころよからぬ言葉の果し合を見るのがいやだからである。文錦あやにしきやさしきまゆに切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。取除者とりのけものを仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさくからまってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ調子ばつを合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を軽蔑けいべつする料簡りょうけんではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いもののかしら耀かがやかず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸がく。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
 人をのろわば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり筋違すじかいに見えて、その先に井桁いげたがあって、小米桜こごめざくられ擦れに咲いていて、釣瓶つるべが触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
 糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだんり落ちて来る。重い雲がかさなり合って、弥生やよいをどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、袖垣そでがきのはずれに幣辛夷してこぶしの花が怪しい色をならべて立っている。木立にかしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れにうつる。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
 居は気を移す。藤尾の想像は空と共にこまやかになる。
「小米桜を二階の欄干てすりから御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜のうしろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴のがするんです」
 琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと隣家となりの庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりとかすめる。
「ホホホホ御厭おいやなの――何だか暗くなって来た事。花曇りがけ出しそうね」
 そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとからすぐすいと追懸おいかけて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや本降ほんぶりになりそうだ事」
わたし失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
 糸子は立ち上がる。話しは春雨と共にくずれた。

        七

 燐寸マッチる事一寸いっすんにして火はやみに入る。幾段の彩錦さいきんめくり終れば無地のさかいをなす。春興は二人ににんの青年に尽きた。狐の袖無ちゃんちゃんを着て天下を行くものは、日記をふところにして百年のうれいいだくものと共に帰程きていのぼる。
 古き寺、古きやしろ、神の森、仏の丘をおおうて、いそぐ事をせぬ京の日はようやく暮れた。倦怠けたるい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも判然はきとは映らぬ。またたくもものうき空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
 一人いちにんの一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界になまぐさき雨を浴びる。一人の世界を方寸にまとめたる団子だんしと、他の清濁を混じたる団子と、層々相連あいつらなって千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果いんがの交叉点に据えて分相応の円周を右にかくし左に劃す。いかりの中心よりえがき去る円は飛ぶがごとくにすみやかに、恋の中心より振りきたる円周は※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおあと空裏くうりに焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎かんきつかんをほのめかしてめぐる。縦横に、前後に、上下しょうか四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき秦越しんえつの客ここに舟を同じゅうす。甲野こうのさんと宗近むねちか君は、三春行楽さんしゅんこうらくの興尽きて東に帰る。孤堂こどう先生と小夜子さよこは、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車ではしなくも喰い違った。
 わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界とひとの世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。けて飛ぶ事がある。あるいは発矢はっしと熱をいて無極のうちに物別れとなる事がある。すさまじき喰い違い方が生涯しょうがいに一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくしておのずからなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただうてただ別れるそでだけのえにしならば、星深き春の夜を、名さえびたる七条しちじょうに、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢ちょうたくする。自然その物は小説にはならぬ。
 二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとくまぼろしのごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東のかたはこび去ろうか、さらに無頓着むとんじゃくである。世をおそれぬ鉄輪てつわをごとりとまわす。あとは驀地ましぐらやみく。離れて合うを待ちび顔なるを、いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂徠そらいを意とせざるを、一様につかねて、ことごとく土偶どぐうのごとくに遇待もてなそうとする。こそ見えね、さかんに黒煙くろけむりを吐きつつある。
 眠る夜を、生けるものは、提灯ちょうちんの火に、皆七条に向って動いて来る。梶棒かじぼうが下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影でうずまってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
 京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、十把一束じっぱひとからげに夜明までに、あかるい東京へし出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらにほごれて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて車輛しゃりょうの戸をはたはたと締めて行く。忽然こつぜんとしてプラットフォームは、る人をいて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると口笛くちぶえはるかのうしろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬに、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都はさびしいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。蔦屋つたや隣家となりに住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、うちを畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんはひとごとのように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は頭陀袋ずだぶくろたなへ上げた腰をおろしながら笑う。相手は半分顔をそむけて硝子越ガラスごしに窓の外をすかして見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。ごうと云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何マイルくらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐あぐらをかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。むこうたなに載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高のいただきふるわせている。給仕ボーイが時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼をねむっていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
 汽車はごうと走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――あんまりだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのはめる時の言葉なんだがな」
「千里の江陵こうりょう一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
 甲野さんは返事を見合せて口をじた。会話はまた途切れる。汽車は例によってごうと走る。二人の世界はしばらくやみの中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長いを糸のごとく照らして動く電灯のもとにあらわれて来る。
 色白く、傾く月の影に生れて小夜さよと云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居すまいに、盂蘭盆うらぼん灯籠とうろうを掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊しょうりょうを、東京の苧殻おがらで迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。かかいかりは、おろす絹しなやかになさけすそすべり込む。
 紫におごるものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路につらなるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長たけながふるわせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただしたたる絵筆の勢に、うやむやを貫いてかっと染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底にとおって、当時そのかみを裏返す折々にさえあざやかに煮染にじんで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒はるさむふところに暖めつつ、黒く動く一条の車にせて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものをきしめて行く。車は無二無三に走る。野にはみどりをき、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢をいだく人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇くらやみの遠きより切り放して、現実の前にげ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行きうて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
 隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごの下に白くなる疎髯そぜんを握ってはむかしを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引きこもって容易には出て来ない。漠々ばくばくたる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々れんれんたるわれを、つれなく見捨て去る当時そのかみに未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩ごましおまじりのひげをぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳いくつの時だったかな」
「学校をめてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山あらしやまへ連れていっていただいたでしょう。御母おかあさんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子だんごもまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋さんげんぢゃやそばべたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母おっかさんも丈夫だったがな。ああ早くくなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分あおい顔をしてね、そうして何だか始終しじゅうおどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和やさしいんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質たちの好い男でも、あのままほうって置けばそれぎり、どこへどう這入はいってしまうか分らない」
「本当にね」
 明かなる夢は輪をえがいて胸のうちにめぐり出す。死したる夢ではない。五年の底から浮きりの深き記憶を離れて、咫尺しせきに飛び上がって来る。女はただひとみらして眼前にせまる夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親のひげを忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋までむかえにくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
 夢は再びおどる。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちをける。老人は髯から手を放す。やがて眼をねむる。人も犬も草も木も判然はきと映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、まわりつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界をいだいて眠についた。
 長い車は包む夜を押し分けて、やらじとさかう風を打つ。追い懸くる冥府よみの神を、力ある尾にたたいて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青くけぶる向うが一面にり上がって来る。茫々ぼうぼうたる原野のおのずから尽きず、しだいに天にせまって上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、まなこを半天に走らす時、日輪の世は明けた。
 神のを空に鳴く金鶏きんけいの、つばさ五百里なるを一時にはばたきして、みなぎる雲を下界にひらく大虚の真中まんなかに、ほがらかに浮き出す万古ばんこの雪は、末広になだれて、八州のを圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫そうぼううちに、腰から下をうずめている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、むらさきひだあいの襞とをななめに畳んで、白きを不規則なる幾条いくすじに裂いて行く。見上ぐる人はう雲の影を沿うて、蒼暗あおぐら裾野すそのから、藍、紫の深きを稲妻いなずまに縫いつつ、最上の純白に至って、豁然かつぜんとして眼がめる。白きものは明るき世界にすべての乗客をいざなう。
「おい富士が見える」と宗近君が座をすべり下りながら、窓をはたりとおろす。広い裾野すそのから朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝らくだ毛布けっとを頭からかむったまま、存外冷淡である。
「そうか、なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
叡山えいざんよりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変軽蔑けいべつするね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退けて動いた」と宗近君は頭陀袋ずだぶくろたなから取りおろす。へやのなかはざわついてくる。明かるい世界へけ抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
 窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯そぜんを一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干そこばくの銀貨を握って、へぎおりを取る左とかえに出す。御茶は部屋のなかで娘がいでいる。
「どうだね」と折のふたを取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋ながいも白茶しらちゃに寝転んでいるかたわらに、一片ひときれの玉子焼が黄色くつぶされようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子ははしらずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てたはしながめながら、ぐっと飲む。
「もうじきですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋ながいもが髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗きれいに見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入はいる。
「小野さんは宿をがして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯めしと返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣よねざわがすりえりを掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄てさげかばんまたいだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪けつまずくと危ない」と注意した。
 硝子戸ガラスどを押しけて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直まっすぐに抜ける気で、中途まで来た時、宗近君がうしろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過こわすぎてね。――阿爺おとっさんのように年を取ると、どうもこわいのは胸につかえていけないよ」
「御茶でも上がったら……ぎましょうか」
 青年は無言のまま食堂へ抜けた。
 日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方じんじっぽうに飛びわす小世界の、あまねく天涯てんがいを行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きをいとわず植えつけしかいこの卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半よわを背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世はき落されて、大空の皮を奇麗にぎ取った白日の、隠すなかれと立ちのぼる窓のうちに、四人の小宇宙はぐうを作って、ここぞと互にれ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布たくふを挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表メヌーながめながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕ゆうべ京都の停車場ステーションでは逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるであぶらばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺フォークさかしまにして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々なさけなさそうに白い膏味あぶらみ頬張ほおばる。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
猶太人ユデアじんは豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
猶太人ユデアじんはともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕ボーイ紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女をはずしてしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想けそうして……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手であごささえながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先にえたままぼんやり向うを見ている。
蜜柑みかんが食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」とごうも心配にならない気色けしきで云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶あいさつも聞く料簡りょうけんはなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目まじめに聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児ねんねだね。しかし兄思いだよ。狐の袖無ちゃんちゃんを縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突ひじつきでもこしらえてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
 肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面にひろげて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかにれ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日あすの世界を擁して新橋の停車場ステーションに着く。
「さっきけて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
 四個の小世界は、停車場ステーションに突き当って、しばらく、ばらばらとなる。

        八

 一本の浅葱桜あさぎざくらが夕暮を庭に曇る。拭き込んだえんは、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢ながひばち手取形てとりがた鉄瓶てつびんたぎらして前にはしぼ羽二重はぶたえ座布団ざぶとんを敷く。布団の上には甲野こうのの母がひんよくすわっている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、かんすじが裏を通って額へ突き抜けているらしい上部うわべを、浅黒く膚理きめの細かい皮が包んで、外見だけは至極しごく穏やかである。――針を海綿にかくして、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬こうやくって創口きずぐちを快よく慰めよ。出来得べくんばくちびるを血の出る局所にけて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨をあらわすものはほろぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
 静かな椽に足音がする。今おろしたかと思われるほどの白足袋しろたびを張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)ふきの椽に引き擦るを軽く蹴返けかえしながら、障子しょうじをすうと開ける。
 居住いずまいをそのままの母は、濃いまゆを半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入おはいり」と云う。
 藤尾ふじおは無言であとを締める。母のむこうに火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶てつびんはしきりに鳴る。
 母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目ふしめに眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
 口多き時にまこと少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春はきつつある。
 藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
 親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥いちべつこもる。熱にえざる時は骨をあらわす。
「ふん」
 長煙管ながぎせる煙草たばこの殻をちょうとはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、彼人あのひと料簡りょうけんばかりは御母おっかさんにも分らないね」
 雲井の煙は会釈えしゃくなく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来てもおんなじ事ですね」
「同じ事さ。生涯しょうがいあれなんだよ」
 御母おっかさんのかんの筋は裏から表へ浮き上がって来た。
うちぐのがあんなにいやなんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだからにくいんだよ。あんな事を云って私達わたしたち当付あてつけるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日きょうまでもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。え切らないっちゃありゃしない。彼人あのひとの顔を見るたんびに阿母おっかさん疳癪かんしゃくが起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知しらを切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
 藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪をはらむ。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多めったにあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃およしなさい、阿母おっかさんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへこもって寝転んでるしさ。――そうして他人ひとには財産を藤尾にやって自分は流浪るろうするつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
宗近むねちか阿爺おとっさんの所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質たちですね。それより早く糸子いとこさんでももらってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡りょうけんはとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
 母は鳴る鉄瓶てつびんおろして、炭取を取り上げた。隙間すきまなくしぶれた劈痕焼ひびやきに、二筋三筋あいを流す波をえがいて、真白ましろな桜を気ままに散らした、薩摩さつま急須きゅうすの中には、緑りを細くり込んだ宇治うじの葉が、ひるの湯にやけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾はく抜け出したかおりのなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底をたたくほどは、さほどとも思えぬが、ふちに近くようやく色を増して、濃き水はあわおもてに片寄せて動かずなる。
 母はらしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭さくらずみの白き残骸なきがらまったきをこぼちて、しんに潜む赤きものを片寄せる。ぬくもる穴のくずれたる中には、黒く輪切の正しきをえらんで、ぴちぴちとける。――室内の春光はくまでも二人ふたり母子ぼしに穏かである。
 この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑さいぎ不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴かんかそきんの春をつかさどる人の歌めくあめしたに住まずして、半滴はんてき気韻きいんだに帯びざる野卑の言語を臚列ろれつするとき、毫端ごうたんに泥を含んで双手に筆をめぐらしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須きゅうすと、佐倉の切り炭をえがくは瞬時のかんぬすんで、一弾指頭いちだんしとうに脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球はむかしより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。うれしからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者のせつなき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、はじめもよっぽど剽軽者ひょうきんものだね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
 うまや鳥屋とやといっしょにあった。牝鶏めんどりの馬を評する語に、――あれは鶏鳴ときをつくる事も、鶏卵たまごを生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通なみのものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
 意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾はなめらかなほおに波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠ほうへいこうしょうの鉄砲玉は鉛をかしてる。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母はくまでも真面目まじめである。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
 娘の笑は、はしなくも母の疑問を起す。子を知るは親にかずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえどもから天竺てんじくである。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
 母は鋭どきまゆの下から、娘をきっと見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵したごしらえと見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。たけのこを輪切りにすると、こんな風になる。はりのあるまゆに風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になおこもる何物かがちょっとはためいてすぐ消えた。母は相槌あいづちを打つ。
「あんな見込のない人は、わたしも好かない」
 趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶かじかみかんと打ち、相槌はとんと打つ。されども打たるるは同じつるぎである。
「いっそ、ここで、判然はっきり断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺おとっさんが、あの金時計をはじめにやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具おもちゃにして、赤いたまばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがっていて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談じょうだん半分にみんなの前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だになぞだと思ってるんですか」
「宗近の阿爺おとっさん口占くちうらではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
 藤尾は鋭どい一句を長火鉢のかどたたきつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
 鎖の先に燃える柘榴石ガーネットは、蒔絵まきえ蘆雁ろがんを高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。おぼろとも化けぬ浅葱桜あさぎざくらが、暮近く消えて行くべき昼の命を、今少時しばしまもえんに、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面やさおもての影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子しょうじのうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
 同時に豊かなが宗近家の座敷にともる。静かなる夜を陽に返す洋灯ランプの笠に白き光りをゆかしくめて、唐草からくさを一面に高くたたき出した白銅の油壺あぶらつぼが晴がましくもよいに曇らぬ色を誇る。灯火ともしびの照らす限りは顔ごとににぎやかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火ともしび周囲まわりに起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好かっこうと思う。
「それじゃ相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)そうりんとうも見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられたあごはやむを得ず二重ふたえに折れている。頭はだいぶ禿げかかった。これを時々でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)た何ですか」と宗近君は阿爺おやじの前で変則の胡坐あぐらをかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山えいざんへ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野こうのさん」
 甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織のえりを正しく坐っている。甲野さんが問いけられた時、※(「單+展」、第4水準2-4-51)にこやかな糸子の顔はうごいた。
「相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)はなかったようだね」と甲野さんは手をひざの上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
阿爺おとっさん何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭わかさの国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談じょうだんさ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼ふたえまぶたの波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行あるくばかりで飛脚ひきゃく同然だからいけない。――叡山には東塔とうとう西塔さいとう横川よかわとあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火ともしびは明かに揺れる。糸子はそでを口へ当てて、くずしかかった笑顔の収まりぎわつむりを上げながら、ひとみを豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略さりゃくはある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
御叔父おじさん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり延暦寺えんりゃくじの区域だね。広い山の中に、あすこにかたまり、ここに一と塊まりと坊がかたまっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
とう修羅しゅら西さいは都に近ければ横川よかわの奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番さびしい、学問でもするに好い所となっている。――今話した相輪※(「木+棠」、第3水準1-86-14)そうりんとうから五十丁も這入はいらなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の船弁慶ふなべんけいにもあるだろう。――かようにそうろうものは、西塔さいとうかたわら住居すまいする武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――阿爺おとっさん叡山えいざんの総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
開基かいきかい。開基は伝教大師でんぎょうだいしさ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体むかしの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
 甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は御前おまい、叡山のふもとで生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う棒杭ぼうぐいが坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
 観ずるものは見ず。昔しの人はそうこそ無上むじょうなれと説いた。く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今せて杳然ようぜんと去るを思わぬが世の常である。堂に法華ほっけと云い、石に仏足ぶっそくと云い、※(「木+棠」、第3水準1-86-14)とう相輪そうりんと云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史をして吾事わがことおわると思うはしかばねいだいて活ける人を髣髴ほうふつするようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上たいじょうは形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山えいざんに登って叡山を知らぬはこの故である。
 過去は死んでいる。大法鼓だいほうこを鳴らし、大法螺だいほうらを吹き、大法幢だいほうとうてて王城の鬼門をまもりしむかしは知らず、中堂に仏眠りて天蓋てんがい蜘蛛くもの糸引く古伽藍ふるがらんを、いまさらのように桓武かんむ天皇の御宇ぎょうから堀り起して、無用の詮議せんぎに、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人ひまじん所作しょさである。現在はこくをきざんでわれを待つ。有為ういの天下は眼前に落ちきたる。双のかいなは風をって乾坤けんこんに鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
 ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山一刹いっさつの指揮によって、夜来やらい日来にちらいに面目を新たにするものじゃと思いめたように、※(「女+尾」、第3水準1-15-81)びびとして叡山を説く。説くはもとより青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山をえらんで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅沢ぜいたくになって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
 宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外真面目まじめである。
阿爺おとっさん叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦そばを食いに行くそうですよ」
「アハハハ真逆まさか
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「御前達はのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
到底とてものらくらじゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹をり出して笑った。洋灯ランプかさ喫驚びっくりするくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧侶そうりょにも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは一乗止観院いちじょうしかんいんと云って、延暦寺となったのはだいぶあとの事だ。その時分から妙なぎょうがあって、十二年間山へこもり切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見りょうけんかな」
と宗近君が今度は独語ひとりごとのように云う。
「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな真似まねでもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令にそむく訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へこもったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
 一座はどっとき出した。老人は首を少し上げて頭の禿をさかに撫でる。垂れ懸った頬の肉がふるえ落ちそうだ。糸子は俯向うつむいて声を殺したため二重瞼ふたえまぶたが薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫おっくうだ。――欽吾きんごさんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
 いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでもこもる方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし阿母おっかさんが心配するだろう」
 甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人いちにんもない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然びょうぜんとして天地のあいだかかっている。世界滅却の日をただ一人ひとり生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
 敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
はじめにも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
 老人は自分の心で、わが母の心をすいしている。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
 今夕こんせきの会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。

        九

 真葛まくずはら女郎花おみなえしが咲いた。すらすらとすすきを抜けて、くいある高き身に、秋風をひんよくけて通す心細さを、秋は時雨しぐれて冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降るしもに、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕あさゆうに頼み少なくなぐ。冬は五年の長きをいとわず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑にまずしさを知らぬ春の天下にまぎれ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴ふうきに色づくを、ひそかなる黄を、一本ひともとの細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭くはばかりの呼吸いきを吹くようである。
 今まではたまよりもあざやかなる夢をいだいていた。真黒闇まくらやみえた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気にけるいとまもなかった。ふところに抱く珠の光りをに抜いて、二百里の道を遥々はるばると闇の袋より取り出した時、珠は現実の明海あかるみに幾分か往昔そのかみの輝きを失った。
 小夜子さよこは過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔ててう瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬がえる。みずからも、わがる所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷にかくしてなおさらにうたがいを路上に受くるような気がする。
 過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ一雫ひとしずくの油は容易に油壺あぶらつぼの中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。
 自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自てんでに働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意にえがく。小夜子の世界は新橋の停車場ステーションへぶつかった時、劈痕ひびが入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
 小野さんも同じ事である。打ちった過去は、夢のちりをむくむくとき分けて、古ぼけた頭を歴史の芥溜ごみためから出す。おやと思うに、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、生息いきの根をめて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなくむこうで吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が気紛きまぐれの時節を誤って、暖たかき陽炎かげろうのちらつくなかによみがえるのはなさけない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれればいたわらねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来のそでに隠れて見た。むらさきの匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸をえかける途端とたんに小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。
阿父おとっさんは」と小野さんが聞く。
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす翌日あしたより、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、れやすき髪にくしの歯を入れる暇もない。不断着の綿入めんいりさえ見すぼらしく詩人の眼にうつる。――よそおいは鏡に向ってらす、玻璃瓶裏はりへいり薔薇ばらを浮かして、軽く雲鬟うんかんひたし去る時、琥珀こはくの櫛は条々じょうじょうみどりを解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。
御忙おいそがしいでしょう」
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、昨日きのう一昨日おとといも会がありまして……」
 日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただおのれよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は俯向うつむいて、ひざせた右手の中指に光る金の指輪を見た。――藤尾ふじおの指輪とは無論比較にはならぬ。
 小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い天井てんじょうの白茶けた板の、二た所まで節穴ふしあな歴然れっきと見える上、雨漏あまもりみをおかして、ここかしこと蜘蛛くもあざむすすがかたまって黒く釣りをけている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸すぎばしが一本横に貫ぬいて、長い方のはじが、思うほど下に曲がっているのは、立ち退いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす氷嚢ひょうのうでもぶら下げたものだろう。次のを立て切る二枚の唐紙からかみは、洋紙にはくを置いて英吉利イギリスめいたあおい幾何きか模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしいふちの黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬくえんに沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は茶献上ちゃけんじょうほどもない。じょうに足らぬひのきが春に用なき、去年の葉をかたとがらして、せこけて立つうしろは、腰高塀こしだかべい隣家となりの話が手に取るように聞える。
 家は小野さんが孤堂こどう先生のために周旋したに相違ない。しかしきわめて下卑げびている。小野さんは心のうちにいや住居すまいだと思った。どうせ家を持つならばと思った。袖垣そでがき辛夷こぶしを添わせて、松苔まつごけ葉蘭はらんの影に畳む上に、切り立ての手拭てぬぐいが春風にらつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。
御蔭おかげさまで、好いうちが手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているならなさけない。ある人に奴鰻やっこうなぎおごったら、御蔭様で始めてうまい鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を軽蔑けいべつしたそうである。
 いじらしいのと見縊みくびるのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫がたたったからである。祟があると眼玉が三角になる。
「もっと好いうちでないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく恰好かっこうなのがなくって……」
と云いけると、小夜子は、すぐ、
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは吝嗇けちな事を云うと思った。小夜子は知らぬ。
 細いおもてをちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。久留米絣くるめがすりは背広に変っている。五分刈ごぶがり光沢つやのある毛に変っている。――ひげは一躍して紳士の域にのぼる。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。えりおろし立てである。飾りには留針ピンさえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝ったひんの好い胴衣チョッキ隠袋かくしには――恩賜の時計が這入はいっている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。
 五年の間一日一夜ひとひひとよふところに忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。西東にしひがし長短のたもとを分かって、離愁りしゅうとざ暮雲ぼうん相思そうしかんかれては、う事のうとくなりまさるこの年月としつきを、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。
 小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、健気けなげに生い立った阿蒙あもうの変りかたではない。色のめた過去をさかじ伏せて、目醒めざましき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急にこしらえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分がうらめしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。
 新橋へはむかえに来てくれた。車をやとって宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、蝸牛かたつむり親子して寝るいおりを借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も左様さように云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。
 プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。さい手提てさげの荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、膝掛ひざかけといっしょに先へ行った、きざみ足のうしろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、遥々はるばると来た二人を案内するためではなく、時候おくれの親子を追い越してけ抜けるためのように見える。割符わりふとはうり二つを取ってつけてくらべるための証拠しるしである。天にかかる日よりもとうとしとまもるわが夢を、五年いつとせの長き香洩かもる「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち退いている。握る割符は通用しない。
 始めは穴を出でてまばゆき故と思う。少しれたらばと、く日をつえに、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。
 やさしく咽喉のどべり込む長いあごを奥へ引いて、上眼に小野さんの姿をながめた小夜子は、変る眼鏡を見た。変るひげを見た。変る髪のふうと変るよそおいとを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息ためいきいた。ああ。
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
 小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶のよりぎゃくに戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと嵐山あらしやまへ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」
「そのくらいでしょう、嵐山あらしやまは早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」
 花をる人は星月夜のごとくおびただしい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。
「やっぱり阿父おとっさんとですか」
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜかなさけない心持がする。小野さんは出直した。
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。大悲閣だいひかくの温泉などは立派に普請ふしんが出来て……」
「そうですか」
小督こごうつぼねの墓がござんしたろう」
「ええ、知っています」
彼所あすこいらはみんな掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」
毎年まいとし俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」
 近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに雑沓ざっとうしませんでしたね」
 小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと真向まむきに返る。金縁の眼鏡めがねと薄黒い口髭くちひげがすぐひとみうつる。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話のいとくちの、するすると抜け出しそうな咽喉のどおさえて、黙って口をつぐんだ。調子づいてかどを曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。ひんのいい紳士淑女の対話も胸のうちでは始終しじゅう突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのはとしばかりで、いたずらに育った縞柄しまがらと、用い古るしたことうらめしい。琴はおいのまま床の間に立て掛けてある。
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
 小夜子は何と答えていいか分らない。ひざに手を置いたまま、下を向いている。小さい耳朶みみたぶが、行儀よく、びんの末をくぐり抜けて、ほおくび続目つぎめが、ぼかしたように曲線を陰にいて去る。見事なである。惜しい事に真向まむきすわった小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の退き具合、これほどの光線に、これほどの色の付き具合は滅多めったに見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げのかかとを、地にり込むほどにめぐらして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは真向まむきに坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先にひるがえるそでが、濃きむらさき眉間みけんかすめてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。
「また来ましょう」と背広せびろの胸を合せる。
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞよろしく」
「あの……」と口籠くちごもっている。
 相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くとき立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。
「あの……父が……」
 小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出しにくくなる。
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道もぎどうに離れて行く。未練も会釈えしゃくもなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然もうぜんとして、えんに近く坐った。
 降らんとして降りそこねた空の奥からかすかな春の光りが、淡き雲にさえぎられながら一面に照り渡る。長閑のどかさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶うっとうしい。どこやらで琴のがする。わがくべきはちりも払わず、更紗さらさの小包を二つ並べた間に、袋のままでさびしく壁に持たれている。いつ欝金うこんおいける事やら。あの曲はだいぶれた手に違ない。片々に抑えて片々にはじく爪の、安らかに幾関いくせきを往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐かいがいしくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日きのうのように思う。ちらちらに昼のほたると竹垣にしたた※(「くさかんむり/翹」、第4水準2-87-19)れんぎょうに、朝から降って退屈だと阿父様とうさまがおっしゃる。繻子しゅすの袖口は手頸てくびすべりやすい。絹糸を細長く目にいたまま、針差のくれないをぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、あざやかに眼をませと、の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度かねた。曲はたしか小督こごうであった。狂う指の、き昼を、くちゃくちゃにみこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、ことの京である。なかでも琴は京によう似合う。琴のすきな自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、やみを破るからすの、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴ピアノでも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父とうさまは女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日きょう明日あすと、その日にはかる命は、あやあやうい。……
 格子こうしががらりとく。いにしえの人は帰った。
「今帰ったよ。どうもひどほこりでね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所はいやな所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で足袋たびをはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。座布団ざぶとんを買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目にった」
「おやおや」と気の毒そうに微笑ほほえんだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、御蔭おかげで大変遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈はちじょうまがいの黄なしまを取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
阿父おとっさんも敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗りそくなってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々いまいましいから帰りには歩いて来た」
御草臥おくたびれなすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭でひげも何もほこりだらけになっちまった。こら」と右手めての指を四本ならべてくしの代りにあごの下をくと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に御這入おはいんなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分ひどくってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」とひさしの外を下からのぞいて見る。空は曇る心持ちをかして春の日があやふやに流れている。琴のがまだきこえる。
「おや琴を弾いているね。――なかなかうまい。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ阿父おとっさんには分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のようなはげしい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
 時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔にえみを浮べて見せる。老人は世にうといわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談じょうだんを……」
 娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
阿父様おとうさま
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋でった時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
 娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
 あとの句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
 同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車みずぐるまを踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気がふさぐものでね。今日なぞは阿父おとっさんなどにもよくない天気だ」
 気がふさぐのは秋である。もちと知って、酒のとがだと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。
「ちっとことでもいちゃどうだい。気晴きばらしに」
 娘は浮かぬ顔を、愛嬌あいきょうに傾けて、床の間を見る。じくむなしく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、たてって、欝金うこんおいが春を隠さず明らかである。
「まあしましょう」
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。近々きんきん博士論文を出すんだそうで……」
 小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今のおのれには無益である。
「だから落ちついていないんだよ。学問にると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なにゆっくりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから一日いちんち都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口をかなくっちゃいけない」
 口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。阿父おとっさんが手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに御菜おさいはいらないよ。――頼んで置いた婆さんは明日あしたくるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」
 小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。

