宇治
日本の大乗仏教は支那から来たせいで、蔵経も
漢訳大蔵の模稜は早くから問題になっていて、それから八年後、日露戦争当時、明治天皇が奉天の黄寺にあった年代不明の満訳大蔵と蒙古大蔵を買上げ、校合の資料として東京帝大へ下附されたようなことまであったが、仏教は印度教(波羅門教)の興隆で大打撃を受けたうえ、八世紀の末、回教が侵入してきてあらゆる寺塔と仏像経巻を焼き、僧侶と信徒をかたっぱしから虐殺するという大破壊を二世紀にわたって行なったため、仏教は印度では形骸もとどめず、梵語経論の写本の一部がセイロン島やビルマ地方に残っているだけだから、漢訳大蔵を正誤するなどは、望んでもできることではなかった。
大乗仏教が西蔵へ入ったのは七世紀頃のことで、トンミという僧が印度から大蔵の原典を持って帰って西蔵語に翻訳し、ついで蓮華上座師が仏教の密部を西蔵の原宗教に結びつけ、西蔵を中心に満洲、蒙古、シベリヤから裏海沿岸にいたる一千万の信徒をもつ
明治廿一、二年から日露戦争のはじまるまでの十七、八年間は、かつてないほど国民的感情が昂揚し、日本人の心に国家という斬新な感情を目ざめさせた。岡本監輔の千島義会の結成から福島中佐のシベリヤ騎馬横断、郡司大尉の千島探検、野中至夫妻の富士山頂の気象観測にまで発展する愛国心のブームのなかで、進んで国家的な事業に身を捧げようという受難者型のタイプが何人かあらわれたが、なかでも玉井喜作と山口智海の行動は傑出している。
玉井喜作は山口県三井村の出身というほか、経歴はなにひとつ知られていない。郡司大尉の千島探検隊の出発から遅れること十カ月、福島中佐が単騎旅行を終えようとする明治廿六年の十二月、イルクーツクでロシア人の茶の隊商に加わり、福島中佐と逆コースをとってシベリヤ徒歩横断の旅行にのぼった。
その頃、シベリヤ経由の茶の隊商の旅行は、寒気、プルガ(暴風雪)、狼群、流賊との戦争、ペスト、大飢餓というぐあいにあらゆる災厄の要素がそなわっていて、その隊商もポーランドの国境に着いたときは、四百五十人の人間が三分の一になっていたということである。玉井喜作は最後まで隊商から離れず、歌にもうたえないような一万五千粁の旅行をつづけ、翌々、廿八年の二月に独逸へ入り、ベルリンで Karawanen-Reise in Sibilien(「西比利亜征槎旅行」)という本を刊行した。イルクーツクからトスムスクまでの千八百粁の見事な素描は、欧亜をつなぐ茶の隊商の生活を知る唯一の文献だとされ、独逸地理学協会の紀行文庫へ収録されたが、当の玉井喜作はそれっきり欧羅巴のどこかへ消え、その後誰も逢ったものはない。玉井喜作はその本の序文で、「汽船の船室に閉じこもって欧羅巴へ行くのは月並だから、わざとこういう道をえらんだまで」といっているが、ありきたりの旅行が月並だというだけのことで、それほどの波瀾と艱難に耐えられるものだろうか。もし事実なら不可解というほかはない。
山口智海が西蔵へ密入国して、ラッサ(聖都)に達するまでの苦行は、玉井喜作のそれよりも荒々しく凄涼としていて、幸も不幸ももろともにおし潰してしまう悲劇的な宿縁の翳といったようなものが感じられる。二万一千尺のヒマラヤ越えだとか、孤独無援の百日の凍原の旅だとか、異教徒と見れば、八ツ斬りにして野犬に食わしてしまう狂人じみたラマ教徒だとか、匪賊だとか、雪豹だとか、そういう道具立てはべつにして、入蔵を企てるそのこと自体が無謀な振舞いであり、無益な消耗であって、人間の精神がこれほど肉体を
西蔵のラッサは、今なら自動車を利用すれば、ブータン(西蔵と印度の間にある小独立国)の国境に近い印度のダージリンから五日ぐらいで行かれるが、つい二十世紀のはじめまでは、国境のまわりに立ちめぐる一万六千尺から三万尺に及ぶ山脈の防壁を利用し、
西蔵は唐代に西域諸州を侵略し、長駆して長安を攻めた慓悍な吐蕃の国で、北に
西蔵は本部と外部に分れ、外西蔵は日本の内地のほぼ三倍ほどの広さの
ラマ(喇嘛)教は、神力加持を説く密教(仏教の一流派)を精霊信仰の西蔵の原宗教(シャマニズムの一種)に結びつけ、輪廻と転生を信じ、超自然の神秘力に帰依する多神教の秘密
ラマ教徒はすべて激越な狂信者で、一種独得のクリュオーテシスム(加虐性)については、鎖国前一七〇六年に入蔵した伊太利の耶蘇会士イッポリート・デシデリが、「思い出すだけでも身の毛がよだつ」と旅行記に書いている。ラマ教徒の手に入った残酷技術の花々しさを証明するものは拷訊と刑統で、律書できめられた重罪は七十二条、これにたいする刑統(刑の種類)は千八百八十六条という豊富さである。
「ラマ教徒の残虐の熱愛と狂信が思いつかせた拷問と刑罰は、技術の繊細巧緻と創意のすばらしい点で、人類の歴史に残るすべての方法を凌駕し、トルケマダ(天才的な拷問の方法を案出した西班牙の宗教裁判判事)やアルベ(和蘭の叛乱者裁判で前例のない残酷な処刑を行なった)も及ばないような完璧さを示している。
一例をあげると、それはこんなふうにやられる。西蔵の律法はすべて連坐法(子が罪を犯せば、その父も、父が罪を犯せば、その子も同罪になる)によるので、父と子、夫と妻がいっしょに刑場へ出てくるが、刑僧はまず二人に大きなヤットコを示し、これから歯抜きの刑を行なうと宣告する。そうしておいて、剃刀で二人の髪を剃りはじめる。受刑者には歯抜きの刑に頭を剃るというのは、どういうことなのか理解できないが、間もなく、西蔵の刑術はおどろくほど洗練されたものだということを知るようになる。頭を剃り終ると、刑僧がヤットコを受刑者の一人に渡し、父に子の歯を、子に父の歯を、というぐあいに交互に抜かせる。刑僧は直接になにもしない。円滑に刑が進行するよう傍で鞭撻するだけである。はじめのうち、受刑者たちはやさしくいたわりあっているが、そのうちにたがいに呪咀しあい、最後はあらんかぎりの憎しみを投げあう眼もあてられない場面になる。歯は全部抜けたが、刑は終ったのではない。そこからはじまる。こんどは、抜いた歯をたがいの脳天へ金槌で打ちこまなくてはならない。さっきの毛剃りは、歯を楽に頭蓋骨へ嵌入させようという親切な配慮だったことを、ここではじめて諒解する。なおまた、受刑者が仏敵であるときは、打ちこんだ歯の配列が、仏陀のイニシアルになっている梵字ののフィギュアを描くように、傍から丁寧に指示するのである」
受刑者の身体を焼く刑罰にしても、西班牙や独逸では、石炭の火を入れたアイロンで身体を撫でまわすとか、蝋燭の火で気長に腋を焼くぐらいのことしかしないが、そういう場合、ラマ僧は硫黄のかたまりに火をつけてどろどろになるのを待ち、焔のたつ硫黄の溶体を棒の先ですくって、ここと思うところへ気まぐれに塗りつける。受刑者が火を磨り消そうと努力すればするほど炎の面積が広くなり、燐が骨を腐蝕する時間が早くなる。つまり刑罰の主要なモーメントの案配は、受刑者の自由意志に任せるといったぐあいになっている。
この二つの例だけをとってみても、ラマ僧は残酷の真の意味を理解していることがよくわかる。相手に与える苦痛そのものにたいする洞察力と想像力は、どんな智力でも及びつけないほど深い。見せかけのむごたらしさに眩まされるようなこともなく、客観的な残虐さに酔い痴れるようなこともない。あくまでも実際的で、受刑者の感受性を土台にして周到に計算され、相手の苦痛を想像力で補ったり割引したりするような幼稚な誤りをおかさないのみならず、単純ないくつかのマニエールに独創的な組合せをあたえることによって、誰も想像もし得なかった測り知れぬ残酷の効果をひきだすのである。
ラマ教徒の残虐精神が活発な動きをみせている間はまだしも助かるが、怠けて動かなくなると、刑罰はたとえようのないほど陰惨なものになる。その一つの例が西蔵式のカロリナ刑法である。
樹皮を剥がない丸太の二重柵で囲った十尺四方ぐらいの空地のまんなかに、長さ四尺、高さ一尺五寸ぐらいの檻が置いてある。それは受刑者が生きたまま入れられる監房なのである。受刑者は首と両腕を一つの鎖でいっしょくたにまとめられ、坐ることもできなければ身体を伸して寝ることもできず、背を曲げ、何年となくかがんだままの恰好でいるので、四肢は使途を失って骨と皮ばかりになってしまう。食餌は番僧が思いだしたとき、檻の鉄棒の間から便宜に投げこまれる。西蔵ではめずらしくない零下二十度という寒い日でも、蔽い物として羊の皮を一枚与えられるだけである。欧羅巴のカロリナ刑法は、拘禁が餓死に導くように配慮されているが、西蔵人のやりかたは、カロリナ刑法から餓死の部を引き去り、それにハンブルグの鎖拷問と西班牙の拘搾拷問を附け加えたものであることがわかる。
これがラマ教徒の加虐性が怠けているときの結果だが、そういう状態で、最低五年から二十年ぐらいまで忘れられる。受刑者のことだが、そうしておし縮められた肉体の苦痛は言語に絶するものがあろう。飢えさせられ、
おなじころ、鎖国前の享保四年(一七一九)に入蔵した、カプチン派の伝道士フランシスコ・デラ・ペンナは、ラマ教の実体を紹介した最初の欧羅巴人だが、ラマ法皇の悲劇的な境遇と、大臣連の公然たる弑逆の風習について詳細な報告をしている。
ラマ教は中世に旧教(紅教)と新教に分れたが、元代に蒙古王の
「西蔵仏教は輪廻の教えや転生の説のほか、口で説明できないような深玄な汎神論のなかで浮動しているが、ラマ教の教理にしたがうと、法皇は観音菩薩の化身で、死ぬとすぐ転生して、誰かの胎内から産声をあげて出て来、降生的に法皇の位をつぐことになっている。
法皇のなかには、臨終の床でこんどは何村の某の子になって生れるから、その子をおれだと思えと遺言して死ぬ用意のいいのもあるが、そうでないと、法皇が息をひきとった時間に生れた子供を手分けして探す。一人だけであってくれればこれに越したことはないが、三人も四人もいると、いるだけの子供を候補者に指定して五歳になるのを待ち、子供の名を書いた紙を繭玉に封じこんで金ピカの甕に入れ、督弁政務使が象牙の箸で繭玉を一つつまみだす。その子供がつぎの法皇になるのである。
法皇えらびは西蔵ではもっとも厳粛な儀式になっているが、といって絶対に掛引がないとは断言できない。自分の子供が法皇になると、一族のうるおいはたいへんなものだから、政務使や大参事に莫大な袖の下をつかい、自分の子供の名を挾みだしてもらえるように奔走する。
幼王が定年に達するまで副王が摂政するが、その十何年間は、閣僚や高官にとって、なによりありがたい書入れ時になる。副王にはなんの権力も与えられていないので、自分たちでいい加減な政治をとり、思う存分に私腹を肥すことができるからである。その連中のねがいは、法皇が永久に五歳のままでいるか、白痴であってくれることで、英邁俊秀といったタイプをなにより嫌う。三代から七代まで、五人の法皇のなかで、廿五歳まで生きのびたものは一人もいないが、それらはみな巧妙な方法で暗殺されたと信じられる節がある。
八代の法皇が急病で床についたとき、立会人にえらばれて、法皇宮における医官の奮闘ぶりを見る機会を得たが、逝去するまでの前後の情況は、この世にこんな暗殺の方法も存在することを紹介するためにも、充分に記述する価値のあるものである。