        十

 なぞの女は宗近むねちか家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団たどんが水晶と光る。禅家では柳は緑花はくれないと云う。あるいは雀はちゅちゅでからすはかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人をなべの中へ入れて、方寸ほうすん杉箸すぎばしぜ繰り返す。芋をもってみずからおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石ダイヤモンドのようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所でどころが分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽かぐらめんには二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。
 真率なる快活なる宗近家の大和尚だいおしょうは、かく物騒な女があめしたに生をけて、しきりに鍋の底をき廻しているとは思いも寄らぬ。唐木からきの机に唐刻の法帖ほうじょうを乗せて、厚い坐布団の上に、信濃しなのの国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中からはちうたっている。謎の女はしだいに近づいてくる。
 悲劇マクベスの妖婆ようばなべの中に天下の雑物ぞうもつさらい込んだ。石の影に三十日みそかの毒を人知れず吹くよるひきと、燃ゆる腹を黒きかく※(「虫+原」、第3水準1-91-60)いもりきもと、蛇のまなこ蝙蝠かわほりの爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果ててとがれる爪は、世をのろ幾代いくよさびせ尽くしたるくろがね火箸ひばしを握る。煮え立った鍋はどろどろの波をあわと共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。
 それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間まっぴるまである。鍋の底からは愛嬌あいきょういて出る。ただようは笑の波だと云う。ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからがひんよく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛のうがかりである。大和尚だいおしょうこわがらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖おあったかになりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きなてのひらを出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「そののちは……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人ぶにんだもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰ごぶさたになりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐあとをつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
 黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾きんご藤尾ふじおが出まして、御厄介ごやっかいにばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
 頭はここでようやく上がる。阿父おとっさんはほっと気息いきをつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやくあったかになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうどさかりでしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日ぜんがちょうど観頃みごろでございましたが、一昨日いっさくじつの風で、だいぶいためられまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜あさぎざくら。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などはすごいような心持が致します」
「そうですか、アハハハハ。荒川あらかわには緋桜ひざくらと云うのがあるが、浅葱桜あさぎざくらは珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好事家こうずかに云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間もはじめが京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気のんきなものでアハハハハ。――どうです粗菓そかだが一つ御撮おつまみなさい。岐阜ぎふ柿羊羹かきようかん
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、うまいものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人ははしを上げて皿の中からぎ取った羊羹の一片ひときれを手に受けて、ひとりでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野こうのの母は切り出した。
「せんだってじゅう欽吾きんごがまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭おかげ様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者わがままものでございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友ほうゆうと申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合つきあいが出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だかふさいでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。うちにさえいるとあなた、いもとにばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊さっぱりしてて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人あれの病気のせいだから、今さら愚癡ぐちをこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」
「ごもっともで」と宗近老人は真面目まじめに答えたが、ついでに灰吹はいふきをぽんとたたいて、銀の延打のべうち煙管きせるを畳の上にころりと落す。雁首がんくびから、余る煙が流れて出る。
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだってうちへ見えた時などはみんなと馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」
「へええ」これは仔細しさいらしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。
「そりゃ、どうも」
彼人あれの病気では、今までどのくらい心配したか分りません」
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
 なぞの女は自分の思う事をひとに云わせる。手をくだしては落度になる。向うですべって転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海ぬかるみを知らぬに用意するばかりである。
「その結婚の事を朝暮あけくれ申すのでございますが――どうっても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国でくなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日いちじつも早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭からねつけられるのみで……」
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母おっかさんだけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負しょい込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳いくつになっても心配は絶えませんね」
此方こちら様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶つれあいに合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母おっかさんわたしはこんな身体からだで、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾にむこを貰って、阿母おっかさんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
 謎の女は和尚おしょうをじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀したんふたを丁寧にかぶせる。煙管きせるは転がった。
「なるほど」
 和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申してうみの母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口をきますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
 和尚は手提てさげの煙草盆の浅い抽出ひきだしから欝金木綿うこんもめん布巾ふきんを取り出して、くじらつる鄭重ていちょうに拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云いにくければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気にさわらないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそあとが大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、かんが高くなってちゃあ」
「まるで腫物はれものさわるようで……」
「ふうん」と和尚おしょうは腕組を始めた。ゆきが短かいので太いひじ無作法ぶさほうに見える。
 なぞの女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言しつげん遽色きょしょくである。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口をそろえて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重ていちょうなのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。
「もし彼人あれが断然うちを出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」
むこかね。聟となると……」
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
左様さようさね」と和尚は単純な首を傾けたが
「藤尾さんは幾歳いくつですい」
「もう、明けてになります」
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげたてのひらを下からのぞき込むようにする。
「いえもう、身体なりばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
 話はほうって置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。
「こちらでも、糸子さんやら、はじめさんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気のんきな女だとおぼし召すでございましょうが……」
「いえ、どう致して、実はわたしの方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――はじめも外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日きょうあすと云う訳にも行かないですが、おそかれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あのかたなら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」
「はい」
「どうでしょう、阿母おっかさんの御考は」
「あのとおり行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったりかなったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人あれに困りますので。一さんは宗近家を御襲おつぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、阿父おとっさんがいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなればくなった人も満足だろう」
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶つれあいさえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくってもよろしい――のでございますが」
 謎の女の云う事はしだいに湿気しっけを帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。かろうじて謎の女の謎をここまで叙しきたった時、筆は、一歩も前へ進む事がいやだと云う。日を作り夜を作り、海とおかとすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。
 日のあたる別世界には二人の兄妹きょうだいが活動する。六畳の中二階ちゅうにかいの、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽しがらきはちに、わだかまる根を盛りあげて、くの字の影をえんに伏せる。一間いっけん唐紙からかみは白地に秦漢瓦鐺しんかんがとうの譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮のとこは、軸を嫌って、籠花活かごはないけに軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。
 糸子は床の間に縫物の五色を、あやと乱して、糸屑いとくずのこぼるるほどの抽出ひきだしを二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方ゆくえは、一針ごとに春をきざかすかな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。
 腹這はらばい弥生やよいの姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指ものさしの先でしきりに敷居をたたいている。
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところであんまもうかりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父おとっさん苔盛園たいせいえんで二十五円で売りつけられたんだろう」
「ええ。大事な盆栽よ。転覆ひっくりかえしでもしようもんなら大変よ」
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺おとっさんも阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちらかつぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃわたしは無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、今度こんだこっちの大発明だ。ハハハハ。きらいなものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」
阿父おとうさまが御自分で持っていらしったのよ」
「何だって」
「日があたって二階の方が松のために好いって」
阿爺おやじも親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」
「なに、そりゃ、ちょっと。発句ほっく?」
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは伊勢崎いせざきでしょう」
「いやにぴかつくじゃないか。兄さんのかい」
阿爺おとうさまのよ」
阿爺おとっさんのものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無ちゃんちゃん以後御見限おみかぎりだね」
「あらいやだ。あんなうそばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい襟垢えりあかだ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんはあぶらが多過ぎるんですよ」
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの親父おとっさんの拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古おふるばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠じんがさをかぶれと云うかも知れない」
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。可哀想かわいそうに」
「まだ、あるのよ」
 宗近君は返事をやめて、欄干らんかん隙間すきまから庭前にわさきの植込を頬杖ほおづえに見下している。
「まだあるのよ。一寸ちょいと」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんとつまんだ合せ目を、見るけて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の針孔めど障子しょうじへ向けて、可愛かわいらしい二重瞼ふたえまぶたを細くする。宗近君は依然として長閑のどかな心を頬杖に託して庭をながめている。
「云って見ましょうか」
「う。うん」
 下顎したあごは頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉のどから鼻へ抜ける。
あし。分ったでしょう」
「う。うん」
 紺の糸をくちびる湿しめして、指先にとがらすは、射損いそくなった針孔を通す女のはかりごとである。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母おっかさん御出おいでよ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうていかなわない」
「でもひんがいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんがきらいじゃ、世話の仕栄しばえがない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無ちゃんちゃんの御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島むこうじまは駄目だが荒川あらかわは今がさかりだよ。荒川から萱野かやのへ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山たんとはないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指をしてちょうだい」
「そうして裁縫しごとを勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石ダイヤモンド指環ゆびわを買ってやる」
うまいのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらにはさみはなくって」
「その蒲団ふとんの横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落しゃれかい」
「これ? 奇麗きれいでしょう。縮緬ちりめん御申おさるさん」
「御前がこしらえたのかい。感心にうまく出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側えんがわへ煙草の灰を捨てるのは御廃およしなさいよ。――これをして上げるから」
「なんだいこれは。へええ。板目紙いためがみの上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人ひまじんだなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸のくずをかい。へええ」
「兄さんは藤尾さんのようなかたが好きなんでしょう」
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
いやでもないね」
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母おばさんはしきりに密談をしているね」
「ことにると藤尾さんの事かも知れなくってよ」
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨ひのしがいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」
「自分のうちで、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも剣呑けんのんだね。それじゃこっちも気息いきを殺して寝転ねころんでるのか」
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
 裁縫しごとの手をめて、火熨に逡巡ためらっていた糸子は、入子菱いりこびしかがった指抜をいて、※(「年+鳥」、第3水準1-94-59)ときいろしろかねの雨を刺す針差はりさしを裏に、如鱗木じょりんもくの塗美くしきふたをはたと落した。やがて日永ひながの窓に赤くなった耳朶みみたぶのあたりを、平手ひらてで支えて、右のひじを針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れたひざを斜めにくずした。襦袢じゅばんの袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なくすべって、くっきりと普通つねよりは明かなる肉の柱が、ちょうと傾く絹紐リボンの下にあざやかである。
「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか無躾ぶしつけに聞かれるもんですか」
「聞かないでも分かるのか。まるで巫女いちこだね。――御前がそう頬杖ほおづえを突いて針箱へたれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴あっぱれな姿勢だハハハハ」
沢山たんと御冷おひやかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」
 云いながら糸子は首をささえた白い腕をぱたりと倒した。そろった指が針箱の角をおさえるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、し付けられた手のあと耳朶みみたぶ共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重ふたえまぶたは、涼しいひとみを、長いまつげに隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴をひじねて起き上がる。
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出はでな色の絹紐リボンがちらりと前の方へ顔を出す。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と俯目ふしめになった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
今度こんだの試験の結果はまだ分らないの」
「もうじきだろう」
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のあるかたが好きなんですよ」
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあたとえに云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉のいたりだ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっともにならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあそう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
 深い日は障子をとおして糸子の頬を暖かに射る。俯向うつむいた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」とひるがえる襦袢じゅばんそでのほのめくうちを、二本の指に、こことおさえて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、うまく手が届くね。盲目めくらにするとかんの好い按摩あんまさんが出来るよ」
「だってれてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣にことを引く別嬪べっぴんがいてね」
端書はがきに書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山あらしやまへ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚みとれて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
うそよ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁いんねんだよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんならそう」
「その女のかたは何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目まじめにならなくっても好い。実はうそだ。全く兄さんの作り事さ」
にくらしい」
 糸子はめでたく笑った。

        十一

 ありは甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる生存せいそんのうちに無聊ぶりょうをかこつ。立ちながら三度の食につくのいそがしきにえて、路上に昏睡こんすいの病をうれう。生を縦横に託して、縦横に死をむさぼるは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を髪剃かみそりけずって、人の精神を擂木すりこぎと鈍くする。刺激に麻痺まひして、しかも刺激にかわくものはすうを尽くして新らしき博覧会に集まる。
 いぬしたい、人は色にはしる。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。紫衣しいと云い、黄袍こうほうと云い、青衿せいきんと云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。土堤どてを走る弥次馬やじうまは必ずいろいろの旗をかつぐ。担がれて懸命にかいあやつるものは色に担がれるのである。天下、天狗てんぐの鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより赫奕かくえきとして赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。
 とうに集まり、人は電光に集まる。輝やくものは天下をく。金銀、※(「石+車」、第3水準1-89-5)※(「石+渠」、第3水準1-89-12)しゃこ瑪瑙めのう琉璃るり閻浮檀金えんぶだごん、の属を挙げて、ことごとく退屈のひとみを見張らして、疲れたる頭を我破がばね起させるために光るのである。昼を短かしとする文明の民の夜会には、あらわなる肌にちりばめたる宝石がひとり幅をかす。金剛石ダイアモンドは人の心を奪うがゆえに人の心よりも高価である。泥海ぬかるみに落つる星の影は、影ながらかわらよりもあざやかに、見るものの胸にきらめく。閃く影におど善男子ぜんなんし善女子ぜんにょしは家をむなしゅうしてイルミネーションに集まる。
 文明を刺激の袋の底にふるい寄せると博覧会になる。博覧会を鈍きの砂にせばさんたるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく。
 花電車が風をって来る。生きている証拠を見てこいと、積み込んだ荷を山下雁鍋やましたがんなべあたりおろす。雁鍋はとくの昔にくなった。卸された荷物は、自己が亡くならんとしつつある名誉を回復せんと森のかたにぞろぞろ行く。
 岡はからめて本郷から起る。高き台をおぼろに浮かして幅十町を東へなだれるくちは、根津に、弥生やよいに、切り通しに、驚ろかんとするものをますはかって下谷したやへ通す。踏み合う黒い影はことごとくいけはたにあつまる。――文明の人ほど驚ろきたがるものはない。
 松高くして花を隠さず、枝の隙間すきまに夜を照らす宵重よいかさなりて、雨も降り風も吹く。始めは一片ひとひらと落ち、次には二片と散る。次には数うるひまにただはらはらと散る。この間中あいだじゅうは見るからに、万紅ばんこうを大地に吹いて、吹かれたるものの地に届かざるうちに、こずえから後を追うて落ちて来た。忙がしい吹雪ふぶきはいつか尽きて、今は残る樹頭に嵐もようやくおさまった。星ならずして夜をる花の影は見えぬ。同時にイルミネーションはいた。
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
 すすきの穂を丸く曲げて、左右から重なる金のきらめく中に織り出した半月はんげつの数は分からず。幅広に腰をおおう藤尾の帯を一尺隔てて宗近むねちか君と甲野こうのさんが立っている。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
糸子いとこさん、驚いたようですね」と甲野さんは帽子をまゆ深くかぶって立つ。
 糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人のきぬの色は黄に似て夜をあざむくを、黒いものが幾筋もたてに刻んでいる。
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
貴所方あなたがたは」と糸子を差し置いて藤尾ふじおが振り返る。黒い髪の陰からさっと白い顔がす。頬の端は遠い火光ひかりを受けてほの赤い。
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちはたのしみがあるもんだ。女は楽が多くて仕合せだね」と甲野さんは長い体躯からだ真直ますぐに立てたまま藤尾を見下みおろした。
 黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指をす。
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ但書ただしがきを附け加えた。
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容はうまあたると俗になるのが通例だ」
あたると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際にはずれる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「するとうまく中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん無味まずくって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼のかどから欽吾きんごを見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。
「あの横にあるのは何」と糸子が無邪気むじゃきに聞く。
 ※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの線をやみに渡して空を横に切るは屋根である。たてに切るは柱である。斜めに切るはいらかである。おぼろの奥に星をうずめて、限りなき夜を薄黒く地ならししたる上に、稲妻いなずまの穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。まんじえがいて花火のごとく地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して帝座ていざの真中を貫けとばかりげ上げた。かくして塔はむねに入り、棟はとこつらなって、不忍しのばずいけの、此方こなたから見渡すむこうを、右から左へ隙間すきまなく埋めて、大いなる火の絵図面が出来た。
 あいを含む黒塗に、金を惜まぬ高蒔絵たかまきえは堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、曲欄きょくらんを描き、円塔方柱えんとうほうちゅうの数々を描き尽して、なお余りあるを是非に用い切らんために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横にくうを走る※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)の線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形をくず気色けしきが見えぬ。
「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの恰好かっこうが好い。何と形容するかな」と宗近君はちょっと躊躇ちゅうちょした。
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
かんむり紅玉ルビーめたようだ事」と藤尾が云う。
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って仰向あおむいた。
 空は低い。薄黒く大地にせまる夜の中途に、煮え切らぬ星が路頭に迷って放下ぶらさがっている。柱とつらなり、甍と積む万点の※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)さかしまに天をひたして、寝とぼけた星のまなこを射る。星の眼は熱い。
「空がげるようだ。――羅馬ロウマ法王の冠かも知れない」と甲野さんの視線は谷中やなかから上野の森へかけて大いなるけんえがいた。
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも差支さしつかえなしか。とにかく女王クイーンの冠じゃない。ねえ甲野さん」
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が奇麗きれいよ」と糸子が突然注意した。対話はクレオパトラを離れる。
 昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影にし付けられて、見渡す限り平かである。動かぬはいつの事からか。静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った池ならば、百年以来動かぬ、五十年の昔ならば、五十年以来動かぬとのみ思われる水底みなそこから、腐ったはすの根がそろそろ青いを吹きかけている。泥から生れたこいふなが、やみを忍んでゆるやかに※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あぎとを働かしている。イルミネーションは高い影をさかしまにして、二丁あまりの岸を、尺も残さず真赤まっかになってこの静かなる水の上に倒れ込む。黒い水は死につつもぱっと色をす。泥にひそむ魚のひれは燃える。
 湿うるおえる※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)は、一抹いちまつに岸をして、明かに向側むこうがわへ渡る。行く道によこたわるすべてのものを染め尽してやまざるを、ぷつりとって長い橋を西から東へける。白い石に野羽玉ぬばたまの波をまたぐアーチの数は二十、欄に盛る擬宝珠ぎぼしゅはことごとく夜を照らす白光のたまである。
「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とにあつまった。一間ごとに高く石欄干を照らす電光が、遠きこちらからは、行儀よく一列にくうに懸って見える。下をぞろぞろ人が通る。
「あの橋は人でうまっている」
と宗近君が大きな声を出した。
 小野さんは孤堂こどう先生と小夜子さよこを連れて今この橋を通りつつある。驚ろかんとあせる群集は弁天のやしろを抜けてして来る。むこうおかを下りて圧して来る。東西南北の人は広い森と、広い池の周囲まわりを捨ててことごとく細長い橋の上に集まる。橋の上は動かれぬ。真中に弓張を高く差し上げて、巡査が来る人と往く人を左へ右へと制している。来る人も往く人もただまれて通る。足を地に落す暇はない。楽に踏む余地を尺寸せきすんに見出して、安々とかかとを着ける心持がやっと有ったなと思ううち、もううしろから前へ押し出される。歩くとは思えない。歩かぬとは無論云えぬ。小夜子は夢のように心細くなる。孤堂先生は過去の人間を圧しつぶすためにみんなが揉むのではないかと恐ろしがる。小野さんだけは比較的得意である。多勢たぜいの間に立って、多数よりすぐれたりとの自覚あるものは、身動きが出来ぬ時ですら得意である。博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に生存せいそんの自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したるのち家に帰って安眠するためである。小野さんはこの多数の当世のうちで、もっとも当世なものである。得意なのは無理もない。
 得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで背負しょって、幅のかぬ過去と同一体だと当世から見られるのは、ただ見られるのではない、見咎みとがめられるも同然である。芝居に行って、自分の着ている羽織の紋のおおきさが、時代か時代後れか、そればかりが気になって、見物にはいっこう身が入らぬものさえある。小野さんは肩身が狭い。人の波の許す限り早く歩く。
阿爺おとうさん、大丈夫」とうしろから呼ぶ。
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに自然じねんに押して行けば世話はない」とはさまった人をやり過ごして、苦しいところを娘といっしょになる。
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い片頬かたほえみを見せる。
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の提灯ちょうちんが孤堂先生の黒い帽子をかすめて動いた。
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元です。手を出せば人の肩でさえぎられる。
「どこに」と孤堂先生は足をそろえる暇もなく、そのまま日和下駄ひよりげたの前歯を傾けて背延せいのびをする。先生の腰が中心を失いかけたところを、後ろから気の早い文明の民がしかかる。先生はのめった。危うく倒れるところを、前に立つ文明の民の背中でようやく喰い留める。文明の民はどこまでも前へ出たがる代りに、背中で人をたすける事を拒まぬ親切な人間である。
 文明の波はおのずから動いてたよりのない親と子を弁天の堂近く押し出して来る。長い橋が切れて、渡る人の足が土へ着くや否や波は急に左右に散って、黒い頭が勝手な方へくずれ出す。二人はようやく胸が広くなったような心持になる。
 暗い底にあいを含むく春の夜をかして見ると、花が見える。雨に風に散りおくれて、八重に咲く遅きを、夜にけん花の願を、人の世のともしびが下から朗かに照らしている。おぼろ薄紅うすくれない螺鈿らでんる。鐫ると云うと硬過かたすぎる。浮くと云えば空を離れる。このよいとこの花をどう形容したらよかろうかと考えながら、小野さんは二人を待ち合せている。
「どうもおそろしい人だね」と追いついた孤堂先生が云う。怖ろしいとは、本当に怖ろしい意味でかつ普通に怖ろしい意味である。
「随分出ます」
「早くうちへ帰りたくなった。どうもおそろしい人だ。どこからこんなに出て来るのかね」
 小野さんはにやにやと笑った。蜘蛛くもの子のように暗い森をおおうて至る文明の民は皆自分の同類である。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
 すういきおいである。勢を生む所は怖しい。一坪に足らぬ腐れた水でも御玉杓子おたまじゃくしのうじょうじょく所は怖しい。いわんや高等なる文明の御玉杓子を苦もなくひり出す東京が怖しいのは無論の事である。小野さんはまたにやにやと笑った。
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しではぐれるところだった。京都じゃこんな事はないね」
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だってこわくって……」
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
 運命は丸い池を作る。池をめぐるものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海のき返る薄黒い倫敦ロンドンで、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐かいもなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重ひとえの壁にさえぎられて隣りの家にすすけた空をながめている。それでもえぬ、一生逢えぬ、骨が舎利しゃりになって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古しゅうこに隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲まわりを回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。
「どうだい女連おんなれんはだいぶ疲れたろう。ここで御茶でも飲むかね」と宗近君が云う。
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶はしにするかね」
「でも欽吾きんごさんが休みたいとおっしゃるじゃありませんか」
「ハハハハなかなかうまい事を云う。甲野さん、糸公が君のために休んでやるとさ」
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女にはかなわない」と甲野さんは断案をくだした。
 池の水に差し掛けて洋風に作り上げた仮普請かりぶしんの入口をまたぐと、ちいさい卓に椅子いすを添えてここ、かしこにならべた大広間に、三人四人ずつのむれがおのおの口の用を弁じている。どこへ席をとろうかと、四五十人の一座をずっと見廻した宗近君は、並んで右に立っている甲野さんのたもとをぐいと引いた。うしろの藤尾はすぐおやと思う。しかし仰山ぎょうさんに何事かと聞くのは不見識である。甲野さんは別段相図を返した様子もなく
「あすこがいている」とずんずん奥へ這入はいって行く。あとをけながら藤尾の眼は大きな部屋の隅から隅までを残りなく腹の中へ畳み込む。糸子はただ下を見て通る。
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。うしろを見て御覧」と宗近君がまた云う。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しいかがやきを帯びて、頬の色は電気灯のもとでは少し熱過ぎる。
「どこに」と何気なにげなき糸子は、やさしい肩をななめにじ向けた。
 入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰をおろした三人は突き当りの右側に、窓を控えて陣を取る。肩を動かした糸子の眼は、広い部屋に所択ところえらばず散らついている群衆を端から端へ貫ぬいて、はるか隔たった小野さんの横顔に落ちた。――小夜子は真向まむきに見える。孤堂先生は背中の紋ばかりである。春の夜を淋しく交る白い糸を、あごの下に抜くもものうく、世のままに、人のままに、また取る年の積るままに捨てて吹かるるひげは小夜子の方に向いている。
「あら御連おつれがあるのね」と糸子はくびをもとへ返す。返すとき前に坐っている甲野さんと眼を見合せた。甲野さんは何にも云わない。灰皿の上にたてに挟んだ燐寸箱マッチばこの横側をしゅっとった。藤尾も口を結んだままである。小野さんとは背中合せのままでわかれるつもりかも知れない。
「どうだい、別嬪べっぴんだろう」と宗近君は糸子に調戯からかいかける。
 俯目ふしめに卓布をながめていた藤尾の眼は見えぬ、濃い眉だけはぴくりと動いた。糸子は気がつかぬ、宗近君は平気である、甲野さんは超然としている。
「うつくしいかたね」と糸子は藤尾を見る。藤尾は眼を上げない。
「ええ」と素気そっけなく云い放つ。きわめて低い声である。答を与うるにあたいせぬ事を聞かれた時に、――相手に合槌あいづちを打つ事をいさぎよしとせざる時に――女はこの法を用いる。女は肯定の辞に、否定の調子を寓する霊腕を有している。
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と巻煙草まきたばこの灰を皿の中にはたき落す。
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も下向したむきになって燐寸マッチる。刹那せつなに藤尾のひとみは宗近君の額を射た。宗近君は知らない。くわえた巻煙草に火を移して顔を真向まむきに起した時、稲妻はすでに消えていた。
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒いわれを」と云いながら角砂糖を茶碗の中へほうり込む。かにの眼のようなあわかすかな音を立てて浮き上がる。
「そんな事知らないわ」と糸子はさじでぐるぐるき廻している。
「そら阿爺おとっさんが云ったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子がきらいだよ。柿羊羹かきようかん味噌松風みそまつかぜ、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラのそばへ持って行くとすぐ軽蔑けいべつされてしまう」
「そう阿爺おとうさまの悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」
「もう叱られる気遣きづかいはないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ御上おあがり。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺おとっさんのような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った卵糖カステラを口いっぱいに頬張ほおばる。
「ホホホホ一人で饒舌しゃべって……」と藤尾の方を見る。藤尾は応じない。
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
 甲野さんは静かに茶碗をおろして、首を心持藤尾の方へ向け直した。藤尾は来たなと思いながら、またたきもせず窓を通してうつる、イルミネーションの片割かたわれを専念に見ている。兄の首はしだいにもとの位地に帰る。
 四人が席を立った時、藤尾は傍目わきめも触らず、ただ正面を見たなりで、女王の人形が歩を移すがごとく昂然こうぜんとして入口まで出る。
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は洒落しゃらくに女の肩をたたく。藤尾の胸は紅茶で焼ける。
「驚ろくうちはたのしみがある。女は仕合せなものだ」と再び人込ひとごみへ出た時、何を思ったか甲野さんはまた前言を繰り返した。
 驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ! うちへ帰って寝床へ這入はいるまで藤尾の耳にこの二句があざけりれいのごとく鳴った。

        十二

 貧乏を十七字に標榜ひょうぼうして、馬の糞、馬の尿いばりを得意気にえいずる発句ほっくと云うがある。芭蕉ばしょうが古池にかわずを飛び込ますと、蕪村ぶそんからかさかついで紅葉もみじを見に行く。明治になっては子規しきと云う男が脊髄病せきずいびょうわずらって糸瓜へちまの水を取った。貧に誇る風流は今日こんにちに至っても尽きぬ。ただ小野さんはこれをいやしとする。
 仙人は流霞りゅうかさんし、※(「さんずい+亢」、第3水準1-86-55)ちょうこうを吸う。詩人の食物は想像である。美くしき想像にふけるためには余裕がなくてはならぬ。美くしき想像を実現するためには財産がなくてはならぬ。二十世紀の詩趣と元禄の風流とは別物である。
 文明の詩は金剛石ダイヤモンドより成る。むらさきより成る。薔薇ばらと、葡萄ぶどうの酒と、琥珀こはくさかずきより成る。冬は斑入ふいりの大理石を四角に組んで、うるしに似たる石炭に絹足袋きぬたびの底をあたためるところにある。夏は氷盤ひょうばんいちごを盛って、あまき血を、クリームの白きなかにとかし込むところにある。あるときは熱帯の奇蘭きらんを見よがしに匂わする温室にある。野路のじや空、月のなかなる花野はなの惜気おしげも無く織り込んだつづれの丸帯にある。唐錦からにしき小袖こそで振袖ふりそでれ違うところにある。――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分をまっとうするために金を得ねばならぬ。
 詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人のおこないを愛する。彼らは日ごと夜ごとに文明の詩を実現して、花に月に富貴ふうきの実生活を詩化しつつある。小野さんの詩は一文にもならぬ。
 詩人ほど金にならん商買しょうばいはない。同時に詩人ほど金のいる商買もない。文明の詩人は是非共ひとの金で詩を作り、他の金で美的生活を送らねばならぬ事となる。小野さんがわが本領を解する藤尾ふじおたよりたくなるのは自然のすうである。あすこには中以上の恒産こうさんがあると聞く。腹違の妹を片づけるにただの箪笥たんすと長持で承知するような母親ではない。ことに欽吾きんごは多病である。実の娘に婿むこを取って、かかる気がないとも限らぬ。折々に、解いて見ろと、わざとらしく結ぶ辻占つじうらがあたればいつもきちである。いては事を仕損ずる。小野さんはおとなしくして事件の発展を、おのずから開くべき優曇華うどんげの未来に待ち暮していた。小野さんは進んで仕掛けるような相撲すもうをとらぬ、またとれぬ男である。
 天地はこの有望の青年に対して悠久ゆうきゅうであった。春は九十日の東風とうふうを限りなく得意のひたいに吹くように思われた。小野さんはやさしい、物にさからわぬ、気の長い男であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。二十七年の長い夢とそびらを向けて、西の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁ぼくじゅうにもくらぶべきほどの暗いちさい点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長にきめた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりととどまっている。仰ぐとぐるぐる旋転せんてんしそうに見える。ぱっと散れば白雨ゆうだちが一度にくる。小野さんは首を縮めてけ出したくなる。
 四五日は孤堂こどう先生の世話やら用事やらで甲野こうのの方へ足を向ける事も出来なかった。昨夜ゆうべは出来ぬ工夫を無理にして、旧師への義理立てに、先生と小夜子さよこを博覧会へ案内した。恩は昔受けても今受けても恩である。恩を忘れるような不人情な詩人ではない。一飯漂母いっぱんひょうぼを徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。先生のためならばこれから先どこまでも力になるつもりでいる。人の難儀を救うのは美くしい詩人の義務である。この義務を果して、こまやかな人情を、得意の現在に、わが歴史の一部として、思出の詩料に残すのは温厚なる小野さんにもっとも恰好かっこうな優しい振舞である。ただ何事も金がなくては出来ぬ。金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うように出来る。――小野さんは机の前でこう云う論理を発明した。
 小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分のかんがえに間違はないはずだと思う。人が聞けば立派に弁解が立つと思う。小野さんは頭脳の明暸めいりょうな男である。
 ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物をけた。中からヌーボー式に青い柳を染めて赤瓦の屋根が少し見えるしおりがあらわれる。小野さんは左の手に栞をすべらして、細かい活字を金縁の眼鏡めがねの奥から読み始める。五分ごふんばかりは無事であったが、しばらくすると、いつのにやら、黒い眼はページを離れて、筋違すじかい日脚ひあしの伸びた障子しょうじさんを見詰めている。――四五日藤尾にわぬ、きっと何とか思っているに違ない。ただの時なら四五日が十日とおかでもさして心配にはならぬ。過去に追いつかれた今の身にはくしけずる間も千金である。逢えば逢うたびに願のまとは近くなる。逢わねば元の君と我にたぐり寄すべき恋の綱の寸分だも縮まるえにしはない。のみならず、魔は節穴ふしあなすきにも射す。逢わぬ半日に日が落ちぬとも限らぬ、こも一夜ひとよに月はる。等閑なおざりのこの四五日に藤尾のまゆにいかな稲妻いなずまが差しているかは夢はかりがたい。論文を書くための勉強は無論大切である。しかし藤尾は論文よりも大切である。小野さんはぱたりと書物を伏せた。
 芭蕉布ばしょうふふすまを開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李やなぎこうりが見える。小野さんは行李の上に畳んである背広せびろを出して手早く着換きかえ終る。帽子は壁にぬしを待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒はなお上草履うわぞうりに、カシミヤの靴足袋くつたびを無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談じょうだんか」と行こうとすると、おろし立ての草履が片方かたかた足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯ランプ部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホあんまり周章あわてるもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変真面目まじめですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛きがかりな顔をして障子のそばに上草履をそろえたまま廊下の突き当りをながめている。何が出てくるかと思う。焦茶こげちゃの中折が鴨居かもいを越すほどの高い背をして、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開むなあきの狭い胴衣チョッキから白い襯衣シャツと白いえりが著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳いしょうを、見栄みばえのせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴ズボン隠袋かくしし込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこをまがると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下のはじにあらわれた。海老茶色えびちゃいろ緞子どんすの片側が竜紋りょうもんの所だけ異様に光線を射返して見える。在来ありきたりの銘仙めいせんあわせを、白足袋しろたびの甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢ながじゅばんらしいものがちらと色めいた。同時にさえぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女なんにょの視線は御互の顔の上に落ちる。
 男はおやと思う。姿勢だけはくずさない。女ははっと躊躇ためらう。やがて頬に差すくれないを一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油をさぬ黒髪に、さざなみ琥珀こはくに寄る幅広の絹の色があざやかな翼を片鬢かたびんに張る。
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような挨拶あいさつをする。
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ御這入おはいんなさい。さあ」と片足を部屋のうちへ引く。
「御免」と云いながら、手を重ねたまま擦足すりあしに廊下をすべって来る。
 男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて這入はいる。明かなる日永の窓は若き二人に若き対話をうながす。
「昨夜は御忙おいそがしいところを……」と女は入口に近く手をつかえる。
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、御蔭おかげさまで」と云う顔は何となくやつれている。男はちょっと真面目になった。女はすぐ弁解する。
「あんな人込ひとごみへは滅多めったに出つけた事がないもんですから」
 文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいてこわがるためにイルミネーションを見る。
「先生はどうですか」
 小夜子は返事を控えてさみしく笑った。
「先生も雑沓ざっとうする所がきらいでしたね」
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼をはずして、畳の上に置いてある埋木うもれぎの茶托をながめる。京焼の染付茶碗そめつけぢゃわんはさっきから膝頭ひざがしらっている。
「御迷惑でしたろう」と小野さんは隠袋ポッケットから煙草入を取り出す。やみを照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出はでを好む藤尾の贈物かも知れない。
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の鍍金ときんに、しろかねえたる上を、花やかにぱっと流す。淋しき女は見事だと思う。
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
 忙しがる小野を無理に都合させて、かぬ人込へわざわざ出掛けるのもみんな自分が可愛いからである。済まぬ事には人込は自分も嫌である。せっかくの思に、そで振り交わして、長閑のどかあゆみを、春のよいならんで移す当人は、依然として近寄れない。小夜子は何と返事をしていいか躊躇ためらった。相手の親切に気兼をして、先方の心持を悪くさせまいと云う世態せたい染みた料簡りょうけんからではない。小夜子の躊躇ったのには、もう少し切ない意味がこもっている。
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色けしきをどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住みれた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心のうちではそれほどしょうに合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
 小夜子はまた口籠くちごもる。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋のにおいのする煙草をくゆらしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きもきらいも御前のかじの取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪こうおを支配する人間から、素知らぬ顔ですききらいかを尋ねられるのはうらめしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達はきはきせぬのかと思う。
 胴衣チョッキ隠袋かくしから時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」とうまい具合に渡し込む。
 女はまた口籠る。男は少し焦慮じれったくなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑おひまならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場かんこうばででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、わたしが帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
 父の好意は再び水泡すいほうに帰した。小夜子は悄然しょうぜんとして帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へせて手早く表へ出る。――同時にく春の舞台は廻る。
 紫を辛夷こぶしはなびらに洗う雨重なりて、花はようやく茶にちかかるえんに、す髪の帯を隠して、動かせば背に陽炎かげろうが立つ。黒きを外に、風がなぶり、日が嬲り、つい今しがたは黄なちょうがひらひらと嬲りに来た。知らぬ顔の藤尾は、内側を向いている。くっきりと肉の締った横顔は、うしろからさす日の影に、耳をおおうて肩に流すびんの影に、しっとりとしてほのかである。千筋ちすじにぎらついて深きすみれを一面に浴せる肩を通り越して、向う側はとのぞき込むとき、まばゆき眼はしんと静まる。夕暮にそれかと思うたでの花の、白きを人は潜むと云った。髪多く余る光を椽にこぼすこなたの影に、有るか無きかのほっそりした顔のなかを、濃く引き残したる眉の尾のみがたしかである。眉の下なる切長の黒い眼は何を語るか分らない。藤尾は寄木よせきの小机にひじを持たせて俯向うつむいている。
 心臓の扉を黄金こがねつちたたいて、青春のさかずきに恋の血潮を盛る。飲まずと口をそむけるものは片輪である。月傾いて山を慕い、人老いてみだりに道を説く。若き空には星の乱れ、若きつちには花吹雪はなふぶき、一年を重ねて二十に至って愛の神は今がさかりである。緑濃き黒髪を婆娑ばさとさばいて春風はるかぜに織るうすものを、蜘蛛くもと五彩の軒に懸けて、みずからと引きかかる男を待つ。引き掛った男は夜光のたまを迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂をさかしまにして、のちの世までの心を乱す。女はただ心地よげに見やる。耶蘇教ヤソきょうの牧師は救われよという。臨済りんざい黄檗おうばくは悟れと云う。この女は迷えとのみ黒いひとみを動かす。迷わぬものはすべてこの女のかたきである。迷うて、苦しんで、狂うて、おどる時、始めて女の御意はめでたい。欄干らんかんほそい手を出してわんと云えという。わんと云えばまたわんと云えと云う。犬は続け様にわんと云う。女は片頬かたほえみを含む。犬はわんと云い、わんと云いながら右へ左へ走る。女は黙っている。犬は尾をさかしまにして狂う。女はますます得意である。――藤尾の解釈した愛はこれである。
 石仏せきぶつに愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信にもとづいて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜ひょうぼうしてはばからぬものは、いかなる犠牲をも相手にせまる。相手を愛するの資格をそなえざるがためである。※(「目+分」、第3水準1-88-77)へんたる美目びもくに魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんはあやうい。せんたる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午ひのえうまである。藤尾はおのれのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
 愛の対象は玩具おもちゃである。神聖なる玩具である。普通の玩具はもてあそばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫いちごうも男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則をはずれた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風はるかぜの吹き回しで、あまい潮の満干みちひきで、はたりと天地の前に行きった時、この変則の愛は成就する。
 を立てて恋をするのは、火事頭巾かじずきんかぶって、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてをかす。角張かどばった絵紙鳶えだこ飴細工あめざいくであるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きにわたってもふやける気色けしきを見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
 沙翁シェクスピアは女を評してもろきは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通すあがれる恋は、かしぎたる飯の柔らかきに御影みかげの砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。み締めるものに護謨ゴムの弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんをえらんだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉あぶらぜみはかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近むねちか君をるは容易である。宗近君をらすは藤尾といえども困難である。の女はあごで相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌しいかたまふところいだいて来る。夢にだもわれをもてあそぶの意思なくして、満腔まんこうの誠を捧げてわが玩具おもちゃとなるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わがまゆに、わがくちびるに、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰かつごうする。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。
 唯々いいとしてるべきはずの小野さんが四五日見えぬ。藤尾は薄きよそおいを日ごとにしてかどを鏡のうちに隠していた。その五日目の昨夕ゆうべ! 驚くうちはたのしみがある! 女は仕合せなものだ! あざけりれいはいまだに耳の底に鳴っている。小机にひじを持たしたまま、燃ゆる黒髪を照る日に打たして身動もせぬ。背をえんに、顔を影なる居住いずまいは、考え事に明海あかるみむ、昔からのおきてである。
 縄なくて十重とえくくとりこは、捕われたるを誇顔ほこりがおに、さしまねけば来り、ゆびさせば走るを、他意なしとのみ弄びたるに、奇麗な葉を裏返せば毛虫がいる。思う人とならんで姿見に向った時、大丈夫写るは君と我のみと、神けて疑わぬを、見れば間違った。男はそのままの男に、寄り添うは見た事もない他人である。驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
 えぬ白さに青味を含む憂顔うれいがおを、三五の卓を隔てて電灯のもとに眺めた時は、――わがかたえならでは、若き美くしき女に近づくまじきはずの男が、気遣きづかわしに、また親し気に、この人と半々に洋卓テーブルの角を回って向き合っていた時は、――撞木しゅもくで心臓をすぽりとたたかれたような気がした。拍子ひょうしに胸の血はことごとく頬にす。くれないは云う、かっとしてここにおどり上がると。
 我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。あれども無きがごとくによそおえ。昂然こうぜんとして水準以下に取り扱え。――気がついた男は面目を失うに違ない。これが復讐ふくしゅうである。
 我の女はいざと云う間際まぎわまで心細い顔をせぬ。うらむと云うは頼る人に見替られた時に云う。あなどりに対する適当な言葉はいかりである。無念と嫉妬しっとぜ合せた怒である。文明の淑女は人を馬鹿にするを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死にまさる不面目と思う。小野さんはたしかに淑女をはずかしめた。
 愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、帰依きえこうべを下げながら、二心ふたごころの背を軽薄のちまたに向けて、何のやしろの鈴を鳴らす。牛頭ごず馬骨ばこつ、祭るは人の勝手である。ただ小野さんは勝手な神に恋の御賽銭おさいせんを投げて、波か字かの辻占つじうらを見てはならぬ。小野さんは、この黒い眼から早速さそくに放つ、見えぬ光りに、空かけて織りなした無紋の網に引き掛った餌食えじきである。外へはやられぬ。神聖なる玩具として生涯しょうがい大事にせねばならぬ。
 神聖とは自分一人が玩具おもちゃにして、外の人には指もささせぬと云う意味である。昨夕ゆうべから小野さんは神聖でなくなった。それのみか向うでこっちを玩具にしているかも知れぬ。――ひじを持たして、俯向うつむくままの藤尾の眉が活きて来る。
 玩具にされたのならこのままでは置かぬ。は愛をざきにする。面当つらあてはいくらもある。貧乏は恋を乾干ひぼしにする。富貴ふうきは恋を贅沢ぜいたくにする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。とがきりに自分のももを刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっともあたいありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえほふる。さかしまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風はプライド! プライド! と叫ぶ。――藤尾は俯向うつむきながら下唇をんだ。
 わぬ四五日は手紙でも出そうかと思っていた。昨夕ゆうべ帰ってからすぐ書きかけて見たが、五六行かいた後で何をとずたずたに引き裂いた。けっして書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば謝罪あやまらせる。出て来なければ? 我はちょっと困った。手の届かぬところに我を立てようがない。――なに来る、きっと来る、と藤尾は口のうちで云う。知らぬ小野さんははたして我に引かれつつある。来つつある。
 よし来ても昨夜ゆうべの女の事は聞くまい。聞けばあの女を眼中に置く事になる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞えよがしに、自分をらす料簡りょうけんだろう。頭を下げて聞き出しては我が折れる。二人で寄ってたかって人を馬鹿にするつもりならそれでよい。二人がほのめかした事実の反証を挙げて鼻をあかしてやる。
 小野はどうしてもあやまらせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、調戯面からかいづらにあてつけた二人の悪戯いたずらは何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字でつらぬこうと、洗髪あらいがみうしろに顔をうずめて考えている。
 静かなえんに足音がする。背の高い影がのっと現われた。かすりあわせの前が開いて、肌につけた鼠色ねずみいろの毛織の襯衣シャツが、長い三角を逆様さかさまにして胸にうつる上に、長いくびがある、長い顔がある。顔の色はあおい。髪はうずいて、二三ヵ月は刈らぬと見える。四五日はくしを入れないとも思われる。美くしいのは濃いまゆ口髭くちひげである。髭のたちきわめて黒く、極めて細い。手を入れぬままに自然の趣をそなえて何となく人柄に見える。腰はよごれた白縮緬しろちりめん二重ふたえまわして、長過ぎるはじを、だらりと、猫じゃらしに、右のたもとの下で結んでいる。すそもとより合わない。引き掛けた法衣ころものようにふわついた下から黒足袋くろたびが見える。足袋だけは新らしい。げばこんの匂がしそうである。古い頭に新らしい足の欽吾きんごは、世を逆様に歩いて、ふらりと椽側えんがわへ出た。
 拭き込んだ細かい柾目まさめの板が、雲斎底うんさいぞこの影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負せおった黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に這入はいる。足袋の主は見なくても知れている。
 紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
 声はうしろでする。雨戸のみぞをすっくと仕切ったつがの柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗髪あらいがみ見下みおろした。
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。赤棟蛇やまかがしの首をもたげた時のようである。黒い髪に陽炎かげろうを砕く。
 男は、眼さえ動かさない。あおい顔で見下みおろしている。向き直った女の額をじっと見下している。
昨夕ゆうべは面白かったかい」
 女は答える前に熱い団子をぐいとくだした。
「ええ」と極めて冷淡な挨拶あいさつをする。
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
 女はいて来る。勝気な女は受太刀だなと気がつけば、すぐ急いて来る。相手が落ちついていればなお急いて来る。汗を流して斬り込むならまだしも、斬り込んで置きながら悠々ゆうゆうとして柱にって人を見下しているのは、酒を飲みつつ胡坐あぐらをかいて追剥おいはぎをすると同様、ちと虫がよすぎる。
「驚くうちはたのしみがあるんでしょう」
 女はさかに寄せ返した。男は動じた様子もなく依然として上から見下している。意味が通じた気色けしきさえ見えぬ。欽吾の日記に云う。――ある人は十銭をもって一円の十分一じゅうぶいちと解釈し、ある人は十銭をもって一銭の十倍と解釈すと。同じ言葉が人に依って高くも低くもなる。言葉を用いる人の見識次第である。欽吾と藤尾の間にはこれだけの差がある。段が違うものが喧嘩けんかをすると妙な現象が起る。
 姿勢を変えるさえものうく見えた男はただ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
たのしみ?」と聞いた。楽の意味が分ってるのかと云わぬばかりの挨拶と藤尾は思う。兄はやがて云う。
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する気遣きづかいがない」
 藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のようにたのしみの多いものは危ないよ」
 藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり見下みおろしている。何事とも知らず「埃及エジプト御代みよしろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」と云う句を明かに思い出す。
「小野は相変らず来るかい」
 藤尾の眼は火打石を金槌かなづちの先でたたいたような火花を射る。構わぬ兄は
「来ないかい」と云う。
 藤尾はぎりぎりと歯をんだ。兄は談話を控えた。しかし依然として柱にっている。
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分わたしがあずかって置きます」
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と寄木よせきの机にもたせたひじねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、木賊とくさ海老茶えびちゃ棒縞ぼうじまが、棒のごとくそろって立ち上がる。すそだけが四色よいろの波のうねりを打って白足袋のこはぜを隠す。
「そうか」
と兄は雲斎底うんさいぞこかかとを見せて、むこうへ行ってしまった。
 甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土にこもる青味をし返して、湿しめりながらに暖かき大地を踏んで近づいて来る。みがき上げた山羊やぎの皮にかむほこりさえ目につかぬほどの奇麗きれいな靴を、刻み足に運ばして甲野家の門に近づいて来る。
 世をりのだらりとした姿の上に、義理に着る羽織のひもを丸打に結んで、細い杖に本来空ほんらいくう手持無沙汰てもちぶさたまぎらす甲野さんと、近づいてくる小野さんはへいそばでぱたりと逢った。自然は対照を好む。
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受けこたえがあった。そのまま洋杖ステッキは動かなくなる。本来は洋杖さえ手持無沙汰なものである。
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは躊躇ちゅうちょする。
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下からのぞんだ。
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――昨夕ゆうべ見た」
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
 小野さんはああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。時鳥ほととぎすは一声で雲に入ったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
 甲野さんにははたしてつれがあった。小野さんはもう少し進んで見なければ済まないようになる。
「そうかい、奇麗だったろう」とまずつなぎに出して置いて、そのうちに次の問を考える事にする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「何時なんじ頃?」の方が便宜べんぎではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようか知ら、そうしたら先方の答次第で万事が明暸めいりょうになる。しかしそれもいらぬ事だ。――小野さんは胸の上、咽喉のどの奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪のあかほどせんを制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力ではひるがえす事の出来ぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと指図さしずをしたらしく感じた時、うしろから押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから遠退とおのいた。一歩門へ近寄った小野さんの靴は同時に一歩杖にかれてもとへ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。我らの魂は時あって靴のかかとに宿り、時あって杖の先に潜む。魂をえがく事を知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
 一歩の空間を行き尽した靴は、光るこうべめぐらして、棄身すてみに細い体を大地に托した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
 棒のごとく真直まっすぐに立ち上がった杖は答える。
「ああ、藤尾も行った。――ことにると今日は下読が出来ていないかも知れない」
 細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるくかぶったまま、遠慮勝に門内の砂利を踏んで玄関にかる。
 小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱にりながら、席に返らぬ爪先つまさきを、雨戸引く溝の上にかざして、手広く囲い込んだ庭の面をながめている。藤尾が椽の柱に倚りかかるよほど前から、なぞの女は立て切った一間ひとまのうちで、鳴る鉄瓶てつびんを相手に、行く春の行き尽さぬを、根限こんかぎり考えている。
 欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女のかんがえは、すべてこの一句から出立する。この一句を布衍ふえんすると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観が出来る。謎の女は毎日鉄瓶のを聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものはひまのある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
 居住いずまいは心を正す。端然たんねんと恋にこがれたもうひいなは、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
 老いておっとなきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細い上にいまわしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬおきては忌わしいのみかなさけない。謎の女はみずからを情ない不幸の人と信じている。
 他人でも合わぬとは限らぬ。醤油しょうゆ味淋みりんは昔から交っている。しかし酒と煙草をいっしょにめば咳が出る。親のうつわの方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日をれば日を重ねてへだたりの関が出来る。この頃は江戸のかたきに長崎でめぐったような心持がする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌にさからって、師走しわす正月の拍子ひょうしをはずすための修業ではあるまい。金を掛けてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。嗣子ししとしては不都合と思う。こんなものに死水しにみずを取って貰う気もないし、また取るほどの働のあるはずがない。
 さいわいと藤尾がいる。冬をしの女竹めだけの、吹き寄せてを積る粉雪こゆきをぴんとねる力もある。十目じゅうもくを街頭に集むる春の姿に、ちょうを縫い花を浮かした派出はで衣裳いしょうも着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿むこと名乗る誰彼を、迷わしてこそ、らしてこそ、育て上げた母の面目はあがる。海鼠なまこの氷ったような他人にかかるよりは、うらやましがられて華麗はなやかに暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。
 らん幽谷ゆうこくに生じ、剣は烈士に帰す。美くしき娘には、名あるむこを取らねばならぬ。申込はたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大き過ぎても小さ過ぎても聟には出来ぬ。したがって聟は今日こんにちまで出来ずにいた。さんとして群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんは大変学問のできる人だと云う。恩賜の時計をいただいたと云う。もう少し立つと博士になると云う。のみならず愛嬌あいきょうがあって親切である。上品で調子がいい。藤尾の聟として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持がよかろう。
 小野さんは申分もうしぶんのない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅がかぬ。無一物のそれがしを入れて、おとなしく嫁姑よめしゅうとめを大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。おっとが外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有にしてしまった。魂胆はここから始まる。
 欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の赤裸はだかになれるものなら、降っていた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気にもなる。しかし体裁に着る衣裳いしょうはそう無雑作むぞうさぎ取れるものではない。降りそうだからかさをやろうと投げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、見す見すくれる人がれるのを構わずにわがままな手を出すのは人のおもわくもある。そこになぞが出来る。くれると云うのは本気で云ううそで、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾に譲るのを、厭々いやいやながら受取った顔つきに、文明の手前をつくろわねばならぬ。そこで謎がける。くれると云うのを、くれたくない意味と解いて、貰う料簡りょうけんで貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
 謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものをくまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見の出来ぬ方法である。謎の女が苦しまぎれの屈託顔に六畳敷を出たのは、焦慮じれったいがこうじて、布団の上にたたまれないからである。出て見ると春の日は存外長閑のどかで、平気にびんなぶる温風はいやに人を馬鹿にする。謎の女はいよいよ気色きしょくが悪くなった。
 えんを左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右はかぎの手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
 菱餅ひしもちの底を渡る気で真直まっすぐな向う角を見ると藤尾が立っている。濡色ぬれいろさばいた濃きびんのあたりを、つがの柱にしつけて、斜めに持たしたえんな姿の中ほどに、帯深く差し込んだ手頸てくびだけが白く見える。萩に伏しすすきなび故里ふるさと流離人さすらいびとはこんな風にながめる事がある。故里を離れぬ藤尾は何を眺めているか分らない。母は椽を曲って近寄った。
「何を考えているの」
「おや、御母おっかさん」とななめな身体を柱から離す。振り返った眼つきにはうれいの影さえもない。の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」とが聞き返す。
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の緋鯉ひごいねますよ」と我は飽くまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりと云う音がした。
「おやおや。――御母おっかさんの部屋では少しも聞えないよ」
 聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もうはすの葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今はじめて」と謎が云う。謎ばかり考えているものは迂濶うかつである。欽吾と藤尾の事を引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
 蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳かやを畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀こおろぎが鳴く。時雨しぐれる。木枯こがらしが吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。それでも謎の女は一つ所にすわって謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂濶だなどとは夢にも考えない。
 緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。薄濁うすにごりのする水に、泥は沈んで、上皮だけは軽くぬるむ底から、朦朧もうろうあかい影が静かな土を動かして、浮いて来る。なめらかな波にきらりと射す日影をくずさぬほどに、尾をっているかと思うと、思い切ってぽんと水をたたいて飛びあがる。一面にあがる泥の濃きうちに、かすかなる朱いものが影を潜めて行く。温い水を背に押し分けて去るあとは、一筋のうねりを見せて、去年のあしを風なきになぶる。甲野さんの日記には鳥入とりいって雲無迹くもにあとなく魚行うおゆいて水有紋みずにもんありと云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書かいしょでかいてある。春光は天地をおおわず、任意に人の心をよろこばしむ。ただ謎の女にはさいわいせぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂すいきょうと云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
 浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭せいせんを畳むと云った。ぜにのような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日のわかい命を托して、娑婆しゃばの風に薄い顔をさらすうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。美濃紙みのがみの薄きに過ぎて、重苦しとみどりいとう柔らかき茶に、日ごとにおか緑青ろくしょうを交ぜた葉の上には、鯉のおどった、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬたまとなって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色をながめる。鯉はまた躍った。
 母は無意味に池の上を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みつめていたが、やがて気を換えて
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
 藤尾はきっと向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へひとみらす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は疳走かんばしるほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
 清水きよみずの舞台から飛び降りたような語勢は鼻の先でふふんと留った。母はまたおやと思う。
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
御前おまい――あの人と喧嘩けんかでもしたのかい」
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
 謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
 昨夕ゆうべの事を打ち明けてこれこれであったと話してしまえばそれまでである。母は無論躍起やっきになって、こっちに同情するに違ない。打ち明けて都合が悪いとは露思わぬが、進んで同情を求めるのは、うえせまって、知らぬ人の門口かどぐちに、一銭二銭のあわれみを乞うのと大した相違はない。同情はの敵である。昨日きのうまで舞台に躍る操人形あやつりにんぎょうのように、物云うもものうきわが小指の先で、意のごとく立たしたり、寝かしたり、はては笑わしたり、らしたり、どぎまぎさして、面白く興じていた手柄顔を、母も天晴あっぱれと、うごめかす鼻の先に、得意の見栄みえをぴくつかせていたものを、――あれは、ほんの表向で、内実の昨夕ゆうべを見たら、招くすすきむこうなびく。知らぬ顔の美しい人と、むつまじく御茶を飲んでいたと、心外なふたをとれば、母の手前で器量が下がる。我が承知が出来ぬと云う。れたたかなら見限みきりをつけてもういらぬと話す。あとをけて鼻を鳴らさぬような犬ならば打ちやった後で、捨てて来たと公言する。小野さんの不心得はそこまでは進んでおらぬ。放って置けば帰るかも知れない。いや帰るに違ないと、小夜子と自分を比較した我が証言してくれる。帰って来た時にからい目にわせる。辛い目に逢わせた後で、立たしたり、寝かしたりする。笑わしたり、焦らしたり、どぎまぎさしたりする。そうして、面白そうな手柄顔てがらがおを、母に見せれば母への面目は立つ。兄とはじめに見せれば、両人ふたりへの意趣返いしゅがえしになる。――それまでは話すまい。藤尾は返事を見合せた。母は自分の誤解を悟る機会を永久に失った。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉はおどる。はすを吹く、芝生はしだいに青くなる、辛夷こぶしちた。謎の女はそんな事に頓着とんじゃくはない。日となく夜となく欽吾の幽霊で苦しめられている。書斎におれば何をしているかと思い、考えておれば何を考えているかと思い、藤尾の所へ来れば、どんな話をしに来たのかと思う。欽吾は腹を痛めぬ子である。腹を痛めぬ子に油断は出来ぬ。これが謎の女の先天的に教わった大真理である。この真理を発見すると共に謎の女は神経衰弱にかかった。神経衰弱は文明の流行病である。自分の神経衰弱を濫用らんようすると、わが子までも神経衰弱にしてしまう。そうしてあれの病気にも困り切りますと云う。感染したものこそいい迷惑である。困り切るのはどっちの云い分か分らない。ただ謎の女の方では、飽くまでも欽吾に困り切っている。
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物のはさまったような皮肉ばかり云うんですよ」
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない囈語ねごとを云うにゃ困るじゃないか。何でもこの頃は様子が少し変だよ」
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。はじめにやろうがやるまいが余計な御世話じゃないか」
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
 対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
 椽側えんがわを曲って母の影が障子しょうじのうちに消えたとき、小野さんは内玄関ないげんかんの方から、茶の間の横を通って、次の六畳を、廊下へ廻らず抜けて来る。
 けいを打って入室相見にゅうしつしょうけんの時、足音を聞いただけで、公案の工夫くふうが出来たか、出来ないか、手に取るようにわかるものじゃと云った和尚おしょうがある。気の引けるときは歩き方にも現われる。けものにさえ屠所としょのあゆみと云うことわざがある。参禅さんぜん衲子のうしに限った現象とは認められぬ。応用は才人小野さんの上にもく。小野さんは常から世の中に気兼をし過ぎる。今日は一入ひとしお変である。落人おちゅうどそよすすきに安からず、小野さんは軽く踏む青畳に、そと落す靴足袋くつたびの黒き爪先つまさきはばかり気を置いて這入はいって来た。
 一睛いっせい暗所あんしょに点ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もうめられている。
今日こんにちは……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんのひとみはぐらついた。
御無沙汰ごぶさたをしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女はさえぎった。ただしそれぎりである。
 男は出鼻をくじかれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶあったかになりました」
「ええ」
 座敷のなかにこの二句を点じただけで、あともとのごとく静になる。ところへこいがぽちゃりとまたはねる。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて鯉がと云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の辛夷こぶしいている。――つぼのごとく長いはなびらから、濃いむらさきが春を追うて抜け出した後は、残骸なきがらむなしき茶の汚染しみ皺立しわだてて、あるものはぽきりと絶えたうてなのみあらわである。
 鯉がと云おうとした小野さんはまためた。女の顔は前よりも寄りつけない。――女は御無沙汰をした男から、御無沙汰をした訳を云わせる気で、ただいいえと受けた。男は仕損しまったと心得て、だいぶあったかになりましたと気を換えて見たが、それでもげんが見えぬので、鯉がの方へ移ろうとしたのである。男は踏みとどまれるところまですべって行く気で、気をんでいるのに、女は依然として故の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
 四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。昨夕ゆうべ博覧会で見つかったなら少し面倒である。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶間なく入れ代るうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌を脱いでむさ腫物しゅもつを知らぬ人の鼻のさきにおわせると同じ事になる。
 若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵きずとは云わせぬ。今宵限こよいかぎりおぼろだものと、即興にそそのかされて、他生たしょうの縁のそでたもとを、今宵限りり合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首をうずめて、あかの他人と化けてしまう。それならば差支さしつかえない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなくならべられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月としつきを、むこうでは離れじと、とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤きえにしの色に、細くともこれまでつなめられた仲である。
 ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬうそとなる。嘘は河豚汁ふぐじるである。その場限りでたたりがなければこれほどうまいものはない。しかし中毒あたったが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘はまこと手繰寄たぐりよせる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便たよりもあるに、隠そうとする身繕みづくろい、名繕、さては素性すじょう繕に、うたがいひとみ征矢そやはてっきりまとと集りやすい。繕はほころびるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身の※(「金+肅」、第3水準1-93-39)さび生涯しょうがい洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者りこうものである。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思の糸にくくられているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新らしい血にかようこの頃の恋の脈が、調子を合せて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手頸てくびに暖たかく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と不知しらを切る当座の嘘はきたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子の事は名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
昨夕ゆうべ博覧会へ御出おいでに……」とまで思い切った小野さんは、御出になりましたかにしようか、御出になったそうですねにしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
 迷っている男の鼻面はなづらかすめて、黒い影がさっと横切って過ぎた。男はあっと思うせんを越されてしまう。仕方がないから、
奇麗きれいでしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は明確きっぱり受け留める。あとから
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当けんとうがつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。あたさわりのない答は大抵の場合においてな答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口をつぐんだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。宗盛むねもりと云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静をつまびらかにする必要がある。
「誰か御伴おつれがありましたか」と何気なく聴いて見る。
 今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんとねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄のほかにですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
 機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうかうずの中をぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつのにやら平地ひらちへ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。そのすき
「そんなにいそがしいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩をうしろへ引く。長い髪が一筋ごとにきているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに疳高かんだかく笑う。女は自由自在に笑う事が出来る。男は茫然ぼうぜんとしている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。さんたる金剛石ダイヤモンドがぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは竹箆しっぺいでぴしゃりと頬辺ほおぺたたたかれた。同時に頭の底で見られたと云う音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩そうくずれとなる。
「実は一週間前に京都からもとの先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」とうそぶきながら頭をれた。緑の髪がまた動く。
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。昨夕ゆうべ兄とはじめさんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池のふち亀屋かめやの出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこでみんなして御茶を飲んだんです」
 男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、くまでもよそおう。
「大変おいしい御茶でした事。あなた、まだ御這入おはいりになった事はないの」
 小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、今度こんだ是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから」
 藤尾は一さんと云う名前を妙に響かした。
 春の影はかたぶく。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちんと切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。そのの夢に藤尾は、驚くうちはたのしみがある! 女は仕合しあわせなものだ! と云うあざけりれいを聴かなかった。