ダライラマ八世は、機才に富む、聡明な、そのうえまれにみる健康の保持者で、廿三歳になるまで、病気らしい病気をしたのはそのときがはじめてだった。熱が高く、汗を流し、発作的に咳きこむたびに軽度の痙攣があった。感冒をこじらせ、気管支炎喘息をおこしかけているくらいのところで、手早く処置すれば四、五日で快癒する程度のものであった。
治療はまず騒ぞうしい祈祷からはじまった。ラマ教の信仰では、病気はすべて悪魔、厄鬼、死霊などのなすわざであり、悪魔を祓ってからでなければ、どんな名薬を飲ませても効目がないことになっているので、医者で修咒者より先に病室へ入るようなことはありえない。法皇の場合といえども、違法はゆるされないのである。
大修験師を先頭に十六人の修咒者が入ってくると、あるだけの窓をみな開けはなしてしまった。せっかく祈りだしても、厄鬼が逃げて行く道をつくっておかなければなんにもならないのである。修咒者は床に坐りこんで大きな円陣をつくり、凛烈たる寒風の吹きこむのにまかせ、振鈴や太鼓の伴奏で咒文の合唱がはてしもなくつづく。法皇は濛々たる線香の煙の氷のような冷たい夜風を吸いこんで、とめどもなく咳きこむ。法皇にとりついている
侍医長が十人ばかり医官を連れて入ってくる。まず腕から一ヴァース(約一合五勺)の瀉血をし、肩に傷をつくって吸いガラスでほぼ同量の血を絞りとる。法皇の頭を剃ってユーカリの油に芥子とアラビヤゴムを混ぜた発泡膏を貼り、馬銭子(マチン)の種と曼陀羅(チョウセンアサガオ)の葉を煮だした熱湯で足を罨法する。そういう殺人的な処置をしておいて、おもむろに投薬を開始する。
侍医長がいちいち入念に毒見して医官に返す。まず檳榔子とタマリンドの果肉の煎汁に鼈甲の粉末をまぜた下剤を三カデックス(約三合)ほど飲ませ、吐剤として牛(ヤク)の糞と芸香と銭苔を練りあわせた丸薬を一ドラチューム(約十匁)、鎮咳剤として印度大麻の葉、落葉松茸(エプリコ)、金銀花(スイカズラ)の花の煎汁をそれぞれ二カデックス(約二合)ずつ。乾漆(ウルシ)合歓(ネム)の木の樹皮の粉末をパパイヤの乳液で溶いた下熱剤を一ポスラム(約五合)あまり、これだけのものを渋滞なく矢継早やに飲ませる。
ここでちょっと中休みをしてようすを見る。容態はいっこうによくならないので、瀉血から下熱剤までの過程をはじめからもう一度くりかえす。法皇は三時間ばかりのあいだに二ラゲーナ(八合強)の血をとられ、そのかわりに七ラゲーナ(二升八合)の高貴薬の煎汁を収めたことになる。二回目のクールの終りに近づくと、法皇は息もたえだえになり、溺死の一歩手前のところで藻掻いている。合議のうえ医官らは非常処置をとることに意見をまとめる。督弁政務使、大参事、大書記官、大臣以下、
侍医長は、羚羊の生血と、猿の脳エキスと、印度大麻草の煎汁と、樟脳精を混合した強心剤の大椀を捧げ、西蔵風のアラベスクを金象嵌した極彩色の法皇の寝台へ近づいて行く。法皇は恐怖の叫び声をあげて無益な抵抗をするが、たくましい医官に左右からおさえつけられ、なにも受けつけなくなっている咽喉の奥へむりやりに強心剤を注ぎこまれる。五分後、ダライラマは眼もあてられぬ苦悶のうちに息をひきとった」
耶蘇会士の異色ある「異邦伝道報告書」のなかでも、寛永六年(一六二八)に欧羅巴人として最初にラマ教徒の聖都に足を踏み入れたルイ・ドルヴィルの地理学的な史料は、旅行記としてもすぐれ、キルヘルの「支那図説」の中に収録されているが、海抜一万六千尺という地球の頂上にある冥蒙たる地域に、紀元前三世紀に滅びてしまったニネヴェ古代帝国以来の燦然たる文化の遺業をそのままにたもち、周囲約一マイル、延長三十八マイルの廻廊をめぐらす大宮殿と、二万の学徒を収容する三つの大学があるという、光明の都、
「ゆくてにはやさしいなだらかな小山があるばかりであった。褐色の平原がゆるく波をうちながら茫々とひろがっている。大気は完全な均衡をたもち、人の気配はさらにない。締めつけるような沈黙のなかで、自然が魔法にかかったように四季のめぐりをとめている。人間と季節に見捨てられた異様な眺望であった。
山のむこうにはまた空漠たる曠原が待ちうけているのだろう。それはもう十分に予期されることであった。かすかに残っている野馬の踏附け道をたどりながら頂きまでのぼりつめると、なんの前触れもなく、いきなり眼の下に現出した壮大な景観に思わず声をのんで立ちすくんだ。
曠原のファンタジア――その蜃気楼を一瞥したときのおどろきを、どう言いあらわしていいかわからない。そのときほど強く心霊をゆすぶられた経験は、かつて一度もなかった。
はるばるとひろがった平野のまなか、突兀たる岩山を背にした雪のように輝く白堊の大宮殿と仏殿と僧院の大群落が、乾燥した空気の作用で、無類の鮮かさでクッキリと浮きあがっている。岩山の頂きには古代契丹の放胆な規模を思わせる仏殿があり、無垢の黄金と黄瓷を載せた天蓋が、青銅の緑と
空を摩して聳えるヒマラヤ山脈の等高地帯、
ポンタマー・ホ(玉の宮殿の意)と名づけられている大宮殿の壁の厚さはただごとではない。鼓楼のある三つの大門と、電光形の石階と、迷路のように上下八方に通じている暗道の仕掛を見ると、この宏大な宮殿は王宮と城塞をかねていることがわかる。神獣や曼陀羅を彫刻した仏殿のおどろくべきコレクションや、黄金の蓮の花の上に立っている宝石を鏤めた十六アンパン(約八十尺)の純金の仏陀像を挙げずとも、ラッサがラマ教徒の聖都だという不変の証拠がある。数えきれぬ僧院と精舎で唱和する読経の声が、鐃と太鼓の伴奏で絶えることなく空中にただよい、メッカをめざして何百里の困難な旅をしてきた巡礼が、半リーグもある長い参道を、一歩ごと額を大地にうちつけながら、大仏殿のほうへ這って行く敬虔なすがたが見られる」
アフリカ大陸の暗黒地帯、サハラ砂漠の中央、黒人国イスラム王国の文化の中心になっているトンブゥクツーという学問の都があって、そこのサンコレ大学にギリシャ、ラテンの詩文の写本やアラビヤ語の古典が集まっているといわれ、回教の大学生がトンブゥクツーの黄金の富の鵞鳥のペンでトルコ王に書き送ったという佯りの記述があるが、ラッサは伝説のなかにあるのではなく、絹の交易路を通って印度を横断し、ブータンとパミールを経て入ってきたシリヤ、ペルシャの文化の原形が
濠洲の内部と中央アジアの探検が終ったので、世界地図の「白い部分」は、両極は別にして、人間の住む地域では、アフリカのイスラム王国と西蔵ということになった。イスラム王国のほうは、一八二七年(文政十年)にルネ・カイエというフランス人がトンブゥクツーを見、生きてそこから出てきた最初の欧羅巴人としてフランスへ凱旋したので、もはや神秘と冥蒙の国でなくなり、西蔵だけが知られざるただ一つの土地として残された。異邦伝道報告書で明るみだしたとはいえ、それらは人情風俗のほのかな瞥見でしかないから、地理学上の知識を得ようと思うなら、西蔵へ入って自分の手でヴェールを剥ぐしかない。それで、一八一一年(文化八年)のマイエングを最初に、英、仏、露、洪、米、瑞の探検家や地理学者が西蔵の堅固な障壁に挑戦しだした。
印度からラッサへ入るには、ダージリンからヤートゥンを経由する公道のほかに、桃渓へ迂回する傍道と、カンチェンジュンガの西の鞍部、二万三千尺のユングリングリラ越えをして西から入る間道がある。印度からの入蔵を避けようとすれば、西康、青海、トルキスタン方面、ほかに怒江の上流の西寧を経由する方法もあるが、西蔵内部の交通路は、どんな間道を縫って入ってきても、上手な将棋指しが一つの駒であらゆる敵の進路をおさえてしまうように、いつかは公道を通らずにはすまぬ抜目のない設計になっているので、結局、外西蔵のどこかの道関で食いとめられ、国法を犯し、仏法相応刹土を洋夷の靴で穢した大罪によって、
何週間かかかって国境まで這い戻ると、裸馬に乗せてはるばる甘粛新彊まで送って行き、カラコルムの峠を越えたツァイダムの沙漠の入口で、足のうらに
さいわいに外関(国境に近い道関)をすりぬけることができても、その先に内関(府関)が待ちうけている。どの方面から来ても、ラッサへ入るには五カ所の関門で査閲されるが、反坐法という複雑な手続きがあって、どんなに急いでも廿日はかかる。まず第一関で仮照(仮りの通行券)をもらうのだが、それには区長と五人の村民を保証にたてなければならない。まちがって異邦人を通したような場合、区長と五人の村民が同罪に坐す仕組みである。仮照を持って第二関へ行くと、西蔵語の書試と口試を経て、清国駐蔵大臣の直轄する第三関へ送られる。清国人に扮装して入ってきたものは、すべてここで最期を遂げる。つぎに第四関でもう一度入府の請願をし、仮照を返してほんものの護照を受け、府関査察のいる第五関で通関税と入府税をおさめ、護照に入府許可の査証を請托する。そこから第三関へ戻って、第三関、第四関、第五関と順々に関長の副印をもらい、それでやっと府内へ入るのである。
文化八年のマイエングから明治廿九年のスウェン・ヘディンまでの探検家のうち、ラッサの潜入に成功したのは、フランスの宣教師ユックとガベェの組、サラット・チャンドラというブータン系印度人の西蔵語学者だけで、あとはみな西蔵の辺外諸部で不幸な終りをとげた。ブルジェヴァルスキー将軍などは、十五年にわたって、北と東から四回も潜入を企図したが、とうとう目的を達することができず、ボンヴァロは、ラッサを距る百哩ばかりのテングリ海のそばで、リットルデール夫妻はラッサを指呼の間に望む、あとわずか五十哩というところまで迫りながら、いずれもラマの兵僧に発見されてしまった。
麻の衣に網代笠、風呂敷包を腰につけ、脚絆に草鞋という、
地図の上では、ダージリンからブータンを通って、東北へ十五、六日歩けばいいのだが、この道は、百五十年前から厳重に閉鎖されているので、ブータンの西隣りのネパールへ行き、エヴェレストにつぐ世界第五の高山、ドーラギリを二万七千尺、富士山の二倍の高さのところで突破して西蔵の西南部へ入り、東へ行くべきところを、反対に西へ西へと二百里、マナサロワールという大湖の岸を半周したところで、はじめて東に向い、氷河の溶けだした、
衣の裾のすぼけた貧相なようすで数珠を持って立っている、黄檗山時代の写真が残っている。痩せて眼ばかり大きい、機転の閃きのない印象稀薄な風態で、どこか怯懦の感じさえある凡々とした顔つきの男が、そんな激烈な
玄奘三蔵が印度からお経をとって帰ったことが頭にあるので、玄奘でさえ十七年もかかるのだから、自分のような凡くらは、死ぬまでにやればいいほうだという意味だったのだろうが、この一言は、はしなくも自分の運命を
六月一日にカルカッタに着くと、智海はすぐ汽車でダージリンへ行った。ダージリンはブータンの国境に近い一万四千尺の高地にある避暑地で、すぐむこうにカンチェンジュンガが頂を雲のなかに突きいれ、巨大な氷の柱のように立ちあがっているのが見えた。ほかに目的があるわけではないから、率直に訪問の素志をのべると、チャンドラはなんともいいようのない表情で、しばらく智海の顔を見まもっていた。
この一世紀のあいだ、世界の一流の探検家でさえ一人も成功したものがないというのに、この青僧は事もなげに「西蔵のラッサへ入って」などというのだ。大きな子供ぐらいにしか見えない貧相な沙弥の顔を見ながら、案外、世俗的なところもあったチャンドラが、なにを考えていたか想像に難くない。