        十三

 太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。夜中郵便やちゅうゆうびんと書いて板塀いたべいに穴があいているところを見ると夜はしまりをするらしい。正面に芝生しばふ土饅頭どまんじゅうに盛り上げていちさえぎるみどりからかさと張る松をかたのごとく植える。松を廻れば、弧線をえがいて、頭の上に合う玄関のひさしに、浮彫の波が見える。障子は明け放ったままである。呑気のんき白襖しろぶすまに舞楽の面ほどな草体を、大雅堂たいがどう流の筆勢で、無残むざんに書き散らして、座敷との仕切しきりとする。
 甲野こうのさんは玄関を右に切れて、下駄箱のいて見える格子こうしをそろりと明けた。細いつえの先で合土たたきの上をこちこちたたいて立っている。頼むとも何とも云わぬ。無論応ずるものはない。屋敷のなかは人の住む気合けわいも見えぬほどにしんとしている。門前を通る車の方がかえってにぎやかに聞える。細い杖の先がこちこち鳴る。
 やがて静かなうちで、すうと唐紙からかみが明く音がする。きよや清やと下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は勝手の方に近づいて来た。杖の先はこちこちと云う。足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。糸子いとこと甲野さんは顔を見合せて立った。
 下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても滅多めったに取次に出る事はない。出ようと思うに、立てかけたひざをおろして、一針でも二針でも縫糸が先へ出るが常である。重たき琵琶びわき心地と云う永い昼が、永きにえず崩れんとするを、鳴く※(「亡/(虫+虫)」、第3水準1-91-58)あぶにうっとりと夢を支えて、清を呼べば、清は裏へでも行ったらしい。からりとした勝手には茶釜ちゃがまばかりが静かに光っている。黒田さんは例のごとく、書生部屋で、坊主頭を腕の中にうずめて、机の上に猫のように寝ているだろう。退いた空屋敷あきやしきとも思わるるなかに、内玄関ないげんかんでこちこち音がする。はてなと何気なく障子を明けると――広い世界にたった一人の甲野さんが立っている。格子こうしから差す戸外そとの日影を背に受けて、薄暗く高い身を、合土たたきの真中に動かしもせず、しきりに杖を鳴らしている。
「あら」
 同時に杖のはとまる。甲野さんは帽のひさしの下から女の顔を久しぶりのように見た。女は急に眼をはずして、細い杖の先を眺める。杖の先から熱いものがのぼって、顔がぽうとほてる。油を抜いて、なすがままにふくらました髪を、落すがごとく前に、糸子は腰を折った。
御出おいで?」と甲野さんは言葉の尻を上げて簡単に聞く。
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない二重瞼ふたえまぶた愛嬌あいきょうの波が寄った。
「御留守ですか。――阿爺おとっさんは」
「父はうたいの会で朝から出ました」
「そう」と男は長い体躯からだを、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、御這入おはいり、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足をあとへ引いた。着物はあらいしま銘仙めいせんである。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。うしろからかすめて来る日影に、あおい頬が、気のせいか、昨日きのうより少しけたようだ。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
わたしも今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
 話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは粗柾あらまさ俎下駄まないたげたを脱いで座敷へ上がる。
 長押作なげしづくりに重い釘隠くぎかくしを打って、動かぬ春のとこには、常信つねのぶ雲竜うんりゅうの図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、かくに取り巻く紋緞子もんどんすあいに、びたる時代は、象牙ぞうげの軸さえも落ちついている。唐獅子からじし青磁せいじる、口ばかりなる香炉こうろを、どっかとえた尺余の卓は、木理はだ光沢つやあるあぶらを吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡麻ごまこまやかな紫檀したんである。
 えん遅日ちじつ多し、世をひたすらに寒がる人は、端近くかすりの前を合せる。乱菊にえり晴れがましきをゆたかなるあごしつけて、面と向う障子のあきらかなるをまばゆく思う女は入口に控える。八畳の座敷はびょうたる二人を離れ離れにれて広過ぎる。間は六尺もある。
 忽然こつぜんとして黒田さんが現れた。小倉こくらひだを飽くまでつぶしたはかますそから赭黒あかぐろい足をにょきにょきと運ばして、茶を持って来る。煙草盆たばこぼんを持って来る。菓子鉢を持って来る。六尺の距離はかたのごとくうずめられて、主客の位地は辛うじて、接待の道具でつながれる。忽然こつぜんとして午睡の夢から起きた黒田さんは器械的にえにしの糸を二人の間に渡したまま、朦朧もうろうたる精神を毬栗頭いがぐりあたまの中に封じ込めて、再び書生部屋へ引き下がる。あとはもと空屋敷あきやしきとなる。
昨夕ゆうべは、どうでした。疲れましたろう」
「いいえ」
「疲れない? わたしより丈夫だね」と甲野さんは少し笑い掛けた。
「だって、往復ゆきかえり共電車ですもの」
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでも無いですか」
 糸子は丸い頬に片靨かたえくぼを見せたばかりである。返事はしなかった。
「面白かったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」
「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」
「イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか」
「ええ」
「何が」
「でもおかしいわ」と首をかたげて愛らしく笑っている。要領を得ぬ甲野さんも何となく笑いたくなる。
「何ですかその面白かったものは」
「云って見ましょうか」
「云って御覧なさい」
「あの、みんなして御茶を飲んだでしょう」
「ええ、あの御茶が面白かったんですか」
「御茶じゃないんです。御茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」
「あの時小野さんがいらしったでしょう」
「ええ、いました」
「美しいかたを連れていらしったでしょう」
「美しい? そう。若い人といっしょのようでしたね」
「あの方を御存じでしょう」
「いいえ、知らない」
「あら。だって兄がそう云いましたわ」
「そりゃ顔を知ってると云う意味なんでしょう。話をした事は一遍もありません」
「でも知っていらっしゃるでしょう」
「ハハハハ。どうしても知ってなければならないんですか。実はった事は何遍もあります」
「だから、そう云ったんですわ」
「だから何と」
「面白かったって」
「なぜ」
「なぜでも」
 二重瞼ふたえまぶたに寄る波は、寄りてはくずれ、崩れては寄り、黒いひとみを、見よがしにもてあそぶ。しげき若葉をる日影の、錯落さくらくと大地にくを、風は枝頭しとううごかして、ちらつくこけの定かならぬようである。甲野さんは糸子の顔を見たまま、なぜの説明を求めなかった。糸子も進んでなぜの訳を話さなかった。なぜ愛嬌あいきょうのうちにおぼれて、要領を得る前に、行方ゆくえを隠してしまった。
 塗り立てて瓢箪形ひょうたんなりの池浅く、焙烙ほうろくる玉子の黄味に、朝夕を楽しく暮す金魚の世は、尾を振り立ててもぐるとも、起つ波に身をさらわるるうれいはない。鳴戸なるとを抜けるたいの骨は潮にまれて年々としどしに硬くなる。荒海の下は地獄へ底抜けの、行くも帰るも徒事いたずらごとでは通れない。ただ広海ひろうみ荒魚あらうおも、三つ尾のまるも、同じ箱に入れられれば、水族館に隣合となりあわせの友となる。隔たりの関は見えぬが、仕切る硝子ガラスき通りながら、突き抜けようとすれば鼻頭はなづらを痛めるばかりである。海を知らぬ糸子に、海の話は出来ぬ。甲野さんはしばらく瓢箪形に応対をしている。
「あの女はそんなに美人でしょうかね」
「私は美いと思いますわ」
「そうかな」と甲野さんは椽側えんがわの方を見た。野面のづら御影みかげに、乾かぬ露が降りて、いつまでも湿しっとりとながめられるわたし二尺の、ふちえらんで、鷺草さぎそうともすみれとも片づかぬ花が、数を乏しく、行く春をぬすんで、ひそかに咲いている。
「美しい花が咲いている」
「どこに」
 糸子の目には正面の赤松と根方ねがたにあしらった熊笹くまざさが見えるのみである。
「どこに」と暖いあごを延ばしてむこうを眺める。
「あすこに。――そこからは見えない」
 糸子は少し腰を上げた。長いそでをふらつかせながら、二三歩膝頭ひざがしらえんに近くり寄って来る。二人の距離が鼻の先にせまると共にかすかな花は見えた。
「あら」と女はとまる。
「奇麗でしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分らない」
「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」
 甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐れな花だ」と云った。糸子は黙っている。
昨夜ゆうべの女のような花だ」と甲野さんは重ねた。
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼をひるがえしてじっと女の顔を見ていたが、やがて、
「あなたは気楽でいい」と真面目に云う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
 められたのか、くさされたのか分らない。気楽か気楽でないか知らない。気楽がいいものか、わるいものかかいしにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が真面目まじめに云うから、真面目にそうでしょうかと云うよりほかに道はない。
 あやは人の目を奪う。巧は人の目をかすめる。質は人の目を明かにする。そうでしょうかを聞いた時、甲野さんは何となくありがたい心持がした。直下じきげに人の魂を見るとき、哲学者は理解りげかしらを下げて、無念とも何とも思わぬ。
「いいですよ。それでいい。それで無くっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」
 糸子は美くしい歯をあらわした。
「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうですわ」
「そうは行かない」
「だって、これが生れつきなんだから、いつまで立ったって、変りようがないわ」
「変ります。――阿爺おとっさんと兄さんのそばを離れると変ります」
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利口に変ります」
わたしもっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変れば変る方がいいんでしょう。どうかして藤尾ふじおさんのようになりたいと思うんですけれども、こんな馬鹿だものだから……」
 甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなにうらやましいんですか」
「ええ、本当に羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないとあぶない」
 女は依然として、肉余るまぶた二重ふたえに、愛嬌あいきょうの露を大きなひとみの上にしたたらしているのみである。危ないという気色けしきは影さえ見えぬ。
「藤尾が一人出ると昨夕ゆうべのような女を五人殺します」
 あざやかな眸に滴るものはぱっと散った。表情はとっさに変る。殺すと云う言葉はさほどにおそろしい。――その他の意味は無論分らぬ。
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
 女は咽喉のどから飛び出しそうなものを、ぐっとくだした。顔は真赤まっかになる。
「嫁に行くと変ります」
 女は俯向うつむいた。
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
 可愛らしい二重瞼がつづけ様に二三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜あまりょうの影が渡る。鷺草さぎそうともすみれとも片づかぬ花は依然として春をともしく咲いている。