狂信的なラマ教徒の独尊自大はともかく、日清戦争以来、清国人にとって日本人は不快な人種になり、西蔵の清国官吏の間に
チャンドラにすれば、この男は正気なのかと疑いたくなったろう。あまり突拍子もない話なので相手になる気もなくなった。しかしだんだん聞いてみると、狂気どころか大真面目で、放っておくと、このままラッサへ行ってしまいそうな意気込みだから、チャンドラは本気になって説得にかかった。ラッサへ入るのは、どれほどむずかしいかということを、思いつくだけの例をあげて説明したが、「でも、あなたは入ったのでしょう」といって動かない。お前に出来ることがおれに出来ないわけはないといいたそうな顔である。
チャンドラという洋夷が一年近くラッサに潜伏し、目的を達して印度へ帰ったという牒報が入ると、ラッサの法皇庁はものすごい痙攣をおこした。チャンドラに出入の護照を出した関長はもとより、滞在と通行に有形無形の援助を与えたものは、情を知ると否とに関係なくみな永世牢へ追いこまれ、チャンドラの西蔵語研究を指導したというので、西蔵一の高僧センチェン・ドル・ジェチャン(大獅子金剛宝)の死体を一年の間、毎日、百回ずつコンポ河へ沈め、骨についている腐肉を匙で掻きとって
自分の都合で他人に意外な災厄を及ぼし、おのれは清雅高燥の地で悠々と辞典を編纂しているという自覚で、チャンドラはたえず良心の呵責を受けていた。異邦人がラッサへ潜入すれば、当人のみならず、直接間接に接触したすべての人間に累を及ぼすことを知らせたかったのだろうが、さすがにそこまでの告白をする気はなく、いろいろと想像に及ばないような危険があるのだから、無謀なことはやめにして、ここで西蔵語でも勉強して帰ったらどうかというくらいのところで、とやかくと忠告した。
宗教というものは、自己一身の
グンパールは黄教ラマの僧院で、丘陵の思い思いのところに石灰を塗った方形の僧房が建っていた。石門の前の草原に、黄の衣を着たラマ僧が五人ばかり、しゃがむともつかず坐るともつかぬ恰好でうずくまっている。なんだと思ったらそれは排便中のポーズなのであった。
チャンドラから話があったのらしく、シャブズンという僧院長が承引して僧房を一つ開け、一カ月五タンガー(約十銭)の学費で西蔵仏典の講義をしてくれることになった。僧房は厚い壁と閂のついた重い扉で仕切られた三坪ばかりの薄暗い部屋で、羊毛の毛氈を敷いた臥牀と
僧院には五十人ばかりの学侶がいたが、いずれも骨格のたくましい屈強な壮佼ばかりで、お経などはろくに読まず、石投げ、高飛び、棒術など武技の練習に精をだし、なにかというとすぐ草原へ出て決闘をする。いいかげん傷がついたところで、仲裁が入って仲直りの酒を飲むといったようなことばかりやっている。学業はすべて問答で、一人が端坐しているところへ一人が数珠を持って歩みよって来て、手を向い合わせに拡げ、大きな声で「チー・チ・クワ・チョエ・チャン」と絶叫して手を打ちあわせる。文珠菩薩の心、という真言である。問われたほうは「チー・ターワ・チミエ・チャン」とこたえる。宇宙間、如実の真法において論ずという意味で、それから問答がはじまる。問いを発すると同時に、左足を高くあげて両手をひろげ、手を拍つ拍子に、力まかせに足踏みをするという荒々しいものである。
朝は教学、午後はダージリンへ下りて托鉢をし、夜は読経に費した。僧院の同学は智海を支那の仏僧だときめこみ、お経ばかり読んでいる気のきかないやつだと思うかして、当らず触らずの扱いをしていたが、時折、その連中が話していることを聞くと、西蔵の辺外諸部の国境に近いところにあるこうした僧院は、西蔵へ潜入する異邦人を監視する
有向という耶蘇会士の「韃靼旅行雑写」はいろいろと有益な示唆を与えてくれた。北京で西蔵布教の命令を受けると、有向は蒙古のドロンノールへ行き、ラマ廟に四年、西蔵人の遊牧者の天幕に三年居て、ラマ僧の完全な肉体化をしたうえ、二百人以上の巡礼と話をして道関組織の綿密な研究をしている。チャンドラの話では、この一世紀の間、ラッサを目ざした延べて何百人の努力がみな失敗に終ったということだったが、そういうなかで有向だけが成功したのは、ひとえにゆるぎない堅信と誠実な人柄によることである。おのれは西蔵語を修得する方便に経典を読んでいるが、こんな軽薄なことではとうてい本願はとげられないと、率然と勇猛心をふるいおこし、思いたったその日に誓願文を書きあげた。
本願をとげるまでは、文珠問経の戒法に
翌日、未明に谷川で斎戒沐浴し、カンチェンジュンガの氷の山をまなかいに見る台地に坐った。百八遍の礼拝をして誓願文を読み、山に向って「何事の苦しかりけるためしをも人を救はむ道とこそなれ」と朗詠し、導師の学位を受けるためにあらためて学寮に入った。ラマ教の教学の組織は、
そうしているうちに、毎年、陰暦九月上旬から翌年の二月の中旬まで六カ月の間、西蔵の巡礼がネパールのカトマンドゥの大塔へ参拝に来るということを聞いた。
ネパールはブータンの西隣り、西蔵と印度との間にある半独立国で、ほぼ中央のところを、東から西へ、ヒマラヤの主山脈が氷の障壁をひきめぐらしているのに、エヴェレスト、アンナプルナ、ドーラギリなど、世界で一、二の高山が五峯も集まっている削峻たる地形である。西蔵とネパールはその以前、ヒマラヤの北にあるクヒンガングリ山脈のノラの大峠を通じて交通していた。文久三年(一八六三)にモントゴメリー少佐を隊長とする英国の探検隊が潜入して以来、この道も閉鎖されてしまったということだが、それにもかかわらず、大勢の巡礼が入ってくるところをみると、抜ける道があるのにちがいない。そこで聞けば、なにかの便宜がありそうなので、翌卅三年の一月、早々退舎して、カルカッタから汽車でカトマンドゥへ行った。十日の法要に連り、知合いになった巡礼たちにたずねてみると、メンダンという峠に巡礼だけが通る道があるが、ラッサの法皇庁の旅行券を持ったものでなければだめだということで、この道も問題にならなかった。