        十四

 電車が赤い札をおろして、ぶうと鳴って来る。入れ代ってうしろから町内の風を鉄軌レールの上に追いくって去る。按摩あんますきを見計って恐る恐る向側むこうがわへ渡る。茶屋の小僧がうすきながら笑う。旗振はたふりの着るヘル地の織目は、ほこりがいっぱい溜って、黄色にぼけている。古本屋から洋服が出て来る。鳥打帽が寄席よせの前に立っている。今晩の語り物が塗板に白くかいてある。空は針線はりがねだらけである。一羽のとびも見えぬ。上の静なるだけに下はすこぶる雑駁ざっぱくな世界である。
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
 二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
 今度は印絆天しるしばんてんが向いた。
 呼ばれた本人は、知らぬに、来る人をけて早足に行く。抜きくらをして飛んで来た二りょう人力じんりきさえぎられて、間はますます遠くなる。宗近むねちか君は胸を出してけ出した。ゆるく着たあわせと羽織が、足をおろすたんびにおどりを踊る。
「おい」とうしろから手をける。肩がぴたりと留まると共に、小野さんの細面ほそおもてななめに見えた。両手はふさがっている。
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
 小野さんは帽子のまま鄭寧ていねい会釈えしゃくした。両手はふさがっている。
「何を考えてるんだ。いくら呼んでもきこえない」
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の歩行方あるきかたがさ」
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものをげていると歩行にくいから……」
 小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。
「何だい、それは」
「こっちが紙屑籠かみくずかご、こっちが洋灯ランプの台」
「そんなハイカラな形姿なりをして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ」
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠をげて往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった」
 小野さんは黙って笑ながら御辞儀おじぎをした。
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
 小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を歩行あるいていないようだと、宗近君が云ったのは、まさに現下の状態によく適合あてはまった小野評である。靴に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかし何となく踏み心地が確かでない。にもかかわらず急ぎたい。気楽な宗近君などにっては立話をするのさえ難義である。いっしょにあるこうと云われるとなおさら困る。
 常でさえ宗近君につらまると何となく不安である。宗近君と藤尾ふじおの関係を知るような知らぬようなに、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向おもてむき人の許嫁いいなずけを盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居振舞の折々にも、気のあるところはそれと推測が出来る。それを裏から壊しに掛ったとまでは行かぬにしても、事実は宗近君の望を、われゆえに、永久に鎖した訳になる。人情としては気の毒である。
 気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、ごうも自分と藤尾の仲を苦にしていないのがなおさらの気の毒になる。逢えば隔意なく話をする。冗談じょうだんを云う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経綸を論ずる。もっとも恋の事は余り語らぬ。語らぬと云わんよりむしろ語れぬのかも知れぬ。宗近君は恐らく恋の真相をせぬ男だろう。藤尾のおっとには不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
 気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなるおのれを含んでいる。悪戯いたずらをして親の前へ出るときの心持を考えて見るとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる了見りょうけんよりは何となく物騒だと云う感じがおもである。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。らいきらいなものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡巡しゅんじゅんするのと一般である。ただの気の毒とはよほどおもむきが違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。
「散歩ですか」と小野さんは鄭寧ていねいに聞いた。
「うん。今、そのかどで電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」
 この答は少々論理にかなわないと、小野さんは思った。しかし論理はどうでも構わない。
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いで差支さしつかえない。少し君の歩く方角へ急いでいっしょに行こう。――その紙屑籠かみくずかごを出せ。持ってやるから」
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど嵩張かさばる割に軽いもんだね。見っともないと云うのは小野さんの事だ」と宗近君は屑籠をりながら歩き出す。
「そう云う風にげるとさも軽そうだ」
「物は提げ様一つさ。ハハハハ。こりゃ勧工場かんこうばで買ったのかい。だいぶ精巧なものだね。紙屑を入れるのはもったいない」
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。本当の紙屑が這入はいっていちゃ……」
「なに持って歩けるよ。電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。滅多めったな屑は入れられない」
歌反古うたほごとか、五車ごしゃ反古と云うようなものを入れちゃ、どうです」
「そんなものはらない。紙幣しへいの反古をたくさん入れて貰いたい」
「ただの反古を入れて置いて、催眠術を掛けて貰う方が早そうだ」
「まず人間の方で先に反古ほごになる訳だな。乞うかいより始めよか。人間の反古なら催眠術を掛けなくてもたくさんいる。なぜこう隗より始めたがるのかな」
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども」
「自働屑籠を発明したら好かろう。そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう」
「一つ専売でも取るか」
「アハハハハ好かろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかも知れません」と小野さんは切り抜けた。
「時に君は昨夕ゆうべ妙なつれとイルミネーションを見に行ったね」
 見物に行った事はさっき露見してしまった。今更いまさら隠す必要はない。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。甲野こうのさんは見つけても知らぬ顔をしている。藤尾は知らぬ顔をして、しかも是非共こちらから白状させようとする。宗近君はむこうから正面に質問してくる。小野さんは何気なく答えながら、心のうちになるほどと思った。
「あれは君の何だい」
「少し猛烈ですね。――もとの先生です」
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄妹と見えますか」
「夫婦さ。好い夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼をそらした。向側むこうがわ硝子戸ガラスどのなかに金文字入の洋書が燦爛さんらんと詩人の注意をうながしている。
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。何か買うのかい」
「面白いものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
 宗近君は返事をする前に、屑籠を提げたまま、電車の間を向側へけ抜けた。小野さんも小走こばしりいて来る。
「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の眼鏡めがねを硝子窓にり寄せて余念なく見取れている。
 小羊ラムの皮を柔らかになめして、木賊色とくさいろの濃き真中に、水蓮すいれんを細く金にえがいて、はなびらの尽くるうてなのあたりから、直なる線を底まで通して、ぐるりと表紙の周囲をまわらしたのがある。背を平らにって、深きくれないに金髪を一面にわせたような模様がある。堅き真鍮版しんちゅうばんに、どっかとクロースの目をつぶして、重たきはく楯形たてがたに置いたのがある。素気すげなきカーフの背を鈍色にびいろに緑に上下うえしたに区切って、双方に文字だけをちりばめたのがある。ざら目の紙に、ひんよく朱の書名を配置したとびらも見える。
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な装釘バインジングだ。どうも」
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから上部うわべを奇麗にする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね」
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのはなさけない」
「とかく眼鏡がたたるようだ。――宗近君は近視眼じゃないんですか」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
冗談じょうだんを云っちゃいけない。――さあ好加減いいかげんに歩こう」
 二人は肩をならべてまた歩き出した。
「君、と云う鳥を知ってるだろう」と宗近君が歩きながら云う。
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は漁夫りょうし魚籃びくの中に這入はいるから、いいじゃないですか」
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ屑籠くずかごのなかへ入れてしまう。学者と云うものは本を吐いて暮している。なんにも自分の滋養にゃならない。とくの行くのは屑籠ばかりだ」
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
行為アクションさ。本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った牡丹餅ぼたもちにかいた牡丹餅と間違えておとなしくながめているのと同様だ。ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか」
「さよう」と小野さんはを延ばして答えたが、
たとえば」と聞き返した。
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと昨夜ゆうべの女ね」
 小野さんのわきの下が何だかじめじめする。
「あれは僕よく知ってるぜ」
 ことの事件なら糸子から聞いた。そのほかに何も知るはずがない。
蔦屋つたやの裏にいたでしょう」と一躍して先へ出てしまった。
「琴を弾いていた」
「なかなかうまいでしょう」と小野さんは容易に悄然しょげない。藤尾に逢った時とは少々様子が違う。
「旨いんだろう、何となく眠気ねむけを催したから」
「ハハハハそれこそアイロニーだ」と小野さんは笑った。小野さんの笑い声はいかなる場合でも静の一字を離れない。その上色彩つやがある。
「冷やかすんじゃない。真面目まじめなところだ。かりそめにも君の恩師の令嬢を馬鹿にしちゃ済まない」
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催おすところが好いんだ。人間でもそうだ。眠気を催おすような人間はどこかたっといところがある」
「古くって尊といんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊とくない」
「ばかりじゃない。ことに依ると、尊とい人間を時候おくれだなどとけなしたがる」
「今日は何だか攻撃ばかりされている。ここいらで御分れにしましょうか」と小野さんは少し苦しいところを、わざと笑って、立ち留る。同時に右の手を出す。紙屑籠を受取ろうと云うなぞである。
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
 二人はまた歩き出す。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩き出す。双方で双方を軽蔑けいべつしている。
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙がしい事がありそうには見えませんよ」
「そう忙がしがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構に出来る間は結構にして置かんと、いざと云う時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変らず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙がしいだろう」
「甲野の方は四五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつの事やら」
「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる甲斐かいがない」
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」
 小野さんは急にどきんとした。何の話か分らない。眼鏡のふちから、斜めに宗近君を見ると、相変らず、紙屑籠かみくずかごって、揚々ようようと正面を向いて歩いている。
「どんな……」と聞き返した時は何となくせいがなかった。
「どんなって、よっぽど深い因縁いんねんと見える」
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
 小野さんは少し安心した。しかし何だか引っ掛っている。浅かれ深かれ宗近君と孤堂こどう先生との関係をぷすりと切って棄てたい。しかし自然が結んだものは、いくら能才でも天才でも、どうする訳にも行かない。京の宿屋は何百軒とあるに、何で蔦屋つたやへ泊り込んだものだろうと思う。泊らんでも済むだろうにと思う。わざわざ三条へ梶棒かじぼうおろして、わざわざ蔦屋へ泊るのはいらざる事だと思う。酔興すいきょうだと思う。余計な悪戯いたずらだと思う。先方にえきもないのに好んで人を苦しめる泊り方だと思う。しかしいくら、どう思っても仕方がないと思う。小野さんは返事をする元気も出なかった。
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ。――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
 の字が少し気になる。春雨の欄に出て、連翹れんぎょうの花もろともに古い庭を見下みくだされた事は、とくの昔に知っている。今更引合ひきあいに出されても驚ろきはしない。しかし二階からとなると剣呑けんのんだ。そのほかにまだ見られた事があるにきまっている。不断なら進んで聞くところだが、何となく空景気からけいきを着けるような心持がして、どこでと押を強く出損でそくなったまま、二三歩あるく。
嵐山らんざんへ行くところも見た」
「見ただけですか」
「知らない人に話は出来ない。見ただけさ」
「話して見れば好かったのに」
 小野さんは突然冗談じょうだんを云う。にわかに景気が好くなった。
「団子を食っているところも見た」
「どこで」
「やっぱり嵐山らんざんだ」
「それっ切りですか」
「まだ有る。京都から東京までいっしょに来た」
「なるほど勘定して見ると同じ汽車でしたね」
「君が停車場ステーションへ迎えに行ったところも見た」
「そうでしたか」と小野さんは苦笑した。
「あの人は東京ものだそうだね」
「誰が……」と云い掛けて、小野さんは、眼鏡のたまのはずれから、変に相手の横顔をのぞき込んだ。
「誰が? 誰がとは」
「誰が話したんです」
 小野さんの調子は存外落ついている。
「宿屋の下女が話した」
「宿屋の下女が? 蔦屋つたやの?」
 念を押したような、あとが聞きたいような、後がないのを確かめたいような様子である。
「うん」と宗近君は云った。
「蔦屋の下女は……」
「そっちへ曲るのかい」
「もう少し、どうです、散歩は」
「もう好い加減に引き返そう。さあ大事の紙屑籠。落さないように持って行くがいい」
 小野さんはうやうやしく屑籠を受取った。宗近君は飄然ひょうぜんとして去る。
 一人になると急ぎたくなる。急げば早く孤堂先生のうちへ着く。着くのはありがたくない。孤堂先生の家へ急ぎたいのではない。小野さんは何だか急ぎたいのである。両手はふさがっている。足は動いている。恩賜の時計は胴衣チョッキのなかで鳴っている。往来はにぎやかである。――すべてのものを忘れて、小野さんの頭は急いでいる。早くしなければならん。しかしどうして早くして好いか分らない。ただ一昼夜が十二時間に縮まって、運命の車が思う方角へ全速力で廻転してくれるよりほかに致し方はない。進んで自然の法則を破るほどな不料簡ふりょうけんは起さぬつもりである。しかし自然の方で、少しは事情を斟酌しんしゃくして、自分の味方になって働らいてくれても好さそうなものだ。そうなる事は受合だと保証がつけば、観音かんのん様へ御百度を踏んでも構わない。不動様へ護摩ごまを上げてもよろしい。耶蘇教ヤソきょうの信者には無論なる。小野さんは歩きながら神の必要を感じた。
 宗近と云う男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思う事がある。何が出来るものかと軽蔑さげすむ事もある。露骨でいやになる事もある。しかし今更のように考えて見ると、あの態度は自分にはとうてい出来ない態度である。出来ないからこちらが劣っていると結論はせん。世の中には出来もせぬが、またしたくもない事がある。はしの先で皿を廻す芸当は出来るより出来ない方が上品だと思う。宗近の言語動作は無論自分には出来にくい。しかし出来にくいから、かえって自分の名誉だと今までは心得ていた。あの男の前へ出ると何だか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与えるが専一と思う。宗近は社交の第一要義にも通じておらん。あんな男はただの世の中でも成功は出来ん。外交官の試験に落第するのは当り前である。
 しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖して見ようと企てた事はないがとにかく妙である。故意に自分をしつけようとしている景色けしき寸毫すんごうも先方に見えないのにこちらは何となく感じてくる。ただ会釈えしゃくもなく思うままを随意に振舞っている自然のなかから、どうだと云わぬばかりに圧迫が顔を出す。自分はなんだか気が引ける。あの男に対しては済まぬ裏面の義理もあるから、それがたたって、徳義が制裁を加えるとのみ思い通して来たがそればかりではけっしてない。たとえば天をはばからず地を憚からぬ山の、無頓着むとんじゃくそびえて、面白からぬと云わんよりは、美くしく思えぬ感じである。星からつる露を、ずいに受けて、可憐のはなびらを、折々は、風の音信たよりと小川へ流す。自分はこんな景色でなければ楽しいとは思えぬ。要するに宗近と自分とは檜山ひのきやま花圃はなばたけちがいで、本来からしょうが合わぬから妙な感じがするに違ない。
 しょうが合わぬ人を、合わねばそれまでと澄していた事もある。気の毒だと考えた事もある。なさけないと軽蔑さげすんだ事もある。しかし今日ほどうらやましく感じた事はない。高尚だから、上品だから、自分の理想に近いから、羨ましいとは夢にも思わぬ。ただあんな気分になれたらさぞよかろうと、今の苦しみにくらべて、急に羨ましくなった。
 藤尾には小夜子さよこと自分の関係を云い切ってしまった。あるとは云い切らない。世話になった昔の人に、心細く附き添うさき影を、わぬ五年をかすみと隔てて、再びうたばかりの朦朧ぼんやりした間柄と云い切ってしまった。恩を着るはなさけの肌、師にあつきは弟子ていしの分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと云い切ってしまった。できるならばと辛防しんぼうして来たうそはとうとういてしまった。ようやくの思で吐いた嘘は、嘘でも立てなければならぬ。嘘をまこといつわる料簡りょうけんはなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある、責任が出る。あからさまに云えば嘘に対して一生の利害が伴なって来る。もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は神もきらいだと聞く。今日からは是非共嘘を実と通用させなければならぬ。
 それが何となく苦しい。これから先生の所へ行けばきっと二重の嘘を吐かねばならぬような話を持ちかけられるに違ない。切り抜ける手はいくらもあるが、手詰えづめに出られるとねつける勇気はない。もう少し冷刻に生れていれば何の雑作ぞうさもない。法律上の問題になるような不都合はしておらんつもりだから、判然はっきり断わってしまえばそれまでである。しかしそれでは恩人に済まぬ。恩人からせまられぬうちに、自分の嘘が発覚せぬうちに、自然が早く廻転して、自分と藤尾が公然結婚するように運ばなければならん。――あとは? 後は後から考える。事実は何よりも有効である。結婚と云う事実が成立すれば、万事はこの新事実を土台にして考え直さなければならん。この新事実を一般から認められれば、あとはどんな不都合な犠牲でもする。どんなにつらい考え直し方でもする。
 ただ機一髪と云う間際まぎわで、煩悶はんもんする。どうする事も出来ぬ心がく。進むのがこわい。退しりぞくのがいやだ。早く事件が発展すればと念じながら、発展するのが不安心である。したがって気楽な宗近が羨ましい。万事を商量するものは一本調子の人を羨ましがる。
 春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき浅黄あさぎの幕はふわりふわりと幾枚も空を離れて地の上にかぶさってくる。払い退ける風も見えぬ往来は、夕暮のなすがままに静まり返って、蒼然そうぜんたる大地の色は刻々にはびこって来る。西のはてに用もなく薄焼けていた雲はようやく紫に変った。
 蕎麦屋そばやの看板におかめの顔が薄暗くふくれて、うしろからけるを今やと赤い頬に待つ向横町むこうよこちょうは、二間足らずの狭い往来になる。黄昏たそがれは細長く家と家の間に落ちて、とざさぬかどを戸ごとにくぐる。部屋のなかはなおさら暗いだろう。
 曲って左側の三軒目まで来た。門構と云う名はつけられない。往来をわずかに仕切る格子戸こうしどをそろりと明けると、なかは、ほのくらく近づくよいを、一段と刻んで下へ降りたような心持がする。
「御免」と云う。
 静かな声は落ついた春の調子を乱さぬほどにおだやかである。幅一尺の揚板あげいたに、菱形ひしがたの黒い穴が、えんの下へ抜けているのをながめながら取次をおとなしく待つ。返事はやがてした。うんと云うのか、ああと云うのかはいと云うのか、さらに要領を得ぬ声である。小野さんはやはり菱形の黒い穴をのぞきながら取次を待っている。やがて障子しょうじむこうでずしんと誰かね起きた様子である。怪しい普請ふしんと見えて根太ねだの鳴る音が手に取るように聞える。例の壁紙模様のふすまく。二畳の玄関へ出て来たなと思うもなく、薄暗い障子の影に、肉の落ちた孤堂先生の顔がひげもろともに現われた。
 平生からあまり丈夫には見えない。骨が細く、からだが細く、顔はことさら細く出来上ったうえに、取る年は争われぬ雨と風と苦労とを吹きつけて、からい浮世に、辛くも取り留めた心さえ細くなるばかりである。今日は一層ひとしお顔色が悪い。得意の髯さえも尋常には見えぬ。黒い隙間すきまを白いのがうずめて、白い隙間を風が通る。
 いにしえの人はあごの下まで影が薄い。一本ずつ吟味して見ると先生の髯は一本ごとにひょろひょろしている。小野さんは鄭寧ていねいに帽を脱いで、無言のまま挨拶あいさつをする。英吉利刈イギリスがりの新式な頭は、眇然びょうぜんたる「過去」の前に落ちた。
 さしわたし何十尺の円をえがいて、周囲に鉄の格子をめた箱をいくつとなくさげる。運命の玩弄児がんろうじはわれ先にとこの箱へ這入はいる。円は廻り出す。この箱にいるものが青空へ近く昇る時、あの箱にいるものは、すべてを吸い尽す大地へそろりそろりと落ちて行く。観覧車を発明したものは皮肉な哲学者である。
 英吉利式イギリスしきの頭は、この箱の中でこれから雲へ昇ろうとする。心細いひげに、世をび古りた記念のためと、大事に胡麻塩ごましおを振り懸けている先生は、あの箱の中でこれから暗い所へ落ちつこうとする。片々かたかたが一尺昇れば片々は一尺下がるように運命は出来上っている。
 昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、くだりつつ夜に行くものの前に鄭寧ていねいこうべを惜気もなく下げた。これを神の作れるアイロニーと云う。
「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。
「さあ御上り」とたちまち座敷へ取って返す。小野さんは靴のひもを解く。解き終らぬ先に先生はまた出てくる。
「さあ御上り」
 座敷の真中に、昼をいとわず延べたとこを、壁際へ押しやったあとに、新調の座布団が敷いてある。
「どうか、なさいましたか」
「何だか、今朝から心持が悪くってね。それでも朝のうちは我慢していたが、ひるからとうとう寝てしまった。今ちょうどうとうとしていたところへ君が来たので、待たして御気の毒だった」
「いえ、今格子をけたばかりです」
「そうかい。何でも誰か来たようだから驚いて出て見た」
「そうですか、それは御邪魔をしました。寝ていらっしゃれば好かったですね」
「なに大した事はないから。――それに小夜も婆さんもいないものだから」
「どこかへ……」
「ちょっと風呂に行った。買物かたがた」
 床の抜殻は、こんもり高く、い出した穴を障子に向けている。影になった方が、薄暗く夜着の模様をぼかす上に、投げ懸けた羽織の裏が、乏しき光線ひかりをきらきらとあつめる。裏はねずみ甲斐絹かいきである。
「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう」と先生は立ち上がる。
「寝ていらしったら好いでしょう」
「いや少し起きて見よう」
「何ですかね」
風邪かぜでもないようだが、――なに大した事もあるまい」
昨夕ゆうべ御出おでになったのが悪かったですかね」
「いえ、なに。――時に昨夕は大きに御厄介」
「いいえ」
「小夜も大変喜んで。御蔭おかげで好い保養をした」
「もう少しひまだと、方々へ御供をする事が出来るんですが……」
「忙がしいだろうからね。いや忙がしいのは結構だ」
「どうも御気の毒で……」
「いや、そんな心配はちっともらない。君の忙がしいのは、つまり我々の幸福しあわせなんだから」
 小野さんは黙った。部屋はしだいに暗くなる。
「時に飯は食ったかね」と先生が聞く。
「ええ」
「食った?――食わなければ御上り。何にもないが茶漬ならあるだろう」とふらふらと立ちける。締め切った障子に黒い長い影が出来る。
「先生、もう好いんです。飯は済まして来たんです」
「本当かい。遠慮しちゃいかん」
「遠慮しやしません」
 黒い影は折れてもとのごとく低くなる。えがらっぽい咳が二つ三つ出る。
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云いける途端とたんにまた二つ三つ込み上げる。小野さんは憮然ぶぜんとして咳の終るを待つ。
「横になってあったまっていらしったら好いでしょう。冷えると毒です」
「いえ、もう大丈夫。出だすと一時いちじいけないんだがね。――年を取ると意気地がなくなって――何でも若いうちの事だよ」
 若いうちの事だとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が始めてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、まばらなひげ風塵ふうじんに託して、残喘ざんせんに一昔と二昔を、互違たがいちがいに呼吸する口から聞いたのは、少なくとも今が始めてである。の鐘はいんに響いてぼうんと鳴る。薄暗い部屋のなかで、薄暗い人からこの言葉を聞いた小野さんは、つくづく若いうちの事だと思った。若いうちは二度とないと思った。若いうちうまくやらないと生涯しょうがいの損だと思った。
 生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めてさびしかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで寝醒ねざめが悪いのは、損をした昔を思い出すより欝陶うっとうしいかも知れぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちにきめた事は生涯きまってしまう。生涯きまってしまう事を、自分は今どっちかにきめなければならぬ。今日藤尾に逢う前に先生の所へ来たら、あの嘘を当分見合せたかも知れぬ。しかし嘘をいてしまった今となって見ると致し方はない。将来の運命は藤尾に任せたと云ってつかえない。――小野さんは心中でこう云う言訳をした。
「東京は変ったね」と先生が云う。
はげしい所で、毎日変っています」
「恐ろしいくらいだ。昨夜ゆうべもだいぶ驚いたよ」
「随分人が出ましたから」
「出たねえ。あれでも知った人には滅多めったわないだろうね」
「そうですね」と瞹眛あいまいに受ける。
「逢うかね」
 小野さんは「まあ……」と濁しかけたが「まあ、逢わない方ですね」と思い切ってしまった。
「逢わない。なるほど広い所に違ない」と先生は大いに感心している。なんだか田舎染いなかじみて見える。小野さんは光沢つやの悪い先生の顔から眼を放して、自分の膝元を眺めた。カフスは真白である。七宝しっぽう夫婦釦めおとボタンなめらか淡紅色ときいろを緑の上に浮かして、華奢きゃしゃな金縁のなかに暖かく包まれている。背広せびろの地はひんの好い英吉利織イギリスおりである。自己をまのあたりに物色した時、小野さんは自己の住むべき世界を卒然と自覚した。先生に釣り込まれそうなきわどいところで急に忘れ物を思い出したような気分になる。先生には無論分らぬ。
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも可懐なつかしげに話しかける。
「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後からぎ足したように一句を付け添えた。小野さんは早速さそくの返事を忘れて、暗い部屋のなかにすくまるような気がした。
「さっき御嬢さんが御出おいででした」と仕方がないから渡し込む。
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく出掛でがけだったものですから」
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言いよどむ。先生は追窮しない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と漠々ばくばくたる挨拶あいさつをした。挨拶が漠々たると共に、部屋のなかも朦朧もうろう取締とりしまりがなくなって来る。今宵は月だ。月だが、まだがある。のに日は落ちた。とこは一間を申訳のために濃いあいの砂壁に塗り立てた奥には、先生が秘蔵の義董ぎとうふくが掛かっていた。唐代の衣冠いかん蹣跚まんさんくつを危うく踏んで、だらしなく腕に巻きつけた長い袖を、童子の肩にもたした酔態は、この家のさびしさに似ず、春王はるおうの四月にかなう楽天家である。仰せのごとく額をかくすかんむりの、黒い色が著るしく目についたのは今先の事であったに、ふと見ると、ひもか飾か、紋切形に左右に流す幅広の絹さえ、ぼんやりと近づくよいを迎えて、来る夜にまぎれ込もうとする。先生も自分もぐずぐずすると一つ穴へはまって、影のように消えて行きそうだ。
「先生、御頼おたのみ洋灯ランプの台を買って来ました」
「それはありがたい。どれ」
 小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と屑籠くずかごを持ってくる。
「はあ――何だか暗くってよく見えない。灯火あかりけてからゆっくり拝見しよう」
「私がけましょう。洋灯ランプはどこにありますか」
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
 薄暗い影が一つ立って、障子しょうじをすうと明ける。残る影はひそかに手をこまぬいて動かぬほどを、夜はおそって来る。六畳の座敷はさみしい人を陰気に封じ込めた。ごほんごほんと咳をせく。
 やがてえんの片隅で燐寸マッチの音と共に、咳はやんだ。明るいものはへやのなかに動いて来る。小野さんは洋袴ズボンの膝を折って、五分心ごぶじんを新らしい台の上にせる。
「ちょうどよく合うね。すわりがいい。紫檀したんかい」
模擬まがいでしょう」
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方がはるかに好いようだ」
 二三年前と違って、先生は些額さがくの恩給とわずかな貯蓄から上がる利子とで生活して行かねばならぬ。小野さんの世話をした時とはだいぶ違う。事に依れば小野さんの方から幾分かみついで貰いたいようにも見える。小野さんはかしこまって控えている。
「なに小夜さえなければ、京都にいてもつかえないんだが、若い娘を持つとなかなか心配なもので……」と途中でちょっと休んで見せる。小野さんは畏まったまま応じなかった。
わたしなどはどこのはてで死のうが同じ事だが、後に残った小夜がたった一人で可哀想かわいそうだからこの年になって、わざわざ東京まで出掛けて来たのさ。――いかな故郷でももう出てから二十年にもなる。知合も交際つきあいもない。まるで他国と同様だ。それに来て見ると、砂が立つ、ほこりが立つ。雑沓ざっとうはする、物価ものたかし、けっして住み好いとは思わない。……」
「住み好い所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二三軒はあったんだが、長い間音信不通いんしんふつうにしていたものだから、今では居所も分らない。不断はさほどにも思わないが、こうやって、半日でも寝ると考えるね。何となく心細い」
「なるほど」
「まあ御前がそばにいてくれるのが何よりの依頼たよりだ」
「御役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。いそがしいところを……」
「論文の方がないと、まだひまなんですが」
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
 いつ出すのか分らなかった。早く出さなければならないと思う。こんな引っ掛りがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と云う。
 先生は襦袢じゅばんそでから手を抜いて、素肌のふところひじまで収めたまま、二三度肩をゆすって
「どうも、ぞくぞくする」と細長いひげえりのなかにうずめた。
御寝おやすみなさい。起きていらっしゃると毒ですから。私はもう御暇おいとまをします」
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければわたしの方で御免蒙ごめんこうむって寝る。それにまだ話も残っているから」
 先生は急に胸の中から、手を出してひざの上へ乗せて、双方を一度に打った。
「まあゆっくりするが好い。今暮れたばかりだ」
 迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の可懐味なつかしみや、一夕いっせき無聊ぶりょうではない。よくよく行く先が案じられて、亡き後の安心を片時へんじも早く、脈の打つ手に握りたいからであろう。
 実は夕食めしもまだ食わない。いれば耳を傾けたくない話が出る。腰だけはとうから宙に浮いている。しかし先生の様子を見ると無理に洋袴ズボンの膝をのばす訳にもいかない。老人は病をつとめて、わがために強いて元気をつけている。親しみやすき蒲団ふとんは片寄せられて、穴ばかりになった。温気ぬくもりは昔の事である。
「時に小夜の事だがね」と先生は洋灯ランプを見ながら云う。五分心ごぶじん蒲鉾形かまぼこなりとも火屋ほやのなかは、つぼみつる油を、物言わず吸い上げて、穏かな※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの舌が、暮れたばかりの春を、動かず守る。人わびさみしきよいを、ただ一点のあかきにつぐのう。燈灯ともしび希望のぞみの影を招く。
「時に小夜の事だがね。知っての通りああ云う内気な性質たちではあるし、今の女学生のようにハイカラな教育もないからとうてい気にもいるまいが、……」まで来て先生は洋灯から眼を放した。眼は小野さんの方に向う。何とか取り合わなければならない。
「いいえ――どうして――」と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔からひとみを動かさない。その上口をかずに何だか待っている。
「気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに納得なっとくした先生は先へ進む。
「あれも不憫ふびんだからね」
 小野さんは、そうだとも、そうでないとも云わなかった。手はひざの上にある。眼は手の上にある。
わたしがこうして、どうかこうかしているうちは好い。好いがこの通りの身体だから、いつ何時なんどきどんな事がないとも限らない。その時が困る。かねての約束はあるし、御前も約束を反故ほごにするような軽薄な男ではないから、小夜の事は私がいないあとでも世話はしてくれるだろうが……」
「そりゃ勿論もちろんです」と云わなければならない。
「そこは私も安心している。しかし女は気の狭いものでね。アハハハハ困るよ」
 何だか無理に笑ったように聞える。先生の顔は笑ったためにいよいよさみしくなった。
「そんなに御心配なさる事もらんでしょう」と覚束おぼつかなく云う。言葉の腰がふらふらしている。
「私はいいが、小夜がさ」
 小野さんは右の手で洋服の膝をこすり始めた。しばらくは二人とも無言である。心なき灯火ともしびが双方を半分はんぶずつ照らす。
「御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない」
「そうでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが判然はっきりしていれば待っても好いさ。小夜にも私からよく話して置く。しかしただ少しでは困る。いくら親でも子に対して幾分か責任があるから。――少しって云うのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい」
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。大体おおよそ
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
来々月さらいげつはどうだね」
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
 小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ馬鹿気ばかげている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮せる」
 小野さんはまた返事のしようがなかった。
 東京は物価ものが高いと云いながら、東京と京都の区別を知らない。鳴海絞なるみしぼり兵児帯へこおびを締めて芋粥いもがいに寒さをしのいだ時代と、大学を卒業して相当の尊敬を衣帽いぼうの末に払わねばならぬ今の境遇とを比較する事を知らない。書物は学者に取って命から二代目である。按摩あんまの杖と同じく、無くっては世渡りが出来ぬほどに大切な道具である。その書物は机の上へいてでも出る事か、中には人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空いっさいくうである。したがって、おいそれと簡単な返事が出来ない。
 小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右をのばして洋灯ランプしんをぱっと出した。六畳の小地球が急に東の方へ廻転したように、一度は明るくなる。先生の世界観がまたたきと共に変るように明るくなる。小野さんはまだ螺旋ねじから手を放さない。
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
 小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕までのぞいて見る。やがて背広せびろ表隠袋おもてかくしから、真白な手巾ハンケチつまみ出して丁寧に指頭ゆびさきの油を拭き取った。
「少しが曲っているから……」と小野さんは拭き取った指頭を鼻の先へ持って来てふんふんと二三度いだ。
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生はまたの開いた灯を見ながら云う。
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん御手数おてすうを掛けて……」
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだんれてくる様子だから」
「そうですか、そりゃ好い按排あんばいでした。実はどうかと思って心配していたんですが。その代り人間はたしかだそうです。浅井が受合って行ったんですから」
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことにると今日くらいの汽車で帰って来るかも知れません」
一昨おとといかの手紙には、二三日中に帰るとあったよ」
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんはじ上げた五分心ごぶじんの頭を無心にながめている。浅井の帰京と五分心の関係を見極みきわめんと思索するごとくに眸子ぼうしは一点に集った。
「先生」と云う。顔は先生の方へ向けえた。例になく口のかどにいささかの決心をもたらしている。
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が判然はっきりさえすれば安心して待っている。じゃ小夜にもそう話して置こう」
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、の針はく回るらしい。
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」
「それでは――御疎怱おそうそうであった」
 小野さんはすっきりと立つ。先生は洋灯ランプる。
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええおだやかな晩です」と小野さんは靴のひもを締めつつ格子こうしから往来を見る。
「京都はなお穏だよ」
 こごんでいた小野さんはようやく沓脱くつぬぎに立った。格子がく。華奢きゃしゃ体躯からだが半分ばかり往来へ出る。
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
 小野さんはうやうやしく帽子を脱ぐ。先生の影は洋灯と共に消えた。
 外はおぼろである。なかば世を照らし、半ば世をとざす光が空にかかる。空は高きがごとく低きがごとくすわらぬ腰を、けぬよいに浮かしている。懸るものはなおさらふわふわする。丸いふちに黄を帯びた輪をぼんやりふくらまして輪廓もたしかでない。黄な帯は外囲そといに近く色を失って、黒ずんだあいのなかに煮染出にじみだす。流れれば月も消えそうに見える。月は空に、人は地にまぎれやすい晩である。
 小野さんの靴は、湿しめっぽい光をはばかるごとく、地に落すかかと洋袴ズボンすそに隠して、小路こうじ蕎麦屋そばや行灯あんどんまで抜け出して左へ折れた。往来は人のにおいがする。地に※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)く影は長くはない。丸まって動いて来る。こんもりとれて去る。下駄の音はおぼろに包まれて、しものようにはえぬ。でて通る電信柱に白い模様が見えた。すかすひとみを不審とえると白墨の相々傘あいあいがさうつる。それほどの浅い夜を、昼から引っ越して来たかすみが立てめる。行く人も来る人も何となく要領を得ぬ。逃ればもやのなか、いずれば月の世界である。小野さんは夢のようにを移して来た。※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)くくとしてひとり行くと云う句に似ている。
 実は夕食ゆうめしもまだ食わない。いつもなら通りへ出ると、すぐ西洋料理へでも飛び込む料簡りょうけんで、得意なひだの正しい洋袴を、誇り顔に運ぶはずである。今宵こよいはいつまで立っても腹も減らない。牛乳ミルクさえ飲む気にならん。陽気は暖か過ぎる。胃は重い。引く足は千鳥にはならんが、しか踏答ふみごたえがないような心持である。そとおろすせいかも知れぬ。さればとて、こつりと大地へ当てる気にはならん。巡査のようにあるけたなら世に朧はらぬ。次に心配は要らぬ。巡査だから、ああも歩ける。小野さんには――ことに今夜の小野さんには――巡査の真似は出来ない。
 なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から衣服きものの着こなし方に至って、ことごとくすいを尽くしていると自信している。ただ気が弱い。気が弱いために損をする。損をするだけならいいがきならぬ羽目はめおちる。水におぼれるものは水をると何かの本にあった。背に腹は替えられぬ今の場合、とあきらめて蹴ってしまえばそれまでである。が……
 女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。吾妻下駄あずまげたと駒下駄の音が調子をそろえて生温なまぬるく宵を刻んでゆたかなるなかに、話し声は聞える。
洋灯ランプの台を買って来て下さったでしょうか」と一人が云う。「そうさね」と一人がこたえる。「今頃は来ていらっしゃるかも知れませんよ」と前の声がまた云う。「どうだか」とあとの声がまたこたえる。「でも買って行くとおっしゃったんでしょう」と押す。「ああ。――何だかあったか過ぎる晩だこと」と逃げる。「御湯のせいでござんすよ。薬湯はあったまりますから」と説明する。
 二人の話はここで小野さんの向側むこうがわを通り越した。見送ると並ぶ軒下から頭の影だけがはすに出て、蕎麦屋の方へ動いて行く。しばらく首をじ向けて、立ち留っていた小野さんは、また歩き出した。
 浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。宗近むねちかのような平気な男なら、苦もなくどうかするだろう。甲野こうのなら超然として板挟いたばさみになっているかも知れぬ。しかし自分には出来ない。むこうへ行って一歩深くはまり、こっちへ来て一歩深く陥る。双方へ気兼をして、片足ずつ双方へ取られてしまう。つまりは人情にからんで意思に乏しいからである。利害? 利害の念は人情の土台の上に、あとからかぶせた景気の皮である。自分を動かす第一の力はと聞かれれば、すぐ人情だと答える。利害の念は第三にも第四にも、ことによったら全くなくっても、自分はやはり同様の結果におちいるだろうと思う。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
 いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手をこまぬいて、自然のすがままにして置いたら、事件はどう発展するか分らない。想像するとおそろしくなる。人情に屈託していればいるほど、怖しい発展を、のあたりに見るようになるかもしれぬ。是非ここで、どうかせねばならん。しかし、まだ二三日の余裕はある。二三日よく考えた上で決断しても遅くはない。二三日立って智慧ちえが出なければ、その時こそ仕方がない。浅井をつらまえて、孤堂先生への談判を頼んでしまう。実はさっきもその考で、浅井の帰りを勘定に入れて、二三日の猶予をと云った。こんな事は人情に拘泥こうでいしない浅井に限る。自分のような情にあついものはとうてい断わり切れない。――小野さんはこう考えて歩いて行く。
 月はまだそらのなかにいる。流れんとして流るる気色けしきも見えぬ。地に落つる光は、ゆる暇なきを、重たき温気おんきに封じ込められて、限りなき大夢を半空にく。乏しい星は雲をくぐって向側むこうがわへ抜けそうに見える。綿のなかに砲弾を打ち込んだのがかろうじて輝やくようだ。静かに重い宵である。小野さんはこのなかを考えながら歩いて行く。今夜は半鐘も鳴るまい。