二月の半ばまで大塔の精舎で空しく日を送っていたが、百年ほど前、乾隆年間にネパールのグルーカ族で三万尺のドーラギリ越えをして西蔵へ攻め入り、ラッサの近くまで迫ったという話を聞くと、なにかしきりに気持が惹かれた。そういう折、おなじ房にいた慧憧(ギャルツァン)というラマ僧が暇乞いにきた。ドーラギリの山裾にあるカンプゥタンという村へ帰るのだが、村の精舎に、蔵経の律部の写本があるから読みに来ないかと誘われたので、よろこんでついて行った。
カンプゥタンは一万八千尺ほどの高地の斜面に、
西蔵は一妻多夫の国で、兄弟が五人あっても七人あっても細君は一人で間にあわせる。地味が痩せているので、めいめいが妻帯しても食わせることができない。長男がまず嫁をもらい、そのうちに弟が年頃になると、母の仲人で兄嫁と夫婦になる。つぎの弟がまたこれと夫婦関係を結ぶというふうに、兄弟で一人の細君をアチコチする。父と子で一人の細君をもっているのもあり、二人、三人の娘に一人の養子をもらう例もある。それが一間きりの狭いところで暮しているので、どちらの側でも姦通は遠慮なく公然と行なわれる。こういう風習の中では姦通は意義をなさない。つまりは、なにも教えられたことのない子供のように、天然自然の生活をしているので、慎しみとか行儀とかいう観念は、かつて生活の仕組みに入ったためしがないのである。
カンプゥタンには肉をとって食うほど羊の数がないので、ツァムバ(炒麦)やバタ茶の
村端の峯々は吹雪や雪雲にとじられ、いつ見ても暗澹たるようすをしていたが、五月の中旬をすぎると、モヤモヤと立迷っていたものが吹っ切れてだしぬけにドーラギリの全貌があらわれた。ギザギザの尾根がいくつか重なった山襞のむこうに、のけぞらないと頂が見えないような氷の峯が、信じられないほどの高さで立ちあがっている。いままでドーラギリの頂上だとばかり思っていたのは、麓の山裾をとりまいている小山の尾根なのであった。
五月の終りごろ慧憧がやってきて、トルボ・セーへ行く気であるなら仕度をはじめたほうがいいという。トルボ・セーはドーラギリの向側、十日ほどの行程の谷合に隠れた山間の霊場で、一切経の写経はそこの精舎にあるのだが、ドーラギリは五月までは吹雪で通れず、六月の末からは雪が軟くなってこれまた通れなくなる。七月の末にはもう雪が降りだし、それが翌年の五月までつづく。ドーラギリ越えのできるのは五月中旬から六月末まで、一年のうちわずか四週間だけだから、行ったら来年の四月まで帰って来られない。それが承知なら山案内をさがしてやるというような話であった。頂の平らなあたりに、雪のない岩の肩がかすかに見える。あそこを越えるのだと慧憧がおしえた。この村がすでに一万六、七千尺の高地だから、ドーラギリの頂上は少なく見ても二万七、八千尺はあろう。そういう高いところを人が通れるとは、むしろふしぎなくらいだった。
一週間ほどすると、ドーラギリ越えをしてカンプゥタンにおりてくるものを見かけるようになった。仏教の隠れ信徒か、前科者か、あぶなっかしい身の上で、どのみち道関は通れぬてあいばかりである。ラッサから来たというのがいたので、それとなくようすを聞いてみると、ラッサから道を北にとり、チャンタンの高原を百日ばかり西へ、マナサロワール湖の岸をまわってそこから南へ下り、西蔵とネパールの国境にある山脈を越え、南へ二十日ばかり歩くとこのドーラギリにいきあたる。話をつづりあわせると、だいたいそんなことになる。警兵はいないのかとたずねると、警兵どころか、四十日にいちど遊牧民の天幕に出あえばいいほうで、とても人間の姿などは見られるわけのものではないという。
いずれはドーラギリを越えなくてはならない。理由をこじつけるのに難儀することだろうと苦にしていたが、このうえもない旅行の口実であって、公然と食糧の用意ができるのはありがたかった。さっそく仕度にとりかかり、食糧として小麦粉、炒粟、乾葡萄、塩、唐辛子粉、榧の油、木椀に木匙、羊の長毛を内側にして縫いあわせたツクツク(寝袋)、
村端の氷河を渡って
二日目はよく晴れて軟風が吹いた。氷河を三つばかり越えたところでドーラギリにとりつき、日暮までいちども休まなかった。三日目は東北へ山を巻きながらのぼりづめにのぼった。越えるはずの東の雪鞍は、なお半里ほどの高さで見あげるようなところに聳えている。手早く昼食をし、岩隙のある削岩壁にとりかかった。たいへんな高度にいるので、ちょっと身体を動かしても肺が膨れ、心臓が口からとびだしそうになる。雪を含んだ烈風が真向に吹きおろし、睫毛に雪花がついて眼がふさがってしまう。帽子の耳蔽のなかで
夜が白むのを待って、反対のほうへ鞍部をさがしに出かけた。鉛のように重い足をひきずりながら一時間ばかりのぼると、凍った薄い空気にやられ、山に馴れたテンバまでが咳きこみだした。見るとテンバの唇が無くなっている。顔も唇もおなじような土気色になり、唇が朝顔の蕾のように口のなかへすぼみこんでいる。いうにいえぬ異様な顔つきだったが、それをなんだと思う気力もない。空気に飢え、いまにも窒息せんばかり。一歩ごとに四つから十ぐらい呼吸し、ものの五歩も歩けば、いちど停って休まないと心臓が破裂しそうになる。ものを考える力も判断する力もなくなって、