        十五

 部屋は南を向く。仏蘭西式フランスしきの窓はゆかを去る事五寸にして、すぐ硝子ガラスとなる。け放てば日が這入はいる。あたたかい風が這入る。日は椅子いすの足で留まる。風は留まる事を知らぬ故、容赦なく天井てんじょうまで吹く。窓掛の裏まで渡る。からりとして朗らかな書斎になる。
 仏蘭西窓を右に避けて一脚の机をえる。蒲鉾形かまぼこなりに引戸をおろせば、上からじょうがかかる。明ければ、緑の羅紗らしゃを張り詰めた真中を、斜めに低く手元へけずって、背を平らかに、書を開くべき便宜たよりとする。下は左右を銀金具の抽出ひきだしに畳み卸してその四つ目が床に着く。床はくすの木の寄木よせき仮漆ヴァーニッシを掛けて、礼にかなわぬ靴の裏を、ともすれば危からしめんと、てらてらする。
 そのほかに洋卓テエブルがある。チッペンデールとヌーヴォーを取り合せたような組み方に、思い切った今様いまよう華奢きゃしゃな昔に忍ばして、へやの真中を占領している。周囲まわりに並ぶ四脚の椅子は無論同式どうしき構造つくりである。繻子しゅすの模様もついとは思うが、日除ひよけ白蔽しろおいに、卸す腰も、もたれる背も、ただ心安しと気を楽に落ちつけるばかりで、目の保養にはならぬ。
 書棚は壁に片寄せて、けんの高さを九尺つらねて戸口まで続く。組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋むこうから取り寄せたものである。いっぱいに並べた書物が紺に、黄に、いろいろに、ゆかしき光を闘わすなかに花文字の、角文字かくもじの金は、縦にも横にも奇麗である。
 小野さんは欽吾きんごの書斎を見るたびにうらやましいと思わぬ事はない。欽吾も無論きらってはおらぬ。もとは父の居間であった。仕切りの戸を一つ明けるとすぐ応接間へ抜ける。残る一つを出ると内廊下から日本座敷へ続く。洋風の二間は、父が手狭てぜま住居すまいを、二十世紀に取りひろげた便利の結果である。趣味にかなうと云わんよりは、むしろ実用にせまられて、時好の程度におのれを委却いきゃくした建築である。さほどにうれしい部屋ではない。けれども小野さんは非常に羨ましがっている。
 こう云う書斎に這入はいって、好きな書物を、好きな時に読んで、きた時分に、好きな人と好きな話をしたら極楽ごくらくだろうと思う。博士論文はすぐ書いて見せる。博士論文を書いたあとは後代を驚ろかすような大著述をして見せる。定めて愉快だろう。しかし今のような下宿住居で、隣り近所の乱調子に頭をき廻されるようではとうてい駄目である。今のように過去に追窮されて、義理や人情のごたごたに、日夜共心を使っていてはとうてい駄目である。自慢ではないが自分は立派な頭脳を持っている。立派な頭脳を持っているものは、この頭脳を使って世間に貢献するのが天職である。天職を尽すためには、尽し得るだけの条件がいる。こう云う書斎はその条件の一つである。――小野さんはこう云う書斎に這入はいりたくてたまらない。
 高等学校こそ違え、大学では甲野こうのさんも小野さんも同年であった。哲学と純文学は科が異なるから、小野さんは甲野さんの学力を知りようがない。ただ「哲世界と実世界」と云う論文を出して卒業したと聞くばかりである。「哲世界と実世界」の価値は、読まぬ身に分るはずがないが、とにかく甲野さんは時計をちょうだいしておらん。自分はちょうだいしておる。恩賜の時計は時を計るのみならず、脳の善悪よしあしをも計る。未来の進歩と、学界の成功をも計る。特典にれた甲野さんは大した人間ではないにきまっている。その上卒業してからこれと云う研究もしないようだ。深い考を内にたくわえているかも知れぬが、蓄えているならもう出すはずである。出さぬは蓄がない証拠と見て差支さしつかえない。どうしても自分は甲野さんより有益な材である。その有益な材を抱いて奔走に、六十円に、月々を衣食するに、甲野さんは、手をこまぬいて、徒然とぜんの日を退屈そうに暮らしている。この書斎を甲野さんが占領するのはもったいない。自分が甲野の身分でこの部屋の主人あるじとなる事が出来るなら、この二年の間に相応の仕事はしているものを、親譲りの貧乏に、れきに伏す天の不公平を、やむを得ず、今日きょうまで忍んで来た。一陽はさちなき人の上にもきたかえると聞く。願くは願くはと小野さんは日頃に念じていた。――知らぬ甲野さんはぽつねんとして机に向っている。
 正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い芝生しばふを一目に見渡すのみか、ほがらかな気が地つづきを、すぐ部屋のなかに這入るものを、甲野さんは締め切ったまま、ひそりと立てこもっている。
 右手の小窓は、硝子ガラスおろした上に、左右から垂れかかる窓掛になかおおわれている。通う光線ひかりかすかにゆかの上に落つる。窓掛は海老茶えびちゃの毛織に浮出しの花模様をほこりのままに、二十日ほどは動いた事がないようである。色もだいぶめた。部屋と調和のない装飾も、過渡時代の日本には当然として立派に通用する。窓掛の隙間すきまから硝子へ顔をしつけて、外をのぞくと扇骨木かなめ植込うえごみを通して池が見える。棒縞ぼうじまの間から横へ抜けた波模様のように、途切れ途切れに見える。池の筋向すじむこう藤尾ふじおの座敷になる。甲野さんは植込も見ず、池も見ず、芝生も見ず、机にってじっとしている。き残された去年の石炭が、煖炉のなかにただ一個冷やかに春を観ずるていである。
 やがて、かたりと書物を置きえる音がする。甲野さんは手垢てあかの着いた、例の日記帳を取り出して、け始める。
「多くの人はわれに対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。いわく。命に服せざれば汝をにくまんと」
 細字さいじに書き終った甲野さんは、そのあと片仮名かたかなでレオパルジと入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物を再びもとの座に直して、静かに読み始める。細い青貝の軸を着けた洋筆ペンがころころと机をすべってゆかに落ちた。ぽたりと黒いものが足の下に出来る。甲野さんは両手を机のかどに突張って、心持腰をうしろへ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。手捜てさぐりに取り上げた洋筆軸ペンじくは父が西洋から買って来てくれた昔土産むかしみやげである。
 甲野さんは、指先に軸をつまんだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らしててのひらのなかに落し込む。掌のむきを上下にえると、長い軸は、ころころと前へ行きうしろへ戻る。動くたびにきらきら光る。小さい記念かたみである。
 洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。ページをはぐるとこんな事が、かいてある。
「剣客の剣を舞わすに、力相若あいしくときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌いっちゅうの末に制する事あたわざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人をあざむくもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐きっさに富むとき、二人ににんの位地は、誠実をもって相対するとごうも異なるところなきに至る。この故にとは優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽ふそくぎ、不足悪に出会しゅっかいするにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事かたしとす。第三の場合はもとよりまれなり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において匹敵ひってきするをもって常態とすればなり。人相賊あいぞくしてついに達するあたわず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易にいたり得べきを思えば、悲しむべし」
 甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の洋筆軸ペンじくを、ぽとりと墨壺すみつぼの底に落す。落したまま容易に上げないと思うと、ついには手を放した。レオパルジは開いたまま、黄な表紙の日記をページの上に載せる。両足を踏張ふんばって、組み合せた手を、頸根くびねにうんと椅子の背にもたれかかる。仰向あおむく途端に父の半身画と顔を見合わした。
 余り大きくはない。半身とは云え胴衣チョッキボタンが二つ見えるだけである。服はフロックと思われるが、背景の暗いうちに吸い取られて、明らかなのは、わずかにるる白襯衣しろシャツの色と、額の広い顔だけである。
 名のある人の筆になると云う。三年ぜん帰朝の節、父はこの一面を携えて、はるかなる海を横浜の埠頭ふとうのぼった。それより以後は、欽吾が仰ぐたびに壁間にかかっている。仰がぬ時も壁間から欽吾を見下みおろしている。筆をるときも、頬杖ほおづえを突くときも、仮寝うたたねの頭を机に支うるときも――絶えず見下している。欽吾がいない時ですら、画布カンヴァスの人は、常に書斎を見下している。
 見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せにり上げた眼玉ではない。一刷毛ひとはけに輪廓をえがいて、眉とまつげの間に自然の影が出来る。下瞼したまぶた垂味たるみが見える。取る年が集って目尻を引張る波足が浮く。その中にひとみきている。動かないでしかも活きている刹那さつなの表情を、そのまま画布に落した手腕は、会心の機を早速さそくに捕えた非凡のと云わねばならぬ。甲野さんはこの眼を見るたびに活きてるなと思う。
 想界に一瀾いちらんを点ずれば、千瀾追うて至る。瀾々らんらん相擁あいようして思索のくにに、吾を忘るるとき、懊悩おうのうこうべを上げて、この眼にはたりとえば、あっ、ったなと思う。ある時はおやいたかと驚ろく事さえある。――甲野さんがレオパルジから眼を放して、万事を椅子の背に託した時は、常よりもはげしくおやいたなと驚ろいた。
 思出おもいでの種に、き人を忍ぶ片身かたみとは、思い出す便たよりを与えながら、亡き人をもとに返さぬ無惨むざんなものである。肌に離さぬ数糸の髪を、いだいては、泣いては、月日はただ先へとめぐるのみの浮世である。片身は焼くに限る。父が死んでからの甲野さんは、何となくこの画を見るのがいやになった。離れても別状がないと落つきの根城をえて、咫尺しせき慈顔じがん髣髴ほうふつするは、離れたる親を、記憶の紙にあぶり出すのみか、える日を春に待てとのうらにもなる。が、逢おうと思った本人はもう死んでしまった。活きているものはただ眼玉だけである。それすら活きているのみでごうも動かない。――甲野さんは茫然ぼうぜんとして、眼玉をながめながら考えている。
 親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。ひげもまるで白くはない。血色もみずみずしている。死ぬ気は無論なかったろう。気の毒な事をした。どうせ死ぬなら、日本へ帰ってから死んでくれれば好いのに。言い置いて行きたい事も定めてあったろう。聞きたい事、話したい事もたくさんあった。惜しい事をした。好い年をして三遍も四遍も外国へやられて、しかも任地で急病にかかって頓死とんししてしまった。……
 活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは椅子いすり掛ったまま、壁の上を見詰めている。二人の眼は見るたびにぴたりと合う。じっとして動かずに、合わしたままの秒を重ねて分に至ると、向うのひとみが何となく働らいて来た。せい閑所かんしょに転ずる気紛きまぐれの働ではない。打ち守る光が次第に強くなって、眼を抜けた魂がじりじりと一直線に甲野さんにせまって来る。甲野さんはおやと、首をうごかした。髪の毛が、椅子の背を離れて二寸ばかり前へ出た時、もう魂はいなくなった。いつのにやら、眼のなかへ引き返したと見える。一枚の額は依然として一枚の額に過ぎない。甲野さんは再び黒い頭を椅子の肩に投げかけた。
 馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。身体からだが衰弱したせいか、頭脳あたまの具合が悪いからだろう。それにしてもこの画は厭だ。なまじい親父おやじに似ているだけがなお気掛りである。死んだものに心を残したって始まらないのは知れている。ところへ死んだものを鼻の先へぶら下げて思え思えと催促されるのは、木刀を突き付けて、さあ腹を切れとせびられるようなものだ。うるさいのみか不快になる。
 それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とをむさぼるだけで、頭はほかの国に、母もいもとも忘れればこそ、こう生きてもいる。実世界の地面から、かかとを上げる事をし得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だろう。自分は自分にすべてをてる覚悟があるにもせよ、このていたらくを親父には見せたくない。親父はただの人である。草葉の蔭で親父が見ていたら、定めて不肖ふしょうの子と思うだろう。不肖の子は親父の事を思い出したくない。思い出せば気の毒になる。――どうもこの画はいかん。折があったら蔵のなかへでも片づけてしまおう。……
 十人は十人の因果いんがを持つ。あつものりてなますを吹くは、しゅを守って兎を待つと、等しく一様の大律たいりつに支配せらる。白日天にちゅうして万戸に午砲のいいかしぐとき、蹠下しょかの民は褥裏じょくり夜半やはん太平のはかりごと熟す。甲野さんがただ一人書斎で考えている間に、母と藤尾ふじおは日本間の方で小声に話している。
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った節糸ふしいとあわせは存外地味じみな代りに、長く明けたそでうしろから紅絹もみの裏が婀娜あだな色を一筋ひとすじなまめかす。帯に代赭たいしゃ古代模様こだいもようが見える。織物の名は分らぬ。
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ縞物しまものを、年相応に着こなして、腹合せの黒だけが目に着くほどに締めている。
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。座布団ざぶとんふちまくって、
「おや、煙管きせるはどうしたろう」と云う。
 煙管は火鉢の向う側にある。長い羅宇らおを、ぎゃくに、親指のまたに挟んで
「はい」と手取形の鉄瓶てつびんの上から渡す。
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば御廃およしかい」と母は皮肉に云い切ったまま、下を向いて、雁首がんくびへ雲井を詰める。娘は答えなかった。答えをすれば弱くなる。もっとも強い返事をしようと思うときは黙っているに限る。無言は黄金おうごんである。
 五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口をいた。
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければわたしが話して上げる。なに相談するがものはない。こう云う風にするつもりだからと云えば、それぎりの事だよ」
「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、初手しょてからこうしないでもほかにいくらも遣口やりくちはあらあね」
「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話も何もりゃしないんだが。どうも表向うちの相続人だから、あの人がうんと云ってくれないと、こっちが路頭に迷うようになるばかりだからね」
「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」
「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促する訳にも行かないでしょう」
「なにくれるものなら、催促してもらったって、構わないんだが――ただ世間体せけんていがわるいからね。いくらあの人が学者でもこっちからそうは切り出しにくいよ」
「だから、話したらいじゃありませんか」
「何を」
「何をって、あの事を」
「小野さんの事かい」
「ええ」と藤尾は明暸めいりょうに答えた。
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、御母おっかさんの口から、御前の世話にはなりたくないから藤尾をどうかしてくれとも云い悪いからね」
「だってむこうで世話をするのが厭だって云うんじゃありませんか。世話は出来ない、財産はやらない。それじゃ御母おっかさんをどうするつもりなんです」
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
 母は黙っている。
「この間金時計を宗近むねちかにやれって云った時でも……」
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。はじめさんに上げるとは云わなかったわ」
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て御貰おもらいなさいと云うかと思うと、やっぱり御前を一にやりたいんだよ。だって一は一人息子じゃないか。養子なんぞに来られるものかね」
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭のかたを見る。夕暮を促がすとのみ眺められた浅葱桜あさぎざくらは、ことごとくこずえを辞して、光る茶色の嫩葉わかばさえ吹き出している。左に茂る三四本の扇骨木かなめの丸く刈り込まれた間から、書斎の窓が少し見える。思うさま片寄って枝をした桜の幹を、右へ離れると池になる。池が尽きれば張り出した自分の座敷である。
 静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を真向まむきに見る。母はさっきから藤尾の方を向いたなり眼を放さない。二人が顔を合せた時、何を思ったか、藤尾は美くしい片頬かたほをむずつかせた。笑とまで片づかぬものは、明かに浮ばぬ先に自然じねんと消える。
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の阿爺おとっさんに逢って、よく理由わけは話して来たのさ。――帰ってから御前にも話した通り」
「それは覚えていますけれども、何だか判然はっきりしないようだったから」
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾がいやだと申しますから、ひらに御断わり申しますとは云えないからね」
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから露骨むきだしでも構わないと御思おおもいかも知れないが、世の中はそうは行かないよ。同じ断わるにしても、そこにはね。やっぱりふたもあるように云わないと――ただ怒らしてしまったって仕方がないから」
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁をもらうと云ってくれません。私も取る年で心細うございますから」と一と息にくだして来る。ちょっと御茶を呑む。
「年を取って心細いから」
「心細いから、欽吾あれがあのまま押し通す料簡りょうけんなら、藤尾に養子でもして掛かるよりほかに致し方がございません。するとはじめさんは大事な宗近家の御相続人だから私共へいらしっていただく訳にも行かず、また藤尾を差し上げる訳にも参らなくなりますから……」
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ癇癪かんしゃくの八の字を寄せた。八の字はすぐとれる。やがて云う。
「貰うなら、貰うで、糸子いとこでも何でも勝手な人を貰うがいいやね。こっちはこっちで早く小野さんを入れてしまうから」
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と地烈太じれったそうに云い切った後で
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、あの男に及第が出来ますものかね。考えて御覧な。――もし及第なすったら藤尾を差上さしあげましょうと約束したって大丈夫だよ」
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
 藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の御叔父おじさんはたしかに断わられたと思ってるんですね」
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱりおんなじですからさ。この間博覧会へ行ったときも相変らずですもの」
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「一昨日おととい一昨々日さきおとといの晩です」と云う。
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依るとなぞが通じなかったかも知れないね」とさも歯痒はがゆそうである。
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
 母は立ち上がった。椽側えんがわへ出た足を一歩ひとあしあとへ返して、小声に
「御前、一にうだろう」とこごみながら云う。
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。明日あしただったかね」
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
 母は書斎に向う。
 からりとしたえんを通り越して、奇麗な木理もくめを一面にぎ出してある西洋間の戸を半分明けると、立て切った中は暗い。円鈕ノッブを前に押しながら、開く戸に身を任せて、音なき両足を寄木よせきゆかに落した時、釘舌ボールトのかちゃりとね返る音がする。窓掛に春をさえぎる書斎は、薄暗く二人を、人の世から仕切った。
「暗い事」と云いながら、母は真中の洋卓テエブルまで来て立ち留まる。椅子いすの背の上に首だけ見えた欽吾の後姿が、声のした方へ、じいっと廻り込むと、なぞえに引いた眉の切れが三が一ほどあらわれた。黒い片髭かたひげが上唇を沿うて、自然じねんと下りて来て、尽んとするかどから、急にき返す。口は結んでいる。同時に黒いひとみは眼尻までって来た。母と子はこの姿勢のうちに互を認識した。
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
 無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」とゆっくり聞いた。
「どうでも――おっかさんはどうでも構わないが、ただ御前が欝陶うっとうしいだろうと思ってさ」
 無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。うながされたる母はまず椅子に着く。欽吾も腰をおろした。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と生返事なまへんじをした時、甲野さんは背を引いて腕を組んだ。同時に洋卓の下で、右足の甲の上へ左の外踝そとくろぶしを乗せる。母の眼からは、ただゆきの縮んだ卵色の襯衣シャツの袖が正面に見える。
身体からだを丈夫にしてくれないとね、母さんも心配だから……」
 句の切れぬうちに、甲野さんは自分のあご咽喉のどへ押しつけて、洋卓の下を覗き込んだ。黒い足袋が二つ重なっている。母の足は見えない。母は出直した。
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
 甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、他人ひとの事のように。――何だか顔色が丈夫丈夫して来たじゃないか。日に焼けたせいかね」
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深いひだが左右に切れる間から、扇骨木かなめの若葉が燃えるように硝子ガラスうつる。
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、からっとして、書斎より心持が好いから。たまには、はじめのようにつまらない女を相手にして世間話をするのも気が変って面白いものだよ」
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
 甲野さんはまぶしそうな眼を扇骨木から放した。
「扇骨木が大変奇麗きれいを吹きましたね」
「見事だね。かえってなまじいな花よりも、ござんすよ。ここからは、たった一本しっきゃ見えないね。むこうへ廻ると刈り込んだのがまあるそろって、そりゃ奇麗」
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
 甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の緋鯉ひごいが、まことによくはねるんで……ここから聞えますかい」
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。おっかさんの部屋からでも聞えないくらいだから。この間藤尾に母さんは耳が悪くなったって、さんざん笑われたのさ。――もっとも、もう耳も悪くなって好い年だから仕方がないけれども」
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て稽古けいこをする時分だろう。――何か用でもあるかい」
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気にさわる事もあろうが、まあ我慢して、本当の妹だと思って、面倒を見てやって下さい」
 甲野さんは腕組のまま、じっと、深いひとみを母の上にえた。母の眼はなぜか洋卓テエブルの上に落ちている。
「世話はする気です」としずかに云う。
「御前がそう云ってくれるとわたしもまことに安心です」
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母はあとを待つ。欽吾は腕組を解いて、椅子にる背を前に、胸を洋卓テエブルかどへ着けるほど母に近づいた。
「ですが、おっかさん。藤尾の方では世話になる気がありません」
「そんな事が」と今度は母の方が身体からだを椅子の背に引いた。甲野さんは一筋の眉さえ動かさない。同じような低い声を、静かにつなげて行く。
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
 甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子をせまらして、
藤尾あれも実は可哀想かわいそうだからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんはひじを立てて、手の平でひたいを抑えた。
「だって見縊みくびられているんだから、世話を焼けば喧嘩けんかになるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」とけしはしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一わたしが済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
 甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
 甲野さんは依然として額に加えた手の下から母をながめている。
「もし不都合があったら、私からとくと云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味きまずい事があっちゃあ面白くないから」
 額に加えた五本の指は、節長にほっそりして、爪の形さえ女のように華奢きゃしゃに出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けてになったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁ともむことも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
 右のまゆはやはり手の下に隠れている。眼のいろは深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、おっかさんが困るからね」
 甲野さんは手の甲の影で片頬かたほに笑った。さみしい笑である。
身体からだが悪いと御云いだけれども、御前くらいの身体で御嫁を取った人はいくらでもあります」
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
 甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。洋卓テエブルの上には一枚の罫紙けいしに鉛筆が添えてせてある。何気なく罫紙を取り上げて裏を返して見ると三四行の英語が書いてある。読み掛けて気がついた。昨日きのう読んだ書物の中から備忘のため抄録して、そのままに捨てて置いた紙片かみきれである。甲野さんは罫紙を洋卓の上に伏せた。
 母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆をって紙の上へ烏と云う字を書いた。
「どうだろうね」
 烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
 鳥と云う字がげきの字になった。その下に舌の字が付いた。そうして顔を上げた。云う。
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
 云い終った母は悄然しょうぜんとして下を向いた。同時にせがれの紙の上に三角が出来た。三角が三つ重なってうろこの紋になる。
おっかさん。うちは藤尾にやりますよ」
「それじゃ御前……」とけしにかかる。
「財産も藤尾にやります。わたしは何にもいらない」
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。母子おやこはちょっと眼を見合せる。
「困りますかって。――私が、死んだ阿父おとっさんに済まないじゃないか」
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と飴色あめいろに塗った鉛筆を洋卓の上にはたりとほうり出した。
「どうすれば好いか、どうせおっかさんのような無学なものには分らないが、無学は無学なりにそれじゃ済まないと思いますよ」
いやなんですか」
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
わたしも無いつもりだ。御前がそう云ってくれるたんびに、御礼は始終しょっちゅう云ってるじゃないか」
「御礼は始終聞いています」
 母は転がった鉛筆を取り上げて、とがった先を見た。丸い護謨ゴムの尻を見た。心のうちで手のつけようのない人だと思った。ややあって護謨の尻をきゅうっと洋卓テエブルの上へ引っ張りながら云う。
「じゃ、どうあってもうちぐ気はないんだね」
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、おっかさんの世話はしてくれないんだね」
 甲野さんは返事をする前に、ひとみを長い眼の真中に据えてつくづくと母の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃いんぎんに云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
 母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」とゆっくり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
 甲野さんはじっと眼をらして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」
おっかさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
 甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがてまたたきを一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
はじめかい。本来なら一が一番好いんだけれども。――おとっさんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だかおとっさんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首をかたげた。
「父さんの金時計です。柘榴石ガーネットの着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
はじめはまだあてにしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾があずかっているから、わたしから、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事をおもに云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気にさからうようで悪いけれども、――そんな約束はまるでおぼえがないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家をがなくっちゃならずね」
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前がおっかさんの云う事を聞いておくれでないから……」
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の料簡りょうけんを間違えて取っておくれだと困るが――おっかさんの腹の中には財産の事なんかまるでありゃしないよ。そりゃ割って見せたいくらいに奇麗きれいなつもりだがね。そうは見えないか知ら」
「見えます」と甲野さんが云った。きわめて真面目まじめな調子である。母にさえ嘲弄ちょうろうの意味には受取れなかった。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、あとが困るんでね」
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。叮嚀ていねいで、親切で、学問がよく出来て立派な人じゃないか。――なぜ」
「そんなら好いです」
「そう素気そっけなく云わずと、何かかんがえがあるなら聞かしておくれな。せっかく相談に来たんだから」
 しばらく罫紙けいしの上の楽書らくがきを見詰めていた甲野さんは眼を上げると共に穏かに云い切った。
「宗近の方が小野よりおっかさんを大事にします」
「そりゃ」とたちまち出る。あとから静かに云う。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由にはかないもんだからね」
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃわたしも知っている。知ってるんだが。――藤尾はいますか」
「呼びましょう」
 母は立った。薄紅色ときいろに深く唐草からくさを散らした壁紙に、立ちながら、手頃に届く電鈴ベルを、白きただ中に押すと、座に返るほどなきにこたえがある。入口の戸が五寸ばかりそっとく、ところを振り返った母が
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
 母と子は洋卓テエブルを隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。うろこ周囲まわりれ擦れの大きさにまるく。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本叮嚀ていねいに並行させて行く。母は所在なさに、せがれの図案を慇懃いんぎんながめている。
 二人の心は無論わからぬ。ただ上部うわべだけはいかにも静である。もし手足しゅそくの挙止が、内面の消息を形而下けいじかに運びきたる記号となり得るならば、この二人ほどに長閑のどか母子おやこは容易に見出し得まい。退屈の刻を、数十すじゅうの線にかくして、行儀よく三つ鱗の外部そとがわを塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなるまるの中を、端然たんねんと打ち守る母とは、咸雍かんようの母子である。和怡わいの母子である。さしはさむ洋卓に、さえぎらるる胸と胸をむかい合せて、春とざす窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。き人の肖像は例にって、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
 丹念に引く線はようやくしげくなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る弓形ゆみなりの一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌ボールトねじる音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線のなかばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
あぶり出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰をおろす。卸し終った時、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
 藤尾は再び母の方を見た。見ると共に薄笑うすわらいの影が奇麗きれいな頬にさす。兄はやっと口を切る。
「藤尾、このうちと、わたしおとっさんから受けいだ財産はみんな御前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代り、おっかさんの世話は御前がしなければいけない」
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしてもいやか」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
 藤尾はきっとなる。
「それを聞いて何になさる」と椅子いすの上に背をして云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも軽蔑けいべつしたように落す。母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんよりはじめの方がよかろうと云う話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と閑静しずかに云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値ねうちは分りません。けっして分りません。一さんをめる人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
 云いてて紫のリボンは戸口の方へうごいた。ほそい手に円鈕ノッブをぐるりと回すやいなや藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。