氷河の床まで這いあがると、狭いところをぬけてくる狂風が、地上にあるものは一切合財吹き払ってしまおうという勢いで、呵責なく吹きに吹く。氷河の終ったところから岩の割れ目をたどり、のろい苦しいのぼりを五分ほどやって休み、五分ほどのぼってまた休むという調子でうごめいているうちに、手足が痺れて岩についたまま動かなくなった。ひとりでに口が開いて、下唇がダラリと垂れさがり、眼にはいるものがみな二重に見えて焦点が合わない。すぐ上に、ザラメ雪の切通しが招くように光っているが、体力が尽きはてて上るも下るもできないことになった。
昨日までは、はるか下にカンプゥタンの村端の氷河が白いリボンのように光っていたが、今はもう青黒い無限の空間があるばかり、手を離せば一万尺の下へ逆落しである。そういううちに睡気がついてウトウトする。智海は岩の出っぱりに力なくしがみつきながら、これでもう万事休したと、心をきめて臨終の願をたてた。「
二時間ほど降った岩曲で死んだようになって眠り、翌日一日下って、山腹のサンダーという寒村で泊った。三日ばかりそこで休養してから、厚く
山は北側へゆるくなだれ降り、西蔵高原の山々が八重波のようにおし重なっている間を、一筋、河が白く光りながら流れている。後を振り返ると、二十日前に越えてきたドーラギリが、ヒマラヤの氷壁の上に架空のような唐突な山容を見せ、雲をつくばかりにぬきだしている。神戸を出発したのが卅年の六月廿六日、その日は卅三年の七月八日、これという災厄にもあわずにここまで辿りついたが、これから先になにがあるか、予想もつかぬむずかしい旅であってみれば、こんなことで安心してはいられない。地図を見ると、目ざすマナサロワール湖は、ここから西北になっているので、磁石を見ながら山を降りはじめた。
ネパール側は、陽のおもてで雪がすくなかったが、西蔵側は、陽の蔭になるのでいちめんの雪。それも油断のならない軟雪で、踏みこむたびに膝まで埋まる。中腹ぐらいまで降ると、山裾に遊牧民の天幕が三つばかり見える。こういう
翌朝、天幕を出てみると、百七、八十貫もありそうな牛のような異様なけだものが三十頭ばかり草を食っている。身体は密毛で蔽われ、額から波のように垂れた長い毛が顔を包みこみ、眼鼻もわからないほどになっている。尾は絵にある唐獅子にそっくりで、草を噛む音は櫓をこぐよう。眼つきに凄味があって、いまにも突っかけて来るのではないかと思われるくらいだった。これは西蔵高原の不毛の寒地に野生しているヤク(牛)という動物で、北部ではもっぱら駄用乗用に使役し、肉と乳は食料、皮は沓に、毛は織物に、糞は乾かして燃料にする。見かけは恐ろしいが牛よりも温柔だという。そう聞くと、これに荷をつけてゆけば長旅の苦労は半分に減ると思い、乾隆銀幣(西蔵銀貨)を出してたのむと、金などはいらない、マナサロワール湖の手前の河のそばに弟の天幕があるから、そこへ置いて行けばいいという。礼をいってヤクを一頭借りうけ、その背に荷を預けて北に向いて歩きだした。玄奘三蔵のお伴はお猿と猪だったが、こちらはヤクかと可笑しくもあった。
小麦粉を捏ねて塩と唐辛子粉をまぶして食い、夜は斑雪の岩地に寝て、十日ほどすると最初の川にいきあたった。西蔵一の大河ブラマプートラの上流で、氷河の溶けて流れだす一万六千尺の高地の川を、零下十度の寒風の吹きすさぶさなかに胸まで入って渡り、北へ二十日、高地の雪を喰いすぎ、肺の凍傷にかかって血を吐き、人間の影のようになって弟という天幕のある河原に着いた。
ヤクを返すと、天幕のあるじはあわれに思ったかして、山羊を供につけてくれた。ギャトーという町の入口にムヤツォという男がいるからそこへ置いて行けという。翌朝、どれほどの重さもない荷を山羊の背につけてまた北へ四日、マナサロワール湖は近いと聞いたが、行けども行けども不毛無人の原野である。氷河がおしだしてきた漂石と凍土は、何万年かの間、酷烈な寒気に傷められ、微塵に分解をとげて灰のように軽くなり、風が吹くと砂霧になって浮遊する。動くものといえば地の上を流れる雲の影と砂の波紋。万物涸れつくして物音一つなく、死相をおびて寂漠と静まりかえっている。一滴の水も一片の日蔭もないチャンタンの原を、一点の塵となって漂っていると、ある日、猛烈な砂嵐が吹きつけてきた。一望無限の野面は荒天の海のように盛りあがり湧きたち、うねりかえし逆巻き、想像に絶した異様な波動を示しながら猛り狂う。智海は咫尺も弁ぜぬ砂霧のなかで藻掻きまわっていたが、砂の大波は後から後からうねってきて、あっという間に胸まで埋めてしまった。せめて山羊だけは助けようと抱きよせると、山羊は悲しそうな声で鳴きながら身を寄せてくる。智海は山羊をわが子のように抱きながら念仏をとなえていると、微妙のうちに風が変って、砂嵐が外れて行った。
三日後、ようやくマナサロワール湖のほとりへ出た。カン・リンポ・チェの霊山を対岸に見ながら僧房で夜を明かし、翌日、いよいよ東南ラッサの方へ最初の一歩を踏みだした。
踏附け道を辿ること百五十日、ラッサにつぐシカチェという大きな町を過ぎ、十二月二十七日、ギャトーに着いた。石造の家が多く、風俗も都風で、孤愁にみちた北西原の旅も終りになりかけている感じだった。ムヤツォという人を探して山羊をかえすと、かわりに騾馬を貸してくれた。ゲンバ・ラという山を降りた府関の前で弟が酒店をやっている。仮護照をもらうには区長の保証が要るが、弟は区長だから、それに頼めばよろしくやってくれるという。翌日、騾馬を曳いてギャトーを発ち、五日目に岩山の麓にある大弥勒寺という小寺で泊った。そこで明治卅三年も終った。