        十六

 叙述の筆は甲野こうのの書斎を去って、宗近むねちかの家庭に入る。同日である。また同刻である。
 相変らずの唐机とうづくえを控えて、宗近のおとっさんが鬼更紗おにざらさ座蒲団ざぶとんの上に坐っている。襯衣シャツを嫌った、黒八丈くろはちじょう襦袢じゅばんえりくずれて、素肌に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。忌部焼いんべやき布袋ほていの置物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の煙草盆たばこぼんを置く。呉祥瑞ごしょんずいの銘のある染付そめつけには山がある、柳がある、人物がいる。人物と山と同じくらいな大きさにえがかれている間を、一筋の金泥きんでい蜿蜒えんえんふちまで這上はいあがる。形はかめのごとく、はちが開いて、開いたいただきが、がっくりと縮まると、丸いふちになる。向い合せの耳をくぐつるには、ぎりぎりとしぶを帯びたを巻きつけて手提てさげの便を計る。
 宗近のおとっさんは昨日きのうどこの古道具屋からか、つぎのあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
 ところへ入口の唐紙からかみをさらりと開けて、宗近君が例のごとく活溌かっぱつ這入はいって来る。父は煙草盆から眼を離した。見るとせがれは親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴足袋くつたびだけに、大なるつうをきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
うちにいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか酒甕さかがめのようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
 老人はつるを持って、ぐっと祥瑞を宙に釣るし上げた。
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞はにせの多いもんで容易には買えない」
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。滅多めったな事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く堀出ほりだしだ」
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき万両まんりょうと植え替えた。それは薩摩さつまはちで古いものだ」
「十六世紀頃の葡萄耳ポルトガル人が被った帽子のような恰好かっこうですね。――この薔薇ばらはまた大変赤いもんだな、こりゃあ」
「それは仏見笑ぶっけんしょうと云ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
華厳経けごんきょう外面げめん如菩薩にょぼさつ内心ないしん如夜叉にょやしゃと云う句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変とげがある。さわって御覧」
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は雁首がんくびの先で祥瑞しょんずいの中を穿ほじくり廻す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑をながめている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
はじめあの花を見た事があるかい。あのとこしてある」
 老人はいながら、顔の向をうしろへ変える。ねじれたくびに、行き所を失った肉が、三筋ほどくびられて肩の方へり出して来る。
 茶がかった平床ひらどこには、釣竿をかついだ蜆子和尚けんすおしょう一筆ひとふでいたじくを閑静に掛けて、前に青銅の古瓶こへいえる。鶴ほどに長い頸の中から、すいと出る二茎ふたくきに、十字と四方に囲う葉を境に、数珠じゅずく露のたま二穂ふたほずつぐうを作って咲いている。
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の二人静ふたりしずかだ」
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか因果いんがのある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に幾通いくとおりあるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また煙管きせるの雁首で灰の中をき廻す。宗近君はこの機に乗じて話頭を転換した。
阿爺おとっさん。今日ね、久しぶりに髪結床かみゆいどこへ行って、頭を刈って来ました」と右の手で黒いところをで廻す。
「頭を」と云いながら羅宇らおの中ほどを祥瑞しょんずいふちでとんとたたいて灰を落す。
「あんまり奇麗きれいにもならんじゃないか」と真向まむきに帰ってから云う。
「奇麗にもならんじゃないかって、阿爺おとっさん、こりゃ五分刈ごぶがりじゃないですぜ」
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。せばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でもこしらえてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は今日限こんにちかぎり御返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃすがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ御廃およしなさい」
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、身体からだに合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は呑気のんき過ぎていかんよ」
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。英吉利イギリスか、仏蘭西フランスか」
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、もととおりの五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような不作法ぶさほうものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間をとおこしらえて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
不作法ぶさほうな裏と、奇麗な表と。厄介やっかいでさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫がはげしいから上部うわべを奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながらざきの刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸きんたまをつけたようなやつばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそやめにするか。うちにいて親父おやじの古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに英吉利イギリス人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも我流がりゅうで押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなにめるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
 宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手をのばすと更紗さらさ結襟ネクタイ白襟カラ真中まんなかまで浮き出して結目むすびめは横にねじれている。
「どうも、この襟飾えりかざりすべっていけない」と手探てさぐりに位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻をおろ機会しおに、準胡坐じゅんあぐらの姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中はわしが大事に預かってやる」
わたしもそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
藤尾ふじおかい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父おやじが生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄おもちゃにするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心かんじんの本人の事だが――この間甲野のおっかさんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって御出おいででないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々とうとうと述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
 多少苦々にがにがしい気色けしきに、煙管きせるでとんと膝頭ひざがしらたたいたおとっさんは、視線さえ椽側えんがわの方へ移した。最前植ええた仏見笑ぶっけんしょうあざやかくれないを春と夏のさかいに今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは厄介やっかいですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。猫撫声ねこなでごえで長ったらしくって――わしきらいだ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながらおとっさんは、手の平を二つ内側へそろえて眼の球をぐりぐりこする。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――欽吾きんごがうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野がうちを出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料簡りょうけんでもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのがいやだと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気ばかげた事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで八幡やわた藪不知やぶしらず這入はいったようなものだ」
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
 おとっさんは額にしわを寄せて上眼うわめを使いながら、頭をで廻す。
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハわたしの及第報告は二三日おくれただけだが、父さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか判然はっきり談判して来るつもりです」
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野がさいを貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね」
「それは好い。構わない」
一先ひとまず本人の意志を聞いて見て……」
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
 宗近君はずんどぎり洋袴ズボンを二本ぬっと立てた。仏見笑ぶっけんしょう二人静ふたりしずか蜆子和尚けんすおしょうきた布袋ほていの置物を残して廊下つづきを中二階ちゅうにかいへ上る。
 とんとんと二段踏むと妹の御太鼓おたいこ奇麗きれいに見える。三段目に水色のリボンが、横に傾いて、ふっくらした片頬かたほが入口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。糸子いとこははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉のついた丸い手を置く。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。御生ごしょうだからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、おとっさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あらうそばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父おとっさんがそう云うんだから」
「嘘よ、阿父様おとうさまがそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落ますおとし見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴ばいこくどじゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
 糸子は抑えた本をそでで隠さんばかりに、机から手本てもとへ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
 糸子は兄の眼をかすめて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
 両手で叮嚀ていねいに抑えたページの、残る一寸角いっすんかくの真中に朱印が見える。
見留みとめじゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年幾歳いくつになるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。わたしいやだわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って御幾歳おいくつですか」
「そんな茶化ちゃかしたって、誰が云うもんですか」
「困ったな。叮嚀ていねいに云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の年齢としなんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
 冗談半分に相手になって、調戯からかわれていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見るめて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰にせて、畳みの目を勘定かんじょうし出した。
「どうだい、御嫁は。いやでもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
 糸子はかぶりたてに振った。
「行かない? 本当に」
 答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
 俯向うつむいた眼の色は見えぬ。ただゆたかなる頬をかすめて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、やぶからぼうにそんな無理を云ったって」
「訳はききさえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は鼠花火ねずみはなびのようにくるくる廻っているよ。錯乱体さくらんたいだ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行ってもらちが明かないから、おもいに打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか狡猾こうかつだね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今度こんだはじめてだね」
「だけれど、藤尾さんは御廃およしなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、いやがってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請ねだるなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ」
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の御叔母おばさんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、はじめさんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって阿爺おとっさんに話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の御蔭おかげだよ。大いに感泣かんきゅうしているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
 兄妹はへだてなき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
 笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、近々きんきん洋行するはずになったんだが、阿父おとっさんの云うには、立つ前に嫁をもらって人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだっていやなら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
 糸子はかすかな笑を、二三段に切って鼻からもらした。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥をくといけないから」
「ハハハハ厭ならことわるのが天下の定法じょうほうだ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。縁喜えんぎでもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、おおいに慶すべき現象だ」
ひどい事を……だって坊さんになるのは、酔興すいきょうになるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように煩悶はんもんが流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって五分刈ごぶがりでさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と油揚あぶらげは小供の時からきらいなんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか論理ロジックが少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目まじめでどこまでが冗談じょうだんだか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。うちと財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母おばさんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方がござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おおいやだ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて吾家わがいえを出るなんて馬鹿気ばかげている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。するとはじめさんへは上げられませんと、こう御叔母おばさんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的ロジカルに来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だっていやなら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎だんだんことしているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それをみんなが病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分がてるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜まけおしみや面当つらあてじゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己ちきだよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘をくのは大嫌だいきらいです」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野がうちを出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだねいやかい」
「厭だって……」とと言いけて糸子は急に俯向うつむいた。しばらくは半襟はんえりの模様を見詰めているように見えた。やがてしばたたまつげからんで一雫ひとしずくの涙がぽたりとひざの上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変げきへんで兄さんに面喰めんくらわしてばかりいるね」
 答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫ふたしずく落ちた。宗近君は親譲の背広せびろ隠袋かくしから、くちゃくちゃの手巾ハンケチをするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔をのぞき込む。
「糸公いやなのかい」
 糸子は無言のまま首をった。
「じゃ、行く気だね」
 今度は首が動かない。
 宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体からだだけをもとへ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
 糸子はようやく手巾を取上げる。あら銘仙めいせんの膝が少ししみになった。その上へ、手巾のしわ叮嚀ていねいして四つ折に敷いた。かどをしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのはしてちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつのに、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、あとが話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟りくつがさらにせないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無いちもんなしの甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父おとっさんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛想あいそをつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様おとうさまと兄さんのそばにいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にもえないから、平生へいぜい親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の袖無ちゃんちゃんの御礼に。ねえ好いだろう」
 糸子は何とも答えなかった。下で阿父おとっさんがうたいをうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は中二階ちゅうにかいを下りる。

        十七

 小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌レエルが通る。高い土手は春にこもる緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風びょうぶのごとく弧形に折れてはるかに去る。断橋だんきょう鉄軌レエルを高きに隔つる事じょうを重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄にってすとき広き両岸のせいきわめつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に見下みおろして始めて茶色のみちが細くよこたわる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来てとまった。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
 二人は欄にって立った。立って見るに、限りなき麦は一分いちぶずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
 青蓆あおむしろをのべつに敷いた一枚のはては、がたりと調子の変った地味な森になる。黒ずんだ常磐木ときわぎの中に、けばけばしくも黄を含む緑の、となって空に吹き散るかと思われるのは、くすの若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所もえな。僕はしかし田舎いなかから帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせあすんどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ金儲かねもうけの口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
 小野さんは橋の手擦てすりに背をたせたまま、内隠袋うちがくしから例の通り銀製の煙草入を出してぱちりとけた。はくを置いた埃及煙草エジプトたばこの吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
 二人の煙はつつがなく立ちのぼって、事なき空に入る。
「君は始終しじゅうこんな上等な煙草をんどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変ぜにがいって困っとるところじゃ」
 本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらいるのかね」
「三十円でも二十円でもえ」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
 浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両肘りょうひじを鉄の手擦てすりうしろから持たして、山羊仔キッドの靴を心持前へ出した。煙草をくわえたまま、眼鏡越に爪先の飾をながめている。遅日ちじつ影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮のこまやかに照る上に、眼に入らぬほどのほこりが一面に積んでいる。小野さんは携えた細手の洋杖ステッキで靴の横腹をぽんぽんとむちうった。埃は靴を離れて一寸いっすんほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけはまだらに黒くなった。並んで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ無細工ぶさいくである。
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつごろまで」
「今月すえにはきっと返す。それで好かろう」と浅井君は顔を寄せて来る。小野さんは口から煙草を離した。指のまたに挟んだまま、一振はたくと三分さんぶの灰は靴の甲に落ちた。
 たいをそのままに白いえりの上から首だけを横にねじると、欄干らんかん頬杖ほおづえをついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
 浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねるひまがないから、行かんが。君先生にうたらよろしく云うてくれ。ついでに御嬢さんにも」
 浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、よだれのごときつばはるかの下に吐いた。
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻をむこうへ投げた。白いカフスが七宝しっぽう夫婦釦めおとボタンと共にかしゃと鳴る。一寸に余る金がくうかすめて橋のたもとに落ちた。落ちた煙は逆様さかさまに地からがる。
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
 調子はだいぶ熱心である。小野さんは片肘かたひじを放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、え時に帰って来た。何か談判でもするのか。結婚の条件か。近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう」
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のためにえぞ。そうせい。僕が懸合かけおうてやる」
「そりゃもらうとなれば、そう云う談判にしても好いが……」
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」ともとのようなおとなしい調子で云う。
「ハハハハ。そう真面目まじめにならんでも好い。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少しつらの皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと稽古けいこのためにどっかへ連れて行ってやろうか」
「何分よろしく……」
「などと云って、裏ではさかんに修業しとるかも知れんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ修飾しゃれるところをもって見ると。ことにさっきの巻煙草入の出所でどころなどははなはだ疑わしい。そう云えばこの煙草も何となく妙なにおいがするわい」
 浅井君はここに至って指の股にげついて来そうな煙草を、鼻の先へ持って来てふんふんと二三度いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる洒落じゃれだと思った。
「まあ歩きながら話そう」
 悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の真中まんなかへ踏み出した。浅井君のひじは欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄って来る。暖かき緑は穂をかすめてあぜのぼる。野をおおう一面の陽炎かげろう逆上のぼせるほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君はあとからいて来る。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら真面目まじめな問題に入る。
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとでゆっくり聞くから。――それで僕も、君の知っているとおり、先生の世話には大変なったんだから、先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は生涯しょうがいの幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従する訳にはいかない」
「そりゃいかない」
 小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でもこしらえたと云う大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでもかたをつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
 小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見傚みなしてしまって、そうして万事をそれから演繹えんえきしてくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと誤謬ごびゅうを指摘する訳にも行かず……」
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中にれんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう露骨むきに人に反対する事が出来ないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでもいが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生にうと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生にうてよく話してやろう」
 浅井君は茶漬をむように容易たやすく引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は生涯しょうがいする考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生ももとのように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振そぶりも見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な料簡りょうけんは少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまたあとが困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
 きりは穴を穿うがつ道具である。縄は物をくくる手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板をくぐり抜けようとくわだてるものはない。縄でなくては栄螺さざえを取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
 ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭をく人とは限らない。浅井君はたとい内裏拝観だいりはいかんの際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵をはらう事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水にもぐる度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重けいちょう、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
 それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限みきりをつけたからである。先方で苦状くじょうを云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入なきねいりにせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日あした藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
 こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず片荷かたにだけおろしたなと思った。
「こう日が照ると、麦のにおいが鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
においがするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットのうちへ行くのか」と聞く。
甲野こうのの家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦のにおいでもいで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方がえ。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
宗近むねちかかい」
「そうそう。あの男の所へ二三日うちに行こうと思っとる」
 小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
 小野さんは眼を地面の上へおろして、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日あしたの朝行ってやる」
「そうか」
 麦畑を折れると、杉の木陰こかげのだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどのいとまもない。下り切ってまばらな杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変はじかんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
 小野さんははなはだ心元こころもとなく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
 四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野のやしきまで来る。藤尾ふじおの部屋へ這入はいって十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
 甲野さんはもとの椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに幾何きか模様を図案している。丸にうろこはとくに出来上った。
 おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、おくしたと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろはるかに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
 宗近君はつかつかと洋卓テエブルかどまで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少しけよう」と上下うえした栓釘ボールトを抜き放って、真中の円鈕ノッブを握るや否や、正面の仏蘭西窓フランスまどを、ゆかを掃うごとく、一文字に開いた。へやの中には、庭前に芽ぐむ芝生しばふの緑と共に、広い春が吹き込んで来る。
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
 宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰をおろした。今さきがたなぞの女が坐っていた椅子の上である。
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなかうまいだろう」と模様いっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、洋卓の上をすべらせる。
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
 甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。紺屋こんや上絵師うわえしと哲学者と云う論文でも書く気じゃないか」
 甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは沢山たんとないようだ。御互も、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
「いつまでも浮世のなべの中で、煮え切れずにいるのさ」
 甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしいようだ」
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん欧羅巴ヨウロッパへ行くのさ」
「行くのはいいが、親父おやじ見たように、煮え切っちゃいけない」
「なんとも云えないが、印度洋インドようさえ越せば大抵大丈夫だろう」
 甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは洋卓越テエブルごしに相手の頭をつらつら観察した。しかし別段批評も加えなかった。質問も起さなかった。宗近君の方でも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母にったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
 なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは椅子いすの背にりかかって、この楽天家の頭と、更紗模様さらさもよう襟飾えりかざりと――襟飾は例にって襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の背広せびろとをじっとながめている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
御叔母おばさんに話してようか」
 今度はいやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
すが好い」
 洋卓の向側むこうがわから一句を明暸めいりょうに云い切った。
 おもむろに椅子を離れた長髪の人は右の手で額をき上げながら、左の手に椅子の肩をおさえたまま、き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
 親譲りの背広を着た男は、丸い眼をえて、へやの中にそびえる、うるしのような髪のあるじを見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較みくらべた。見較べてしまった時、聳えたる人はせた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかしきた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
 椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、おのずからまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下みおろしている。
 しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
御叔父おじさんも気の毒な事をしたなあ」
 立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
 言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
 席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った仏蘭西窓フランスまどを抜けて二段の石階を芝生しばふくだる。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
 芝生は南に走る事十間余にして、高樫たかがしの生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。しげき植込にさえぎられた奥は、五坪いつつぼほどの池を隔てて、張出はりだしの新座敷には藤尾の机が据えてある。
 二人はゆるき歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間迂回うねって、植込の陰を書斎のかたへ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にもそろっている。植込が真中で開いて、二三の敷石に、池のかたへ人を誘う曲り角まで来た時、突然新座敷で、雉子きじの鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合せたごとくぴたりと留まる。眼は一時に同じ方角へ走る。
 四尺の空地くうちを池のふちまで細長く余して、真直まっすぐに水に落つる池の向側むこうがわに、横から浅葱桜あさぎざくらの長い枝を軒のあたりにかざして小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら椽鼻えんばなに立っている。
 不規則なる春の雑樹ぞうきを左右に、桜の枝を上に、ぬるむ水に根をぬきんでてい上がるはすの浮葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切るわくが自然の景物のすいをあつめて成るがために、――枠の形が趣きをそこなわぬほどに正しくて、また眼を乱さぬほどに不規則なるがために――飛石に、水に、えんに、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きに過ぎざる恰好かっこうの地位にあるために――最後に、一息の短かきに、吐く幻影まぼろしと、忽然こつぜんに現われたるために――二人の視線は水のむかいの二人にあつまった。と共に、水の向の二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合す四人は、互に互を釘付くぎづけにして立つ。きわどい瞬間である。はっと思う刹那せつなを一番早く飛びえたものが勝になる。
 女はちらりと白足袋の片方をうしろへ引いた。代赭たいしゃに染めた古代模様のあざやかに春をびたる帯の間から、するすると蜿蜒うねるものを、引き千切ちぎれとばかり鋭どく抜き出した。ほそふくれたるかしらたなごころに握って、黄金こがねの色を細長く空に振れば、深紅しんくの光は発矢はっしと尾よりほとばしる。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦爛さんらんたる金鎖が動かぬ稲妻いなずまのごとくかかっていた。
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
 藤尾の癇声かんごえは鈍い水をたたいて、鋭どく二人の耳にね返って来た。
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、うしろからかかって来た甲野さんの顔が、親しき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に云いながら、けむに巻かれた人を植込の影へ引いて行く。
 肩に手を掛けて押すように石段をあがって、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉に似たる仏蘭西窓フランスまどを左右からどたりと立て切った。上下うえした栓釘ボールトかたのごとくす。次に入口の戸に向う。かねて差し込んであるかぎをかちゃりと回すと、じょうは苦もなくりた。
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が這入はいって来ないように」
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけたのち、静かに、用いれた安楽椅子に腰をおろす。体は机に向ったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となくぬる暖味あたたかみがあった。すべての枝を緑に返す用意のために、びたる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
 腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
 かちゃりと入口の円鈕ノッブねじったものがある。戸はかない。今度はとんとんと外からたたく。宗近君は振り向いた。甲野さんは眼さえ動かさない。
「うちやって置け」と冷やかに云う。
 入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へけながら遠退とおのいて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
 あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計もせ」
「うん。廃そう」
 甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕をこまぬいたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と欽吾きんごはまた首を向け直した。「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓あさはかかえりものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
 宗近君は節太ふしぶとの手を胸から抜いて、たての頭の天辺てっぺんをとんと敲いた。
 甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて重々おもおもしく首肯うなずいた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞはらないだろう」
 宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭ひざがしらの上へせる。宗近君は巻煙草をくゆらし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独語ひとりごとのように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草のけむを押し開いて、元気づいた顔を近寄ちかよせた。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
 指の股に敷島しきしまを挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、呆気あっけに取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」とみずから自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこのうちも、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸にうろこいてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易たやすく……」
「何るものか。あればあるほどわずらいだ」
御叔母おばさんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終しじゅう君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物にせものだよ。君らがみんなあざむかれているんだ。母じゃないなぞだ。澆季ぎょうきの文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕がひがんでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由わけが分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
 宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのがいやだと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志にさからって、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕がうちを出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
 宗近君は突然椅子いすを立って、机のかどまで来ると片肘かたひじを上に突いて、甲野さんの顔をいかぶすようにのぞみながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
 この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。むこうを出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
 宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、背皮せがわたてに、勾配こうばいのついたけやきの角でとんとんと軽くたたきながら、少し沈吟ちんぎんていであったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
いやかい」
「厭じゃないが、仕方がない」
 宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父おやじのためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母おばさんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損みそこなっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値ねうちを解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。たっとい女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣きづかいのない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。うちを出ても好い。山の中へ這入はいっても好い。どこへ行ってどう流浪るろうしても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公はたっとい女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
 宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。

        十八

 小夜子さよこは婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼いずもやきの皿に移すと、真中にある青い鳳凰ほうおうの模様が和製のビスケットで隠れた。黄色なふちはだいぶ残っている。そろえて渡す二本の竹箸たけばしを、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりとえんせまってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
 菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩をうしろへ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
 小夜子は淋しい笑顔を俯向うつむけて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子をながめている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯しょうがいの幸福についてはあまり同情をひょうしておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を運べば好いものと心得ている。そうしてそれがもっとも法学士的で、法学士的はもっとも実際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害そがいせらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、まったき人性にもとらざる好処置が、知慧ちえ分別の純作用以外にきてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の運命が、夫子ふうし一言いちごんでどう変化するだろうかとは浅井君の夢にだも考え得ざる問題である。
 浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂こどう先生は変な咳を二つ三ついた。小夜子は心元なく父のかたを向く。
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
 先生は右の手頸てくびへ左の指を三本けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔はひげと共に日ごとに細長くせこけて来る。
「どうですか」と気遣きづかわしに聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱がれない」と額に少ししわが寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、たよりと思う一本杉をありがたしとこずえを見れば稲妻いなずまがさす。こわいと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪かんしゃくなら、機嫌きげんの取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪かぜと、当人も思い、自分もにしなかった昨日今日きのうきょうせきを、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質たちが善くないと云う。二三日で熱が退かないと云って焦慮じれるような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上かんを起す。この調子で進んで行くと、一年ののちには神経が赤裸あかはだかになって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜ゆうべ小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
 孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作むぞうさに尋ねた。
「いえ、ちっと風邪かぜを引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着とんじゃくもなかった。病気の源因と、経過と、容体をくわしく聞いて貰おうと思っていた先生はあてはずれた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」とさい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
 浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
 孤堂先生のくぼんだまなこは一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中苦々にがにがしくなる。
した方がえですな」
 置きくした験温器をがしていた、次の間の小夜子は、長火鉢の二番目の抽出ひきだしを二寸ほど抜いたまま、はたりと引く手を留めた。
 先生の苦々にがにがしい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
 苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
 浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どくねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
 次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子しょうじに影がさす。腰板のはずれから細い白木のつつがそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日にかざして二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛どもりすかして見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
 先生はわきの下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然ぼうぜんとしている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっとくわしく話すがいい」
「二三日じゅうに是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
 ふすまの蔭で小夜子がはなをかんだ。つつましき音ではあるが、一重ひとえ隔ててすぐむこうにいる人のそれと受け取れる。鴨居かもいに近く聞えたのは、襖越ふすまごしに立っているらしい。浅井君の耳にはどんな感じを与えたか知らぬ。
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと御出おいで。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
 小夜子はふすまの蔭に蹲踞うずくまったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具おもちゃじゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物いきものだよ。わしから云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金をみついでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想かわいそうだから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
 小夜子は襖の蔭ですすなきをしている。先生はしきりにく。浅井君は面喰めんくらった。
 こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛あいまいな約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野にって話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰さたである。
 しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚をきわめて容易たやすい事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜くちおしそうに云う。
 先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜べんぎによって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支さしつかえないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
 浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日あしたからどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来おっとだと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家わきへ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯しょうがいを誤まらして、それで好い心持なのか」
 先生のくぼんだ眼が煮染にじんで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんなくわしい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。いやだと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家じかに訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜のかんがえぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手ひらてで頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
 ふすま向側むこうがわで、そでらしいものが唐紙からかみすそにあたる音がした。
「そう返事をして差支さしつかえないだろうね」
 答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中にうずめた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
 浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋そばや行灯あんどうを右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
 突然電車に乗った浅井君は約一時間のち、ぶらりと宗近むねちか家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほどおくれて、玄関の松の根際に梶棒かじぼうを上げた一挺は、黒いほろおろしたまま、甲野こうのの屋敷を指してける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
 宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪おとを留めた時、小野さんはちょうど午飯ひるめしを済ましたばかりである。ぜんが出ている。飯櫃めしびつも引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾ふじおと大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気がとがめる。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。さいもとより自分で投げた。一六いちろくの目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒シーザーは英雄である。通例の人はいざと云う間際まぎわになってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ずせばよかったと後悔する。乗り掛けた船に片足を入れた時、船頭が出ますよとさおを取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰かおかから来て引っ張ってくれれば好いと思う。乗り掛けたばかりならまだ陸へ戻る機会があるからである。約束も履行りこうせんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女がしめし合せて、停車場ステーションで落ち合う手筈てはずをする。手筈が順に行って、汽笛きてきがひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の運命がいざと云う間際までせまった時女はついに停車場へ来なかった。男は待ちぼけの顔を箱馬車の中に入れて、空しくうちへ帰って来た。あとで聞くと朋友ほうゆうの誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合しあわせかも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。だくと云えばどっちへ転んでもさいわいである。と聞くならば、退きならぬ瀬戸際せとぎわまであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭でこしらえ上げた計画を人情がくずしにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
 想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とをのあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長ひきのばして想像の鏡に思い浮べてながめるととおりになる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡のおもてから自分の影を拭き消すとやみになる、暮になる。すべてが悲惨みじめになる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、さきかまどに立つべき煙を予想しながらたきぎを奪うと一般である。忍びない。人は眼をつぶってにがい物をむ。こんなからんだ縁をふつりと切るのに想像の眼をいていては出来ぬ。そこで小野さんは眼のつぶれた浅井君を頼んだ。頼んだあとは、想像を殺してしまえば済む。と覚束おぼつかないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策ろうさくである。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
 せた頬をえがく。落ち込んだ眼を描く。もつれた髪を描く。虫のような気息いきを描く。――そうして想像は一転する。
 血を描く。物凄ものすごき夜と風と雨とを描く。寒き灯火ともしびを描く。白張しらはり提灯ちょうちんを描く。――ぞっとして想像はとまる。
 想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出るこころよからぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々きょくきょくの波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚ねざめがわるい。社会が後指うしろゆびす。
 惘然もうぜんとして煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行をうながす。そりの上に力なき身を託したようなものである。手をこまぬいていれば自然と約束のふちすべり込む。「時」のそりほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。後暗うしろぐらおこないさえなければ行っても差支さしつかえないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」
 煙草の煙が、未来の影を朦朧もうろうめ尽すまで濃く揺曳たなびいた時、宗近君の頑丈がんじょうな姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。
 いつのにどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと這入はいった。
「だいぶ狼籍ろうぜきだね」と云いながら紅溜べにだめの膳を廊下へ出す。黒塗の飯櫃めしびつを出す。土瓶どびんまで運び出して置いて、
「どうだい」と部屋の真中に腰をおろした。
「どうも失敬です」と主人は恐縮のていで向き直る。折よく下女が来て湯沸ゆわかしと共に膳椀を引いて行く。
 心を二六時にゆだねて、隻手せきしゅを動かす事をあえてせざるものは、おのずから約束をまねばならぬ運命をつ。安からぬ胸を秒ごとに重ねて、じりじりとこわい所へ行く。突然と横合から飛び出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途はんとさえぎった。遮ぎられた人は邪魔にうと同時に、一刻の安きをもとの位地にむさぼる事が出来る。
 約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑けんのんになって来た時、自分に責任がないように、人が履行をさまたげてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。
 小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深くとざされている。
 宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾をおとしいれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気がとがめる。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。
 ただの親類ならまだしもである。かねてから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日きのうまで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままにつないでいた宗近君である。ぬすまれた金の行先も知らずに、空金庫からきんこまもっていた宗近君である。
 秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、なかばつんざかれた。眠っていた眼をさましかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも喋舌しゃべったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気がとがめるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層上手うわてに出て、利害が直接に吾身わがみの上にね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。
 宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気が咎める輪が気味わるそうに重なっている。一番外には困る輪が黒墨を流したように際限なく未来につらなっている。そうして宗近君はこの未来をつかさどる主人公のように見えた。
昨日きのうは失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気色けしきも見えぬ。
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
 小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、かたきが来たと思っちゃいけない」
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕はあてこすりなどを云って、人の弱点に乗ずるような人間じゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風にそむく……」
 宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんないやしい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲斐かいがない。君だって教育のある事理わけの分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」
 小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら閑人ひまじんだって、君に軽蔑けいべつされようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、真面目まじめだよ。いいかね。人間はねんに一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮うわかわばかりで生きていちゃ、相手にする張合はりあいがない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんはじゅつなげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
他人ひとが不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮うわかわばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人ひとどころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人いちにんかも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」
 小野さんはこの時始めて積極的に相手をさえぎった。
「あなたはうらやましいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」
 愛嬌あいきょうに調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音ほんねが出る。悄然しょうぜんとして誠を帯びた声である。
「小野さん、そこに気がついているのかね」
 宗近君の言葉には何だか暖味あたたかみがあった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
 これも下を向いたまま云う。
 宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上にひじを乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云うあやうい時に、生れつきをたたき直して置かないと、生涯しょうがい不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目まじめになるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。かわだけで生きている人間は、つちだけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になったあとは心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目まじめの味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺ほらじゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車でけつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
 宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰がすわる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存げんそんしていると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者こうしゃに働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾いかんなく世の中へたたきつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日きのう真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人ひとり真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話したとおりを君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、すべったのころんだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」
 悄然しょうぜんとして項垂うなだれていた小野さんは、この時居ずまいをただした。顔を上げて宗近君を真向まむきに見る。ひとみは例になく確乎しっかと坐っていた。
「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃ好い、あとで分る事だから」
「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪あやまって来ます」
「だがね、今僕の阿父おやじを井上さんの所へやっておいたから」
阿父おとっさんを?」
「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから慰問なぐさめかたがたつなぎにやっておいた」
「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調ととのえば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」
「やります。こっちから行っても好いです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
 小野さんは少しく※(「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2-81-55)ひるんで見えた。宗近君はすぐつける。
「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そう云う必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗きれいに藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
「連れて行っても好いですが、あんまり面当つらあてになるから――なるべくなら穏便おんびんにした方が……」
「面当は僕もきらいだが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
「しかし……」
「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目はめになって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮うわかわの活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
ろしい」
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。何時なんじに」
「三時に停車場ステーションで出合うはずになっているんですが」
「三時と――今何時か知らん」
 ぱちりと宗近君の胴衣チョッキの中ほどで音がした。
「もう二時だ。君はどうせ行くまい」
すです」
「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」
「一分でもおくれたら、待ち合す気遣きづかいありません。すぐ帰るでしょう」
「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなかみそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父おやじが待ちかねて心配しているに違ない」
 春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千筋ちすじを引いて落ちてくる。火鉢が欲しいくらいのさむさである。
 手紙は点滴てんてきの響のうちしたためられた。使がほろの色を、打つ雨にうごかして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑居きょうきょって、応分の使命をつくしつつある。
 孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の義董ぎとうふくそむいてよこたえた額際ひたいぎわを、小夜子が氷嚢ひょうのうで冷している。蹲踞うずくまる枕元に、泣きはらした眼を赤くして、氷嚢の括目くくりめに寄るしわを勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父おとっさんは、鉄線模様てっせんもよう臥被かいまきを二尺ばかり離れて、どっしりと尻をえている。厚い膝頭ひざがしら坐布団ざぶとんからみ出して軽く畳を抑えたところは、血が退いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。
 宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。
「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」
「いや、はなはだ失礼のていたらくで、私こそ恐縮で。起きて御挨拶ごあいさつを申し上げなければならんのだが……」
「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて結句けっく私の都合になります。ハハハハ」
「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」
「なに、昔なら武士は相見互あいみたがいと云うところで。ハハハハ私などもいつ何時なんどき御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ御移おうつりではさぞ御不自由で御困りだろう」
「二十年目になります」
「二十年目、そりゃあそりゃあ。むかしですな。御親類は」
「無いと同然で。久しい間、音信不通いんしんふつうにしておったものですからな」
「なるほど。それじゃ、全く小野うじだけが御力ですな。そりゃ、どうも、しからん事になったもので」
「馬鹿を見ました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」
「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、先刻さっきよく娘にも因果いんがを含めて申し聞かしておきました」
「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく御断念おあきらめになるのもおしいから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。せがれも出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」
「御好意は実にかたじけない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」
 小夜子は氷嚢ひょうのうをそっと上げて、額の露を丁寧に手拭てぬぐいでふいた。
「冷やすのは少しめて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」
 小夜子は氷嚢を盆へせた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へいかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた胡麻塩頭ごましおあたま
「好いな」と云いながら半分ほどうしろじ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首はもとの位地に復した。うるんだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて
「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。
「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰をきらうような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」
「小夜や、宗近さんの阿父おとっさんも、ああおっしゃる。おんなじ事だろう」
「私は――参らんでも――よろしゅうございます」と小夜子が枕のうしろで切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲斐かいがない。小野うじにもだんだん事情のある事だろうから、まあせがれの通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように御聞済おききずみを願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのはなものだが、忰は事理わけの分った奴で、けっして後で御迷惑になるような取計とりはからいは致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目にかかったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」
 雨をく一りょうの車は輪を鳴らして、格子こうしの前で留った。がらりとく途端に、ぐちゃりとれた草鞋わらじ沓脱くつぬぎへ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。
 第三の車が糸子をせたまま、甲野の門に※(「車+隣のつくり」、第3水準1-92-48)りんりんの響を送りつつけて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の抽出ひきだしを一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。ゆかの上は千切れた半切はんきれで膝の所だけがうずたかくなった。甲野さんは乱るる反故屑ほごくずを踏みつけて立った。今度は抽出ひきだしから一枚、二枚と細字さいじしたためた控を取り出す。中には五六ページまとめて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置きえるのもある。しばらくすると、かさなるものは小一尺のたかさまで来た。抽出は大抵たいていからになる。甲野さんは上下うえしたへ手を掛けて、総体を煖炉のそばまで持って来たが、やがて、無言のままんだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面にくずれた。
 葡萄ぶどうの葉を青銅にた灰皿が洋卓テエブルの上にある。灰皿の上に燐寸マッチがある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙きびょうしの日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い印気インキねずみの鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕ゆうべ寝る前に書き込んだ、
みちにいる無言客むごんのかくいえをいず有髪僧うはつのそう
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。しゃがんだ。煖炉敷ハースラッグの前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠けったるのびをしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間すきまのぼって出た。すると紙は下層したがわの方から動き出した。
「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
 戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じてたいを斜めに開く。たもとの先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋をあたためます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下みおろした。火は薄い水飴みずあめの色に燃える。あいむらさきが折々は思い出したように交って煙突のうちのぼって行く。
「まあ御あたんなさい」
 折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子まどガラスに当って砕けた。
「降り出しましたね」
 母は返事をせずに三足みあしほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、
「寒ければ、石炭をかせようか」と云った。
 めらめらと燃えた火は、ゆらぐ紫の舌の立ちのぼあとから、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。
「もうたくさんです。もう消えました」
 云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父おやじの眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんならないのかい」
 欽吾はゆかの上をながめた。裂きてた書面は見事に乱れている。あるいは二三行、あるいは五六行、はなはだしいのは一行の半分で引き千切ったのがある。
「みんな要りません」
「それじゃ、ちっと片づけよう。紙屑籠かみくずかごはどこにあるの」
 欽吾は答えなかった。母は机の下をのぞき込む。西洋流の籃製かごせい屑籠くずかごが、足掛あしかけむこうほのかに見える。母はこごんで手をのばした。紺緞子こんどんすの帯が、窓からさすあかりをまともに受けた。
 欽吾は腕を右へ真直まっすぐに、日蔽ひおいのかかった椅子いす背頸せくびを握った。せた肩をななめにして、ずるずると机のそばまで引いて来た。
 母は机の奥から屑籠をり出した。手紙の断片きれを一つ一つ床から拾って籠の中へ入れる。じ曲げたのを丹念に引き延ばして見る。「いずれ拝眉はいびの上……」と云うのを投げ込む。「……御免蒙ごめんこうむ度候たくそろ。もっとも事情の許す場合には御……」と云うのを投げ込む。「……はとうてい辛抱致しかね……」と云うのを裏返して見る。
 欽吾は尻眼に母をじろりとながめた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと紺足袋こんたびが白い日蔽ひおいの上にそろった。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上る。
「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から仰向あおむいた。眼と眼の間におそれの色が明かに読まれた。
「額をおろします」と上から落ちついて云う。
「額を?」
 おそれおどろきと変じた。欽吾は鍍金ときんわくに右の手をけた。
「ちょいと御待ち」
「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。
「額をはずして何にする気だい」
「持って行くんです」
「どこへ」
うちを出るから、額だけ持って行くんです」
「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっとゆっくりはずしたらさそうなもんじゃないか」
「悪いですか」
「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」
「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」
 母は変な顔をして呆然ぼうぜんとして立った。欽吾は両手を額に掛ける。
「出るって、御前本当に出る気なのかい」
「出る気です」
 欽吾はうしむきに答えた。
「いつ」
「これから、出るんです」
 欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、折釘おれくぎから外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手でうやうやしく捧げたままである。母は下から云う。
「こんな雨の降るのに」
「雨が降っても構わないです」
「せめて藤尾に暇乞いとまごいでもして行ってやっておくれな」
「藤尾はいないでしょう」
「だから待っておくれと云うのだあね。やぶからぼうに出るなんて、御母おっかさんを困らせるようなもんじゃないか」
「困らせるつもりじゃありません」
「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母さんが恥をきます」
「世間が……」と云いかけて額を持ちながら、首だけうしろへ向けた時、細長く切れた欽吾の眼は一度ひとたびは母に落ちた。やがて母から遠退とおのいて戸口に至ってはたと動かなくなった。――母は気味悪そうに振返る。
「おや」
 天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかにつむりを下げた。鷹揚おうようふくらました廂髪ひさしがみもとに帰ると、糸子は机のそばまで歩を移して来る。白足袋が両方そろった時、
御迎おむかえに参りました」と真直まっすぐに欽吾を見上げた。
はさみを取って下さい」と欽吾は上から頼む。あごで差図をした、レオパルジの傍に、鋏がある。――ぷつりと云う音と共に額は壁を離れた。鋏はかちゃりとゆかの上に落ちた。両手に額を捧げた欽吾は、机の上でくるりと正面に向き直った。
「兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました」
 欽吾は捧げた額を眼八分めはちぶんから、そろりそろりと下の方へ移す。
「受取って下さい」
 糸子はしかと受取った。欽吾は机から飛び下りる。
「行きましょう。――車で来たんですか」
「ええ」
「この額が乗りますか」
「乗ります」
「じゃあ」と再び額を受取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。
「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親のうちを出るんだか知らないが、少しはわたしの心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」
「世間はどうでも構わないです」
「そんな聞訳ききわけのない事を云って、――頑是がんぜない小供みたように」
「小供なら結構です。小供になれれば結構です」
「またそんな。――せっかく、小供から大人おとなになったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一と通りや二た通りの事じゃないよ、御前。少しは考えて御覧な」
「考えたから出るんです」
「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、今更いまさら泣いたって、口説くどいたって仕方がないけれども、――私は――くなった阿父おとっさんに――」
「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」
「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私をいじめなくってもさそうなもんじゃないか」
 甲野さんは額をげたまま、何とも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍に着いている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音をあつめてくる。ざあっと云う高い響である。また広い響である。響のうちに甲野さんは黙然もくねんとして立っている。糸子も黙然として立っている。
「少しは分ったかい」と母が聞いた。
 甲野さんは依然として黙している。
「これほど云っても、まだ分らないのかね」
 甲野さんはやはり口を開かない。
「糸子さん、こう云うていたらくなんですから。どうぞ御宅へ御帰りになったら、阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。――まことに、こんなところをあなた方に御見せ申すのは、何ともかとも面目しだいもございません」
御叔母おばさん。欽吾さんは出たいのですから、素直に出して御上げなすったら好いでしょう。無理に引っ張っても何にもならないと思います」
「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」
「なぜ」
「だって人の口は五月蠅うるさいじゃありませんか」
「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって今日こんにちを送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。御可哀想おかわいそうじゃありませんか」
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより御叔母おばさんのためになるんじゃないの」
「世の中への義理ですよ」
「分らないわ、わたしには。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが御叔母おばさんの迷惑になるはずはないわ」
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんはれないんだから構わないじゃありませんか」
 汽車のない時の事であった。山の男と海の男が喧嘩けんかをした。山の男が魚は塩辛いものだと云う。海の男が魚に塩気があるものかと云う。喧嘩はいつまで立ってもしずまらなかった。教育となづくる汽車がかかって、理性の楷段かいだんを自由に上下する方便ほうべんが開けないと、御互のかんがえは御互に分らない。ある時は俗社会の塩漬になり過ぎて、ただ見てさえも冥眩めんけんしそうな人間でないと、人間として通用しない事がある。それはうそいつわりだと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬趣味を主張する。――なぞの女と糸子の応対は、どこまで行っても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念をことにするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して冒頭あたまから考が違う。
 海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を見下みおろしている。糸子の云うところは弁護の出来ぬほど簡単である。母の主張は愛想あいそのつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは阿爺おやじの額を抱いたまま立っている。別段退屈した気色けしきも見えない。焦慮じれったそうな様子もない。困ったと云う風情ふぜいもない。二人の問答が、日暮まで続けば、日暮まで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。
 ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。
「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。
「うん」と答えたぎりである。
御叔母おばさんもここか、ちょうど好い」と腰を掛ける。あとから小野さんが這入はいって来る。小野さんの影を一寸いっすんも出ないように小夜子がついてくる。
「御叔母さん、雨の降るのに大入おおいりですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」
 活躍のは一句にして挨拶あいさつと紹介をかねる。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支えて立ったままである。小野さんも手持無沙汰てもちぶさたに席に着かぬ。小夜子と糸子はいたずらに丁寧なつむりを下げた。打ち解けた言葉は無論交す機会がない。
「雨の降るのに、まあよく……」
 母はこれだけの愛嬌あいきょうを一面に振りいた。
「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。
「小野さんは……」と母が云いけた時、宗近君がまたさえぎった。
「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と独語ひとりごとのように云ったが、ちょっと振り返って、
「みんな掛けないか。立ってると草臥くたびれるぜ。もうじき藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。
「さあ、どうぞ」と母が云う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」
「父の肖像をおろしまして、あなた。持って出るとか申して」
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
 甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。
「なに……」と甲野さんはげていた額をゆかの上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は俯向うつむきながら、そっと額の方を見る。
「なんぞ藤尾に、御用でも御有おあんなさるんですか」
 これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
 これは宗近の答であった。
 あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一りょうの車はクレオパトラのいかりを乗せて韋駄天いだてんのごとく新橋からけて来る。
 宗近君は胴衣ちょっきの上で、ぱちりと云わした。
「三時二十分」
 何ともこたえるものがない。車は千筋ちすじの雨を、黒いほろはじいて一散に飛んで来る。クレオパトラのいかり布団ふとんの上でおどり上る。
御叔母おばさん京都の話でも、しましょうかね」
 降る雨の地に落ちぬを追い越せと、乗る怒は車夫の背をむちうってけつける。横にあおる風を真向まむきに切って、歯を逆にねじると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けて来た。
 濃いむらさき絹紐リボンに、怒をあつめて、ほろくぐるときにさっとふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。
「二十五分」
と宗近君が云い切らぬうちに、怒の権化ごんげは、はずかしめられたる女王のごとく、書斎の真中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐にあつまる。
「やあ、御帰り」と宗近君が煙草をくわえながら云う。藤尾は一言いちごん挨拶あいさつすら返す事をいさぎよしとせぬ。高い背を高くらして、きっと部屋のなかを見廻した。見廻した眼は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は背広せびろの肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑み掛けの煙草を、青葡萄あおぶどうの灰皿にほうり込む。
「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まん事になりました」
 小野さんの句切りは例になく明暸めいりょうであった。稲妻いなずまははたはたとクレオパトラのひとみから飛ぶ。何を猪子才ちょこざいなと小野さんの額を射た。
「約束を守らなければ、説明がります」
「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
 宗近君は二三歩大股に歩いて来た。
「僕が紹介してやろう」と一足ひとあし小野さんを横へ退けると、うしろから小さい小夜子が出た。
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
 藤尾の表情は忽然こつぜんとして憎悪ぞうおとなった。憎悪はしだいに嫉妬しっととなった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
 小夜子は泣きらした眼をせたまま、細い首を下げる。藤尾は白いこぶしを握ったまま、動かない。
うそです。嘘です」と二遍云った。「小野さんはわたしおっとです。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
 化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度のいかりを満面にそそぐ。
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――
「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、今日こんにちまでの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目まじめな人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」
 藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、侮蔑ぶべつの色のみが深刻に残った。仮面めんの形は急にくずれる。
「ホホホホ」
 歇私的里性ヒステリせいの笑は窓外の雨をいて高くほとばしった。同時に握るこぶしを厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅しんくの尾は怪しき光を帯びて、右へ左へうごく。
「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
 白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒あかぐろい宗近君のてのひらしっかと落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒あかぐろい拳がくうおどる。時計は大理石のかどで砕けた。
「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興すいきょうな邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯いたずらをしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
 呆然ぼうぜんとして立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手がかたくなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、ゆかの上に倒れた。

        十九

 る雲の底を抜いて、小一日こいちにち空を傾けた雨は、大地のずいみ込むまで降ってんだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、すももに、かつ散り、かつ散って、残るくれないもまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとくほろぶ。の女は虚栄の毒を仰いでたおれた。花に相手を失った風は、いたずらにき人の部屋にかおめる。
 藤尾は北を枕に寝る。薄く掛けた友禅ゆうぜん小夜着こよぎには片輪車かたわぐるまを、浮世らしからぬ恰好かっこうに、染め抜いた。上には半分ほど色づいたつたが一面にいかかる。さみしき模様である。動く気色けしきもない。敷布団は厚い郡内ぐんないを二枚重ねたらしい。ちりさえ立たぬ敷布シートなめらかに敷き詰めた下から、あら格子こうしの黄と焦茶こげちゃが一本ずつ見える。
 変らぬものは黒髪である。むらさき絹紐リボンは取って捨てた。有るたけは、有るに任せて枕に乱した。今日きょうまでの浮世と思う母は、くしの歯も入れてやらぬと見える。乱るる髪は、純白まっしろ敷布シートにこぼれて、小夜着こよぎえり天鵞絨びろうどつらなる。その中に仰向あおむけた顔がある。昨日きのうの肉をそのままに、ただ色が違う。眉は依然として濃い。眼はさっき母が眠らした。眠るまで母は丹念にさすったのである。――顔よりほかは見えぬ。
 敷布の上に時計がある。こまやかに刻んだ七子ななこ無惨むざんつぶれてしまった。鎖だけはたしかである。ぐるぐると両蓋りょうぶたふちを巻いて、黄金こがねの光を五分ごぶごとに曲折する真中に、柘榴珠ざくろだまが、へしゃげた蓋のまなこのごとく乗っている。
 さかに立てたのは二枚折の銀屏ぎんびょうである。一面にえ返る月の色のほう六尺のなかに、会釈えしゃくもなく緑青ろくしょうを使って、柔婉なよやかなる茎を乱るるばかりにいた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉のこぎりはを描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄いはなびらてのひらほどのおおきさに描いた。茎をはじけば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重のひだを、しぼりに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてがしろかねの中からえる。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草ぐびじんそうである。落款らっかん抱一ほういつである。
 屏風びょうぶの陰に用い慣れた寄木よせきの小机を置く。高岡塗たかおかぬり蒔絵まきえ硯筥すずりばこは書物と共に違棚ちがいだなに移した。机の上には油をした瓦器かわらけを供えて、昼ながらの灯火ともしびを一本の灯心とうしんける。灯心は新らしい。瓦器のたけを余りて、三寸を尾に引く先は、油さえ含まず白くすらりと延びている。
 ほかには白磁はくじ香炉こうろがある。線香の袋があおざめた赤い色を机のかどに出している。灰の中に立てた五六本は、一点のくれないから煙となって消えて行く。においは仏に似ている。色は流るるあいである。根本ねもとから濃く立ちのぼるうちに右にうごき左へ揺く。揺くたびに幅が広くなる。幅が広くなるうちに色が薄くなる。薄くなる帯のなかに濃い筋がゆるやかに流れて、しまいには広い幅も、帯も、濃い筋も行方ゆきがた知れずになる。時に燃え尽した灰がぱたりと、棒のまま倒れる。
 違棚の高岡塗は沈んだ小豆色あずきいろ古木こぼくの幹を青く盛り上げて、寒紅梅かんこうばいの数点を螺鈿擬らでんまがいり出した。裏は黒地にうぐいすが一羽飛んでいる。並ぶ蘆雁ろがんの高蒔絵の中には昨日きのうまで、深き光を暗き底に放つ柘榴珠が収めてあった。両蓋に隙間すきまなく七子を盛る金側時計が収めてあった。高蒔絵の上には一巻の書物がせてある。四隅よすみきんに立ち切ったはくの小口だけがあざやかに見える。間から紫のしおりの房が長く垂れている。栞を差し込んだページの上から七行目に「埃及エジプト御代みよしろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」の一句がある。色鉛筆で細い筋を入れてある。
 すべてが美くしい。美くしいもののなかによこたわる人の顔も美くしい。おごる眼はとこしなえに閉じた。驕る眼をねむった藤尾のまゆは、額は、黒髪は、天女てんにょのごとく美くしい。
「御線香が切れやしないかしら」と母はつぎから立ちかかる。
「今上げて来ました」と欽吾が云う。ひざを正しく組み合わして、手をこまぬいている。
はじめさんも上げてやって下さい」
わたしも今上げて来た」
 線香のにおいは藤尾の部屋から、思い出したように吹いてくる。燃え切った灰は、棒のままで、はたりはたりと香炉の中に倒れつつある。銀屏ぎんびょうは知らぬくゆる。
「小野さんは、まだ来ないんですか」と母が云う。
「もう来るでしょう。今呼びにやりました」と欽吾が云う。
 部屋はわざと立て切った。へだてふすまだけは明けてある。片輪車の友禅ゆうぜんすそだけが見える。あとは芭蕉布ばしょうふ唐紙からかみで万事を隠す。幽冥ゆうめいを仕切るふちは黒である。一寸幅に鴨居かもいから敷居しきいまで真直まっすぐに貫いている。母はふすまのこちらに坐りながら、折々は、見えぬ所をのぞき込むように、首を傾けて背をらす。冷かな足よりも冷かな顔の方が気にかかる。覗くたびに黒い縁は、すっきりと友禅の小夜着こよぎはすに断ち切っている。写せばそのままの模様画になる。
御叔母おばさん、飛んだ事になって、御気の毒だが、仕方がない。御諦おあきらめなさい」
「こんな事になろうとは……」
「泣いたって、今更いまさらしようがない。因果いんがだ」
「本当に残念な事をしました」と眼を拭う。
「あんまり泣くとかえって供養くようにならない。それよりあとの始末が大事ですよ。こうなっちゃ、是非甲野さんにいてもらうより仕方がないんだから、その気になってやらないと、あなたが困るばかりだ」
 母はわっと泣き出した。過去をかえりみる涙はおさえやすい。卒然として未来におけるわが運命を自覚した時の涙は発作的ほっさてきに来る。
「どうしたら好いか――それを思うと――一さん」
 切れ切れの言葉が、涙とはなの間から出た。
「御叔母さん、失礼ながら、ちっと平生へいぜいの考え方が悪かった」
「私の不行届から、藤尾はこんな事になる。欽吾には見放される……」
「だからね。そう泣いたってしようがないから……」
「……まことに面目しだいもございません」
「だからこれから少し考え直すさ。ねえ、甲野さん、そうしたら好いだろう」
「みんなわたしが悪いんでしょうね」と母は始めて欽吾に向った。腕組をしていた人はようやく口をひらく。――
うその子だとか、本当の子だとか区別しなければ好いんです。平たく当り前にして下されば好いんです。遠慮なんぞなさらなければ好いんです。なんでもない事をむずかしく考えなければ好いんです」
 甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。あるいは理解出来ないからかと思う。甲野さんは再び口をいた。――
「あなたは藤尾にうちも財産もやりたかったのでしょう。だからやろうと私が云うのに、いつまでも私をうたぐって信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家にいるのを面白く思っておいででなかったでしょう。だから私が家を出ると云うのに、面当つらあてのためだとか、何とか悪く考えるのがいけないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びにやって、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略がいけないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気をなおすためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そう云ううそが悪いんです。――そう云うところさえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。いつまでも御世話をしても好いのです」
 甲野さんはこれだけでやめる。母は俯向うつむいたまま、しばらく考えていたが、ついに低い声で答えた。――
「そう云われて見ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪いところは直すつもりだから……」
「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも御母おっかさんだ。家にいて面倒を見て上げるがいい。糸公にもよく話しておくから」
「うん」と甲野さんは答えたぎりである。
 隣室の線香が絶えんとする時、小野さんは蒼白あおじろい額を抑えて来た。藍色あいいろの煙は再び銀屏ぎんびょうかすめて立ちのぼった。
 二日して葬式は済んだ。葬式の済んだ夜、甲野さんは日記を書き込んだ。――
「悲劇はついに来た。きたるべき悲劇はとうから預想よそうしていた。預想した悲劇を、なすがままの発展に任せて、隻手せきしゅをだに下さぬは、ごう深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るがゆえである。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三世さんぜまたがるごうを根柢から洗わんがためである。不親切なためではない。隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目いちもくうごかせば一目をびょうす。手と目とをそこのうて、しかも第二者のごうは依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手をそでに、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶いっさつに本来の面目に逢着ほうちゃくせしむるの微意にほかならぬ。
 悲劇は喜劇より偉大である。これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。取り返しがつかぬ運命の底におちいって、出て来ぬから偉大だと云うのは、流るる水がいて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。運命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。忽然こつぜんとして生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。ふざけたるものが急にえりを正すから偉大なのである。襟を正して道義の必要を今更のごとく感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏のうりに樹立するがゆえに偉大なのである。道義の運行は悲劇に際会して始めて渋滞じゅうたいせざるが故に偉大なのである。道義の実践はこれを人に望む事せつなるにもかかわらず、われのもっともかたしとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。道義の実践は他人にもっとも便宜べんぎにして、自己にもっとも不利益である。人々にんにん力をここに致すとき、一般の幸福をうながして、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である。
 問題は無数にある。あわか米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織つづれおり繻珍しゅちんか、これも喜劇である。英語か独乙語ドイツごか、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。
 十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶はんもんして、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。
 死を忘るるものは贅沢ぜいたくになる。一浮いっぷも生中である。一沈いっちんも生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる気遣きづかいなしと思う。贅沢はこうじて大胆となる。大胆は道義を蹂躙じゅうりんして大自在だいじざい跳梁ちょうりょうする。
 万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。ここにおいて万人は生に向って進んだ。ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死にそむいて遠ざかるが故に、大自在に跳梁してごうも生中を脱するのおそれなしと自信するが故に、――道義は不必要となる。
 道義におもきを置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。あざむく。嘲弄ちょうろうする。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受きょうじゅし得るが故に――喜劇の進歩は底止ていしするところを知らずして、道義の観念は日を追うてくだる。
 道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。みだりに踊り狂うとき、人をして生の境を踏みはずして、死の圜内けんないに入らしむる事を知る。人もわれももっともみ嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫えいごう陥穽かんせいなる事を知る。陥穽の周囲にちかかる道義の縄はみだりに飛びゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」
 二ヵ月甲野さんはこの一節を抄録して倫敦ロンドンの宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
「ここでは喜劇ばかり流行はやる」





底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月3日公開
2004年1月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について