三月ほどその寺にいて、卅四年の三月十八日、最後の旅程にかかった。翌々日、ゲンバ・ラという急坂をのぼって峠の上に出た。眼の下に、四方、山にかこまれた平原がひらけ、離丘が島のように二つ浮いている。一つは富士山に似た美しい丘で、一つは頂上から中腹まで金の天蓋をのせた白堊の殿堂がひしめいている。大勢の探検家が、一と眼見ようと熱望しながら果さなかった、これがその聖都かと思うと、そこへ足を踏み入れるおのれの喜びよりも、その人達の遺憾を偲んで、思わず涙をこぼした。
坂を下ったところが府関の第一門。関門の前に酒を売る店がある。あるじは気のよさそうな赧ら顔の肥大漢で、保証をひきうけてくれたうえ、五人の連証まで探してくれた。そうした都合で第一関はわけなくすみ、そこで川を渡って、対岸の第二関、第三、第四、第五とその日のうちに通りぬけ、それをふしぎとも思わず、計られたとも知らずに、安泰な顔でラッサの市中へ入りこんだ。
市中の家は二階、三階の石造りになり、正面に石灰を塗っているので、遠目にこそは美しいが、いったん市中へ入ると、町筋には糞尿が流れ、泥濘は膝を没するばかり。これが聖都かとおどろかれた。大きな店はバルコルという通りに集まっているが、どの店にも客引のようなものがいて、やかましく通行人を呼びとめる。そういうごったがえしのなかを、黄衣のラマ僧が悍馬を乗りこなしながらこれ見よがしに疾駆している。町はずれの僧舎に宿をとり、さっそく一切経を探しに出たが、大道に経本をならべた、露店といった体裁の店ばかりである。西蔵一切経はとたずねると、そういうものは注文主が紙を提供し、版本代と刷り代をだして刷らせる。文典学者の出た寺にはそのほうの版木、修辞学者の出た寺にはまたそれと、律部も論部もバラバラに保蔵されているので、順々にまわって版木を借り集める。遠い寺にある分はべつに旅費を払うのである。
三日ばかり広場に通いつめ、あるだけの経本屋にあたっていると、還俗したラマ僧といった廿四五の男がそばへ来て、西蔵大蔵を探しているということだが、お望みならいい蔵経家を紹介する。紹介料として乾隆十枚いただくという。それくらいな金ですむならと、いうままに金をやると、これからすぐ行きましょう、むこうは暇なひとだからと、先に立って歩きだした。
屋根のかかった支那風の石橋を渡り、楡や柳の芽が青く萌えた法林道場の広い庭を横切って、その奥の大きな邸の前へ行った。どういう人の邸かとたずねると、これは
拱門の檐に吊した銅鑼を打つと取次が出てきた。案内してきた男がなにかささやくと、取次は智海を連れて長い廊下を幾曲りしたすえ、赤地模様の絨緞を敷きつめた部屋へ案内した。眼もあやな色とりどりの毛氈をかけた大きな臥牀に、金襴の職帯をつけた五十五、六の温和な顔をした大人が閑臥し、阿片卓をひきつけて阿片を喫っていた。
智海は入口で三礼して片肌脱ぎになり、三歩進んで銀幣の入った巾着を卓に置き、率直に素志をのべると、大臣は「それはお安いご用。さっそく係りのものに手筈をさせるから」といった。
大臣の上機嫌をそこなうものはなにひとつなく、あれこれと愛想をいってから、北清事変の話に移った。拳匪が北京の永安門で日本の外務書記生と独逸公使を惨殺したことから北清事変が起き、英、米、仏、独、露、日、墺、伊、八カ国の出兵となり、清国政府は陜西省の西安へ蒙塵したが、昨年の十二月、列国公使会議から十六カ条の要求を含む議定書を突きつけられ、総理衙門大臣の那桐と皇弟醇親王が、日本と独逸へ謝罪使で行ったなどといった。この三年にそんな騒ぎがあったことは知らなかったが、なんのためにこんな話をするかと怪訝に思っているところへ、廿四、五の品のいい男が入ってきて、用意ができたというようなことをいった。大臣はうなずいて、「これは
和堂に連れられて宏大な法皇宮のわきの石段をのぼり、大仏殿の鼓楼の前へ出た。境内の石畳を五十間ほど行き、どっしりした石造の建物のなかへ入った。和堂は六畳ぐらいの小房がいくつもある間を通り、突当りの大きな石の扉を開けた。眼が暗さに馴れるにつれ、五十畳敷ほどもあろうかと思われる仄暗い石室の三方の壁の書棚に、経本と経巻が、黄ばんだ帙と朱塗の軸に古代の薄明を見せて天井まで積みあげられている。一切経はというと、仏の教と語を翻訳した、経部、律部をおさめた「甘珠爾」正蔵千四十四巻、仏の教示を翻訳した論部をおさめた「丹珠爾」続蔵四千五十八巻がそれぞれ経題と奥書がつき、十巻ずつ勅訳の黒印を捺した青い布に包んで左右の棚にいっぱいになっている。
智海が陶然と法悦にひたりこんでいると、和堂が「こちらへ」といって隣の房へ連れて行った。十畳よりはやや狭い、窓一つだけある薄暗い部屋のまわりの壁に沿って、何千束とも知れぬ麻紙が厖大な量に積みあげられ、窓の下の経机の上に筆墨と青銅の油壺のついた油燈が出ている。この紙はとたずねると、和堂は「これはあなたが生涯にお使いになる紙です」といい、甘珠爾の第一巻を経机の上に置いて退って行った。
経典は法帖のような体裁になり、六万字ばかりの経文を幽玄な草体で横書きした、横長の古代
智海の算出どおり、正蔵千四十四巻は八年後の明治四十一年、卅七歳の四月八日に写了した。前年の秋から膝関節に炎症をおこしていたが、四十一年の正月匆々
智海の入蔵は、ネパールの国境を越えたときラッサの法務局に通牒が行っていた。先年、密入国者にたいする刑統が変り、入国したものは、境外へ出さず、生涯、国内に監置することになった。ヤクから山羊、山羊から騾馬と、つぎつぎに生きた送状をつけてやった、西蔵人の腹黒いやりかたを、智海は知っていたろうか。智海の「西蔵記」には、本師釈迦牟尼仏の広大な法恩を古朴な筆致で述べているだけで、この点にはすこしも触れていないのである。